イエスはなぜ自ら磔を選んだのか。

イエスは数々の途方もない現実の創造を行った。

「イエスはガリラヤ湖の向こう岸に渡られ丘に登られると、多くの群集が後から後から丘を登ってきました。イエスはフィリポに「この人たちに食べさせるにはどこからパンを買ってきたらいいか」と尋ねます。フィリポは「一財産あっても無理でしょう」と答えました。別の弟子のアンデレが少年の持っていた5つのパンと2匹の魚をイエスに差し出しました。イエスは群集を座らせました。男だけでも5千人はいましたが、イエスが祝福されて、それを分配すると皆が満腹するまで食べることができました。そして残ったパンくずを集めると12のかごいっぱいになりました。」ヨハネによる福音書6章

「カナでの婚礼」ではなくなったワインの代わりに、水をワインに変えた。

人びとを癒したのは数知れず。

これほどの、現実の創造が行えるイエスに、選べない現実はなかった。

ユダは、イエスを捉えて処刑したい支配者達に銀貨30枚で買収され、彼らをイエスのいる場所に案内し、イエスにキスすることで、誰がイエスなのかを彼らに教えた。

「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。」(ルカ22:47-48)

イエスは、そのことを予知していたわけです。

また、イエスは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを『知らない』などとは決して申しません」『マタイによる福音書』26章35節)と誓うペテロに対して、

イエスは「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」(『マタイによる福音書』 26章34節)と予知しています。

そして、イエスが捕らえられ、弟子達が捕らえらはじめると、ペテロは逃げ回わり、見つかって「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」と問われると、
「何を言っているのか、私にはわからない」「そんな人は知らない」と答えた。
いや「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言われる。
さらにペトロは「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。すると鶏が鳴いた。


ペテロは、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう。」というイエスの言葉を思い出し、我に返り激しく嗚咽する。

イエスは、ペトロが鶏が鳴く前に、今言った誓いを裏切ることを、しかも3回裏切ることを正確に予知していた。

これだけ未来に起こることを知り、望む現実を創造することができたイエスが、ただ単にユダに裏切られたくらいで、不本意な磔にあうことなどない。

絶対にない。

イエスは避けようと思えばいくらでも磔を避けることができた。

彼はそのくらいの見者であり、現実の創造者だった。

自らの磔を予知し、それを避ける行動をとることなど、何でもなかった。

それなにのなぜイエスは、あんな苦しい、「お前は神の子ではないのか?神の子がこのざまか?」とあざけられるような道を自ら選んだのか。

それが私の謎だった。

イエスの目的はただひとつ。

ひとの魂は永遠であり、肉体の死をもって失われるものでは決してないこと。

それを誰でもわかる形で伝えるためには、誰もが確認できる周知の事実となるような方法で、肉体の死を呼ばれるものを経験し、復活を果たすほか道がなかった。

彼は自分自身では、誰の魂も永遠の存在であることを知っていた。

しかし、どれだけ彼が言葉を尽くして伝えても、彼の真意が伝わらなかった。

そこで彼はそれを誰にでもわかる形で身をもって示すしかないと悟った。

彼は神に祈ったに違いない。

「どうか私に道を示させてください」と。

あまりの彼の情熱に神は答えた。

このような方法があると。

それを知ってイエスは愕然としたに違いない。

なぜ私がこのような目にあわなけばならないのか。

もちろん神は強制はしない。

神に何の強制もない。

ただ求めに応じて道を示し、自由な選択に任せるだけだ。

そして、イエスは自分の完全な自由意思でそうすることを選んだ。

それが自分の望みであることを深く悟ったからだ。

そして、彼はあらゆることを予知しながら、あらゆることを避ける方法を知りながら、自らそれを選んだ。

イエスが望んだことはただひとつ。

ひとの魂は永遠であり、肉体の死をもって失われるものでは決してないこと。

それを私たちに伝えたいがためだけに、彼は自ら磔を選んだ。

それ以外に理由はない。

それ以外に彼の行動を説明できない。

しかし、ローマカトリックは、この文字通りイエスが命をかけて伝えようとしたことを葬り去った。輪廻転生を否定した。

「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを『知らない』などとは決して申しません」と誓った、その夜が明けぬうちに3度「そんな人は知らない」と言った人物が初代ローマ法王であるならしかたがない。

今復活しつつある初期のキリスト教の原点であるマグハマディ文書、弾圧されてきたグノーシス派の教えでは、はっきり輪廻転生を肯定している。

なぜ人がこれほどまでに争い、身勝手で、恐怖と不安に支配された存在であるのか。

それは生命(魂)が永遠の存在であることを知らないからだ。

誰もが死んだらすべてが無になるならば怖い、不安だ。

そしてどうせ無になるなら、生きている間、身勝手なことをすればいい。どうせ死ぬなら何を遠慮することがある、やった者勝ちではないか!

輪廻転生を否定すると、こういう考えはすべて「ある意味正しい」。

ところが人の魂は永遠であり、魂は永遠の旅路である。

みなすべて同じ神から創造された、神の一部であるとなると、とても人にひどいことはできない。

人になすことは自分になすことだからだ。

イエスは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と言い続けた。(ルカ6章31)

それは、生命(魂)が永遠の存在であり、みんな神から生まれたひとつの存在であるという理解に基づいている。

イエスはそれをみなに伝えたかった。

それだけが彼の動機だった。

そして彼は必ずそれを成し遂げるだろう。

今も彼はそれを成就し続けている。

アーメン(真に確かである)

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