横須賀に日露戦争、日本海海戦旗艦【三笠】を見に行きました。

日露戦争当時、日本以外のアジア諸国はみな植民地。

日露戦争当時、アジアで独立を保っている国はもはや日本しかなかった。

インドの綿産業は破壊され、清はアヘン漬けにされた。
タイは独立を保っていたが、周りを列強の植民地に囲まれ、列強の緩衝地帯として意図的に放置されていただけだ。

列強諸国がまだ植民地化できていない国は日本しかなかった。

その列強国ロシアと日本は対立。

日本はロシアに軍事力では圧倒的に劣っていた

日本が明治維新後急造した常備軍は20万人、一方ロシア軍は109万人。

ロシア旅順艦隊は戦艦7隻を中心とする43隻の大艦隊を旅順港要塞に温存し、ヨーロッパから戦艦8隻を中心とする29隻のバルチック艦隊を日本海に移動させはじめた。

対する日本海軍は戦艦6隻。

その後、機雷によってロシアは1隻、日本海軍は2隻の戦艦を失う。

日本海軍は戦艦4隻、ロシア旅順艦隊は戦艦6隻、バルチック艦隊の戦艦8隻が合流すれば、4隻対14隻となり、その事態はなんとしても避けなければならなかった。

ロシア旅順艦隊を陸軍の乃木希典が壊滅させる

陸軍の乃木希典は、頑強な近代要塞と化していた旅順の203高地を激戦(日本陸軍死傷者6万数百名人、死者1万5千数百名)の末に陥落させ、旅順港にこもっていたロシア旅順艦隊を陸から砲撃し壊滅させる。
勝利した乃木は、熱狂する国民の大歓声迎えられて凱旋した。

しかし、乃木は

「幾万の将卒を犠牲としたることの 悲しくも亦(また) 愧(は)ずかしく
今更何の面目あつて 諸君と相逢ふの顔(かんばせ)かあらん」

との言葉を残し、「朕が生きている内はそれは許さん」と慰留された明治天皇の大葬の礼の日、割腹自決した。

T字戦法の立案

乃木のロシア旅順艦隊壊滅後も、日本海軍は4隻の戦艦を中心に、戦艦8隻を中心にするバルチック艦隊を破らなければならなかった。

戦艦は正面に対しては前の主砲しか使えないが、横方向に対しては前後の主砲や副砲を最大限に生かすことができる。

もし、戦艦4隻を中心にする日本海軍と、戦艦8隻を中心にするバルチック艦隊が並列状態になって戦闘を行うと、砲門数で劣る日本海軍は不利になる。

そこで参謀の秋山真之は三笠の自室にこもって4回も作戦を書き直し、故郷の伊予村上水軍の兵法書にヒントを得てT字戦法を編み出す。

バルチック艦隊を引き付けたうえで目前で大回頭し、進路に立ちふさがって側面の砲門からバルチック艦隊の正面に攻撃を集中し、砲門数で優位に立つ戦略である。

連合艦隊司令長官の東郷平八郎はこの秋山の作戦を了承する。

日本海海戦

1905年5月27日午前5時5分、

哨戒中の「信濃丸」がバルチック艦隊を発見し、旗艦三笠に「敵艦見ユ」と入電。

東郷平八郎司令長官は直ちに出撃命令を下す。

6時21分、三笠は「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と大本営に打電。

13時39分、対馬沖。日本連合艦隊は煙突に黄色い装飾をしたバルチック艦隊を正面に視認。戦闘旗を掲げ戦闘開始命令を下す。

13時55分 両軍の距離12000m。旗艦三笠はZ旗を掲げる。

Z(アルファベットの最後、後がない)に割り当てられた信号は、

「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ。」

14時02分 両軍の距離10,000m。 これより主砲の射程距離に入る。

14時05分、両軍の距離8,000m。 副砲も射程に入り始めるこの距離で、東郷は右手を挙げ、左へ150度の大回頭を命令した。

これが三笠の艦橋。一番船首側のプレートが東郷司令長官、左手前が参謀秋山真之の立ち位置。

戦闘中、東郷はこの艦橋の立ち位置から動くことはなかったという。

(実際ここに立ってみると盆踊りのやぐらくらいの狭いスペースであり、防護壁も何もない吹きっさらしだ。

三笠の艦材からこのようなものが作られるほど砲弾が雨あられと降る中、敵の砲撃が集中する旗艦三笠正面のお盆やぐらで体をさらして立ち続けることがどれほどのものであったたことか・・・)

「取り舵いっぱい」の命令は伝声管を通じて直下の操舵室に伝えられた。

船は回頭中、船体が傾き、船の向きが刻々と変わるため、砲撃できない。

150度の大回頭を終え、再び直進するまで攻撃を受ける一方となる。

射程距離内に入ってからのこの大回頭は捨て身の戦略だった。

実際、敵の砲撃は旗艦の三笠に集中した。

東郷はたとえ三笠が損傷を受けても、後続の戦艦が大回頭を終えれば勝ち目はあると見ていたようだ。

当時のエンジンは石炭であり、SLのように石炭をシャベルで炉に入れ、最高度に燃焼するようくべるのは職人業だった。

下で再現された映像で、煙突からのもうもうたる煙に船底の機関士の奮闘もしのばれる。

機関士の奮闘でロシア海軍が最大船速10ノットのところ、日本海軍は15ノットを出した。

14時08分 バルチック艦隊砲撃開始。

14時12分 大回頭を終え、日本連合艦隊砲撃開始。

「この三 四分に飛んできた敵弾の数は、少なくとも三百発以上で、それが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打ち出さぬうちに、多少の損害も死傷もあったのだが、幸いに距離が遠かったため、大怪我はなかったのである。」

「午後2時12分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾…、午後2時45分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分かれた時の対勢である。その間実に三十五分で正味のところは三十分にすぎない。…皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。」

(秋山真之著『軍談』より)

日本連合艦隊砲撃開始後6分、

14時18分、バルチック艦隊旗艦、戦艦スワロフ炎上。

15時10分、戦艦オスラビア沈没。

・・・

最終的に戦闘は2日間に及んだ。

バルチック艦隊戦艦8隻のうち6隻沈没、2隻は日本海軍が捕獲(降伏)したのをはじめ、

バルチック艦隊合計29隻のうちウラジオストク港に逃げ込めたのはわずか3隻。
ロシア側の戦死者4545名、捕虜6106名。(捕虜の多くは日本海軍が海から救出。)

ロシア海軍は壊滅し、帝政ロシアはやがて滅亡する。

対する日本海軍は戦死者107名、失ったのは水雷艇3隻のみだった。

この日本海海戦によって、日本はアジアで唯一植民地化をまのがれ独立を守った。

ペリー来航後50年でよくぞここまで来たものだ。

あ~ 植民地にされなくてよかった!

三笠は横須賀に保存してありますので、ぜひ一度ご覧ください。

この日本海海戦の模様を歌った当時の軍歌はこちら。

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