【幸せな人生を歩くための、ただひとつのシンプルな方法】変えようと思っていない相手も、勝手に変わってくることが多いこれが人間関係の奥義

右半身の不調も回復してきた「力の使い手」のオスカルからメールをいただきました。

右半身の不調も回復してきたオスカルでーす。
(だれがやねん⁉︎と、いうツッコミには聞こえないふり(^_^;)

今日も楽しく浄化人生を歩んでおります。

先日の休日に、私の鬼門である社長主催のイベントをお手伝いしてきました。バカバカしいイベントですし、社員みんな嫌がってブーイングだし、私も絶対イヤ、と思って今まで反対してきました。

でも、なんだかね、自分でも不思議なんですが、急に気が変わったのです。

今まで、社長を含めてイヤな人や変なお客さんとでも、なんとかうまく接していこうと長年努力してきました。
そのためには本を読んだり、友人と語り合ったりして、どうしたらいいのか考えました。

宗教関連の本には、愛をもってすれば、どんな相手ともわかりあえる、というようなことが決まって書かれてあります。

私もなんとかそう実践しようと頑張ってきました。イヤな社長にも、妙なクレームつける失礼なんとか客にも、私が優しく対応すればわかってもらえる、と信じ、それがかなわないときは、まだまだ人間ができてないなーと、反省してました。

だって、賢そうな本に、偉い人達が、書いてあるんですもん。
左の頬を打たれても、右の頬を差し出さなければ、と思ってきました。

だけど、やっぱりできないときがある。
だって、、、
大嫌いなんだもーん!社長なんて!
とんでもない客もいるんだもん!

ところが、榎本さんのブログ読んだりしてるうちに、私はまだまだ大発見をしたのです!

私は無理やり、相手を愛そうと思ってました。
それ、無理です。
だって私の中に愛が無かったんですもん。
愛に満ちたイエス様が、右の頬を差し出すのと、愛が枯渇した私が差し出すのとでは違うのです。

最近、自分を大事にして生きています。男性性も意識しなくなり、肩の力も抜けてきました。
そんななか、自分でも不思議なのですが、ふと、社長の手伝いしてやろうかなぁ、と思うようになりました。相変わらずイヤなヤツだけど、いいとこもちょっとはあるよなぁ、と昔してもらったことなど、思い出しました。
それで社長も喜び、スタッフたちもまるく収まり、私も嬉しくなりました。

はいはい、それくらい私がなんとかしてやるよ、って苦笑しながらできるようになりました。

宗教でも、自己犠牲は尊いというようにいわれますが、多くの人は解釈まちがってると思います。
マザーテレサが、イエス様が、すごいのは、愛に満ちていて、相手の為に身を捧げることが、これまた彼らの至福だったからだですよね。

宗教を考えてもどうもしっくりこなかった私が、榎本さんのヒントでようやくすっきりしました。

あ、ひとつ質問です。

こうやっていると、変えようと思っていない相手も、勝手に変わってくることが多いのですが、それはどんな仕組みなんでしょうか?
最近、社長も機嫌よく、いい人なんです。 オスカル( 2017年5月28日 20:57)

>だって、賢そうな本に、偉い人達が、書いてあるんですもん。
>左の頬を打たれても、右の頬を差し出さなければ、と思ってきました。

>だけど、やっぱりできないときがある。
>だって、、、
>大嫌いなんだもーん!社長なんて!
>とんでもない客もいるんだもん!

もう一方の頬を差し出すのではなく、「NO!」と言わなくちゃいけない。

もちろんそんなことはしなくていいんですよ!

ご存知のように世の中には残念ながら、大きな声を出して人を自分の利益になるように操作しようとする人がいます。

そういう人は大きな声を出しますよ!文句もいいます。

お前が間違っていると言います。

いかに自分が正しいか、ありとあらゆる決まりや権威をかさに来て、あなたを説得するでしょう。

左を頬を打たれたわけです(笑)

で、あなたが右の頬も差し出したとしましょう。

相手は「おお、こいつはよく言うことを聞く便利のいいやつだ」と思うんですよ。

もう相手が大きな声を出して、あなたは頬を打たれ続けるという力関係が成立しました。

相手にとってこんな便利のいいことはないんですよ!

ですから、例えば夫婦関係において、ご主人、あるいは奥さんが大きな声を出してもう一方に言うことをきかけます。

そういう力関係というのは、一方が「もう嫌だ」というまでどこまでエスカレートしていくんですよ。

「NO!」というまで続きます。

ですから、もう一方の頬を差し出してはいけません。

「NO!」と言わなくちゃいけないんですよ。

それは私はあなたの便利屋じゃない。ひとりの自由意志をもった人間だ!という宣言なんですよ。

>愛に満ちたイエス様が、右の頬を差し出すのと、愛が枯渇した私が差し出すのとでは違うのです。

イエスも時に激怒して、鞭を手にして金をまき散らし、台をひっくり返している

そして時には鞭を手にして、両替人の金をまき散らし、台をひっくり返しています。

過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

ヨハネによる福音書21322

イエスは誰にも従属していない強い人間ですよ。

誰かに従属している人が、左の頬を打たれたら右の頬も差し出したのではただの奴隷です。

イエスは違います。

ユダヤのどんな高位の神官に対しても自分の意見をはっきり言えた。だから煙たがられ最終的に磔にされるわけですが。

誰かの顔色をうかがってヘコヘコするような人間ではないのです。

「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の真意は、自分を隷属の立場から対等の立場に変えろという意味

「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」(マタイ福音書第5章)の真意は、自分を隷属の立場から対等の立場に変えろという意味です。

当時卑しい身分の奴隷を殴る時、「手の平」で殴るとけがれると考えられ、「手の甲」で殴ったのです。

つまり相手は利き手の右手の甲で、向かい合う自分の右頬を殴った。

その時、左頬を差し出したなら相手は返す手で左頬を「手の平」で打たなければならない。

「手の平」で打たせたのなら、もうこれは「対等」の立場に立ったわけです。

私はあなたの奴隷ではないということです。

これは当時支配階級だった人には大変屈辱的ことだった。

「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の真意は、相手に媚びへつらえという意味ではなくて、左頬を「手の平」で打たせ、もう私はあなたの奴隷ではない!と宣言しろという意味なのです。(キリスト教「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の真意とは!? ~ハーバード大の講義でわかった意外な解釈~

「神のもとでは人類は平等に創られた」と説く、イエスなら当然の教えです。

自分を隷属から解き放つために、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」と教えたのです。

宗教でも、自己犠牲は尊いというようにいわれますが、多くの人は解釈まちがってると思います。

>宗教でも、自己犠牲は尊いというようにいわれますが、多くの人は解釈まちがってると思います。マザーテレサが、イエス様が、すごいのは、愛に満ちていて、相手の為に身を捧げることが、これまた彼らの至福だったからだですよね。

そうです。

それは彼ら「自らの意志」でした。

誰かの圧力でそうしたのではないのです。

彼らに指図できる人は誰もいませんでした。

マザーテレサも、イエスも誰にも隷属していないですよ。

彼らは自分の独自の道をひとりで歩いています。

とても強い人間なのです。

そして、その強さから来る人の理解、人間の弱さを理解しているイエスが、その途方もない強さと人の理解と愛でもってしてはじめて、自分を磔にした人々に対して、

「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)

と言えたのです。

イエスは当時の支配者の、限られた理解による自分の利権を守りたい利己的な「弱さ」を完全に理解しており、真実を理解できないこともわかっていました。磔に際してイエスはその彼らに理解を示したのですよ!

驚異的なことです。

イエスは完全に自分が肉体を超えた存在であることを理解していました。

イエスの肉体を磔にしたところで、自分は何も傷つかないことを完全に理解していました。

もし自分は肉体がすべてであり、肉体が死ぬとすべてが終わると考えていたなら、苦痛と恐怖に打ちのめされていたことでしょう。

しかしイエスは磔に際して、自分を磔にした人々に対して理解を示し、愛を送るほど強かった。

途方もない強さです。

だから実際にイエスは復活し、自分が肉体を超えた存在であることを示しました。

それが12使徒を振るい立たせ、キリストの教えを広める原動力となったのです。

変えようと思っていない相手も、勝手に変わってくることが多いこれが人間関係の奥義

>こうやっていると、変えようと思っていない相手も、勝手に変わってくることが多いのですが、それはどんな仕組みなんでしょうか?
最近、社長も機嫌よく、いい人なんです。

素晴らしい仕組みを体得されました!

これが人間関係の奥義です。

実は相手を変えようとしたのではないのです。

「最近、自分を大事にして生きています。男性性も意識しなくなり、肩の力も抜けてきました。そんななか、自分でも不思議なのですが、ふと、社長の手伝いしてやろうかなぁ、と思うようになりました。」と自分が変化したのです。

自分が変化したのです!

自分が変化したのです!

自分が変化したのです!

もう私はこれを100回くらい書きたい気持ちですが、以下略。

自分が変化したら、自分の世界も変わるのです。

自分の世界とは自分の人間関係や経済的な豊かさなど、自分の世界のすべてですよ!

それ以外に「自分の世界」を変える方法などないのです。

すなわち、自分を変えるしか、自分の人生「自分の世界」を変える方法はないのです。

それなのに私たちは人を裁き、相手を変えようと大きな声をだし、文句を言い悪戦苦闘している。

そうしている間は、自分の人生は何も変わらないのです。

ふと、自分の気づきが深まり、理解し、「肩の力も抜けてきて、自分でも不思議なのですが、ふと、社長の手伝いしてやろうかなぁ」と思った時、初めて自分の世界が動くのです。

自分が変わったからですよ!

自分の人生のキャスティングボードはすべて自分が握っているのです。

自分の世界は自分ですべて変えられるのです。

それは「自分が変化すること」を通じてです。

それ以外にはあり得ません。

自分の世界とは、今の自分の反映しか過ぎないのですから。

その感覚を体得されました!

素晴らしいことです。

これが人生の奥義です。

いかに多くの人が自分の周囲を変えようと悪戦苦闘して、長年何も変わらず苦悩の人生を生きていることか!

なぜなら「自分は何も変わっていない」からです。

相手に不満を思ったり、文句を言ったりする無駄なことをやめて、自分の変化に取り組めば、そして理解を通じて自分が変わったなら、それに応じて「自分の世界」は変化します。

変化せざるを得ないんです。

それが宇宙のしくみです。

それが【量子物理学の二重スリット実験】が教える、あなたの気づき(観測)があなたの世界を変えるということです。

「相変わらずイヤなヤツだけど、いいとこもちょっとはあるよなぁ、と」相手に対する見方(観測)が変わったのです。

すると世界がその見方(観測)に応じて変化したのです。

自分の世界をよりよい世界にしたければ、「いいとこもちょっとはあるよなぁ」とよりよい見方(観測)にすればいいだけなんですよ!

それだけです。

これが、幸せな人生を歩くための、ただひとつのシンプルな方法です。

幸せな人生なんて実に簡単です!(笑)

自分の見方(観測)だけなんですから!

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