【自分を信じるしかない】←「人の目が気になって仕方ない、人から何か思われることに耐えられない、でも人から好かれたい、嫌われたくない」

(長文です)

ご質問をいただきました。

(不登校の長男は)
中学は行きたくない、いや、行きたいが、勇気がでない、人の目が気になって仕方ない、人から何か思われることに耐えられない、でも人から好かれたい、嫌われたくない、高校は、私立の〇〇に行きたい、やってみたい。と言ってます。私と同じく自信がない。・・・
 非常に大きなポイントを言いましょう。
誰もが「自分がどう思われるか」を気にしていて「人のことなどそんなに気にしていない」
 誰もが「自分がどう思われるか」を気にしていて「人のことなどそんなに気にしていない」ということです(笑)
 自分自身を信じて生きる「しか」ないのです。
 
その理由を説明しますね。

 人は「移り気」

 それに人は「移り気」なんですよ。
 仮に多くの人にもてはやされて、ちやほやされたとします。
 それは気分がいいですよ。
 しかし、それに依存してしまっても「やはり自分を失う」んですよ。
 例えば、アイドル。
 うまく波に乗った人は「きゃ~っ」と騒がれますよ。
 ちやほやされます。
 しかしどんどん次の世代が出てきます。
 AKBとかもね。
 最初はおにゃん子クラブですよ。
 今は乃木坂46とか、欅坂46とか、どんどん出てきます。
 もう以前の人たちは見向きもされなくなります。
 どんどん若い人がでてきますからね。
 その時、脚光を浴びた「人の評価」に自分のアイデンティティを依存してしまうと、
 人の関心が移っていくと、「自分はもうダメだ。もう若くない。時代遅れだ。」と思いはじめます。
 そうやってアイドルはつぶれていくんですよ。
 そうした中で、自分の評価を「人の評価」でなく、自分の内部に求めた人は、トークであるとか演技力とか、そういう自分の内にあるものに磨きをかけ、そういう人だけが、バラエティーの司会とか、ドラマで生き残っていきます。
 それを「自分がどう思われるか」から関心を自分自身に移せなかった人は、一時は奇をてらったりして人の注目を浴びようとしますが、その「移り気」な人々の評価はいずれ去り、「私はもうダメだ」と思ってつぶれていくのです。
>人の目が気になって仕方ない、人から何か思われることに耐えられない、でも人から好かれたい、嫌われたくない

すべての人に「嫌われない」ということはしょせん無理

 誰でも人から好かれたいし、嫌われたくないですよ!
 しかし、すべての人に「嫌われない」ということはしょせん無理なのです。
 色んな考えの人がいますからね。
 私なんか7年半も友だった人たちから、「浄化できなくなった」という濡れ衣を着せられて自然に広場という掲示板に実名入りで「私〇〇は自己責任で榎本氏を裏切り者に認定します。神様に感謝です。」などと数百人に書かれたんですよ!
 そりゃあ、私だってずっと友たちだった人に、突然そんなことされたくないですよ!
 実の母にまで裏切り者認定されましたからね!
 そりゃあ凹みます。
 でもね。
 人がすることを止められないんですよ。
 私はその人じゃないから。
 私も裏切り者認定が始まった日から、今日までずっと「私は浄化できてるぞ!」とこのブログにも書いてきましたけどね。
 もうね。
 私にはどうしようもないことなんです。
 そりゃあ怒りましたよ!
 まぁこのブログを読んでもらえばわかりますけどね。
 しばらく腹の虫がおさまらなかった(笑)
 だって濡れ衣なんだから!
 そりゃ嫌ですよ。
 でも、それが濡れ衣であっても「怒り続ける自分が嫌」なんですよ。
 それもまたマイナス感情です。
 自分が怒りに捉われてしまうんです。
 それもやっぱり「人の評価」に左右されているです。
 人のいい評価であろうと、悪い評価であろうと、人の評価は、自分ではコントロールできないことです。
 私はその人じゃないから。
 人はコントロールできないんですよ。

自分にはどうしようもないことを思い煩うべきでない。

 ですから、自分にはどうしようもないことを思い煩うべきでないのです。
 自分にコントロールできないこと、自分にはどうしようもないことを思い煩うと「きりがない」のです。
 そうすると、自分にはどうしようもないことに、一生振り回されることになります。
 ですから、自分にはどうしようもないこと、すなわち、人の評価、人にどう思われるかは一切気にしてはいけないのです。
 だからと言って、人を切り捨てろとか、つきあうのをやめろとか言うんじゃないんですよ。
 「自分が自分でいることを許してくれない人」のことは気にするな、ということです。
 そして「自分が自分でいる」ことを許してくれる人、自分をお互いに利用しないし、利用されない、犠牲にしないし、犠牲にされない、お互いに裁かないし、裁かれない、「みんなちがって みんないい」が分かち合える人なら、大いにつき合えばいいし、お互いに思いやり、優しくし、大切にし合えばいいのです。
  しかし、そういう人とつきあっていても決して「自分の評価」を人に依存すべきではないのです。
 その人も「移り気」な人であることには変わりないし、信頼できると思っていても、いつかあなたを裏切り者認定するかもしれないのです。私の母みたいに!(笑)
 たとえ、自分の身内であっても、決して外部の評価に依存してはいけないということを身に染みましたね。
 ですから、たとえ親の評価であっても、外部の評価には違いないし、究極においては気にしてはいけないのです。
 自分の内面を見つめて、私は嘘は言っていない、母は間違っていると思えば、それを曲げちゃいけない。
 母に嫌われなくないからといって自分の真実を曲げ「ごめんなさい」と言っちゃいけない。
 そうすると嘘に屈したことになりますからね。
 自分自身が本当であると知っていることはたとえ数百人が違うと言おうが、実の母が違うと言おうが、自分の良心において「私は間違ったことは何も言っていない」
 私は私が浄化できいることを知っている。あなたはどうやって私のことを確かめたのか?
 と言い続けなければならない。本当のことを言い続けても受けいられらないなら、去らないといけない。そんな虚構に中に身を置くくらいなら、自分ひとりで真実を追求した方がましです。
 ですから、私は自分がコントロールできること、自分自身にできることに集中することにしたのです。
 私が「浄化できなくなった」というのは完全な濡れ衣ですし、そういう根拠のないことを確かめず数百人も実名で裏切り者認定を書かれるのは嫌でしたけど、もう私は怒るのはやめました。
 それは「私の勝手」な選択です。
 私は浄化できるし、「浄化できない」というのは濡れ衣だけど、私はもう一方的に彼らを許しました。
 もう悪感情はありません。
 理由なんてありません。
 ただ私がいつまでも怒るのが嫌だからですよ(笑)
 それが私の「好み」なんです。
 趣味と言ってもいい(笑)
 私が一方的に自分で選び自分で決めたことです。
 それで私自身とってももすっきりしました。
 今は「力の使い手」さんにもたくさん元自然の力の人が参加してくれています。
 今月(6月)の東京セミナーでもなつかしい自然の力でお会いした人がたくさん来てくれました。
 もうね。
 私は、ぜんぜん根にもってないので、「この人は元自然の力で、私を裏切り者認定した。」とかぜんぜん思わないですよ!(笑)
 もうそんなことはいちいち覚えてられません(笑)
 もうどうでもいい。
 そんなことはぜんぜんつまらないことです。
 だれかれ区別なく和気あいあいとお酒を飲んだりご飯を食べたりしました。
 もうみんな仲良しですよ。
 つまりね。
 人が何をしようが、自分を基準にして、自分自身がハートの喜びを感じることを、人の評価に左右されずにやっていけばいいと改めて痛感しました。
 そうすると何も問題ない。
 一番スムーズです。
 私は今でも究極のところでは、人の評価は気にしません。
 しかし、私を私でいさせてくれる人なら、どんな人でも耳を傾けますよ。
 そして真摯に対応しています。
 でも軸足はあくまで自分にあります。

 すべての人とつきあうのはしょせん無理

 そして、お互いに「みんなちがって みんないい」を尊重しあうなかで、それでも分かち合えるものがなければ別に無理することはないんです。静かに去ればいい。
 地球には70億人以上の人がいるんですからね。
 すべての人とつきあうのはしょせん無理は話なのです。
 人の価値観はそれぞれですから、人に自分をあわせていたら、精神分裂症になりますよ!
 例えば、ケンカ好きな人もいます。
 ケンカ好きな人はケンカ好きな人とケンカしてればいいんですよ!
 私は願い下げです。(笑)
 あなたは?
 だから、ひとそれぞれぞれなんだから、自分の「好み」でおつきあいすればいいんです。
 だからといって、自分の「好み」にあわない人をイジメたり迫害したりしませんよ!
 「みんなちがって みんないい」と思ってニコニコして眺めていたらいいんです。
 ケンカが好きな人は、ケンカが好きな人同士でどうぞ!
 ボクシングが好きな人は、ボクシングが好きな人同士でどうぞ!
 私は痛そうだから、遠慮しときます。
 だからってボクシングする人を迫害したり、いじめたりしませんよ。
 裏切り者認定したりとかね(笑)
 あ~彼らはケンカが好きなんだなぁ ボクシングが好きなんだなぁ。
 私は痛そうだから嫌だけど、「みんなちがってみんないい」私は遠慮しときます。
 と静かに離れていればいいんですよ。
 私もリュック担いで何百キロもスペインを巡礼したり、バリ島を自転車で回ったり、
 そんな歩いたり、自転車こいだりして何が面白いの?と言われればそれまでなんですよ!(笑)
 誰にも強制するようなものじゃないですからね。
 単なる「好み」なんです。

 すべては実は「好み」

 すべては実は「好み」なんですよ!
 そして自分の「好み」にあうことを楽しめばいいんです。
 人にあわせる必要などまったくないのです。
 自分の「好み」にあうことをすればいいのです。
 そして自分の好みではないことも「みんなちがって みんないい」と思っておくのです。
いいですね!
ですから「人にどう思わるか」などはじめから気にする必要はないのです。
「私はこれが好き!」と言ってどんどんやっていればいいんです。
そして「私もそれが好き!」という人がいれば一緒にすればいい。
そしてあなたが好きなことは、必ず好きな人がいますから心配することはありません!
必ず分かち合えます。
ですからあなたに必要なことは、自分の内面を見つめ、自分のハートの喜びを明確にして、
それをどんどん追及することです。
 それを人に依存せず、依存されず、犠牲にせず、犠牲にならず、裁かず、「みんなちがって みんないい」でやっていけばいいのです。
 ふぅ。
 まぁ要するに「人の評価を気にせず、自分のやりたいこと「自分のハートの喜び」だけを見据えてブレずにやれ!やり続けろ!ということです。
 それしかないんですよ!
 そして、自分を信じて生き続けますよね。
 そうすると実は人に信頼されるようになります。
 自分の魂、ハートからでることは唯一転生を超えて通じる、価値観なのです。
 人の顔色をうかがっていない人、常に自分のハートに正直な人は、言葉にブレがありません。
 言っていることが首尾一貫している。
 そうすると、それこそが信頼に値する性質なのです。
 外部の価値観に従ったり、人に合わせている人は「その場で適当に」しゃべっているだけなのです。
 ところが、そのことについて「自分のハートは何て感じるだろうか」と自分の胸に耳を澄ませ、自分のハートに素直な人は、非常に言葉が首尾一貫している。
 五年たっても、10年たっても、20年たっても、基本のところがブレることがない。
 だって、いつも自分に素直なだけだからブレようがない。
 結果として、人に信頼されます。
 まぁ人は自分にあるものを外に見ますからね。
 自分を深く信頼すれば、人からも信頼されます。
 それは同じことです。
 すべてはつながっていますからね。

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