【尾崎豊の卒業】「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

尾崎豊の「卒業」には以下のフレーズがある。

(3分43秒付近から)

生きるために計算高くなれというが、

人を愛すまっすぐさを強く信じた。

大切なのは何?

「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

彼は青山学院高校を卒業間近の3年生の1月に中退している。

その1984年に作成されたアルバム「回帰線」に「卒業」は収録されているから彼が19歳の時に書いた曲だ。

「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

彼が19歳の時にこの問いを明確に言葉にして発していたことに私は驚く。

これは地球に生きる我々人類にとっての究極の問い

これは地球に生きる我々人類にとっての究極の問いだ。

私たちは、幸せになりたい。

喜びにあふれて暮らしたい。

そのためには「愛すること」だ。

人であれ、仕事であれ、暮らしであれ、「愛すること」。

そうすれば私たちの人生は幸せだ。

それが幸せな人生を生きる唯一の方法だ。

しかし私たちは「生きるために計算高くなれ」と大人たちに教わった。

ところが私たちは「生きるために計算高くなれ」と大人たちに教わった。

生きるためにはお金が必要、

お金を稼ぐためには「いい会社」に就職した方がいい、

「いい会社」に就職するためにはいい大学に入った方がいい。

そのためにはいい高校に入った方がいい。

「今したいことを我慢して将来のために勉強した方がいい」。

「今は我慢して将来のためにすべきことをした方がいい。」

これが「生きるために計算高くなる」ということだ。

その通りなのだろう。

合理的な考え方だ。

多くの大人がそう言い、多くの親がそう言い、多くの学校の先生がそう言うのだからきっとそうなのだろう。

そう思って私たちは生きてきた。

「今は我慢して将来のためにすべきことをした方がいい。」

「今は我慢して将来のためにすべきことをした方がいい。」

中学、高校時代「今は我慢して」目標の大学に入った。

大学時代には「今は我慢して」「就職の準備にはげんだ。」

無事、目標の会社に入社できたら、「今は我慢して」早く係長になるために勉強にはげむ。

係長になったら「今は我慢して」早く課長になるために勉強にはげむ。

課長になったら「今は我慢して」早く部長になれるよう勉強にはげむ。

・・・

会社に勤めている間は退職後のために「今は我慢して」お金を貯めることにはげむ。

病気や老後の備えにのために「今は我慢して」保険や年金の掛け金もがんばって払い続けてきた。

退職したらもう年金しかないのだから、「今は我慢して」病気になった時のためにあまりお金は使わない方がいい。

極めて合理的だ。

「生きるために計算高くなる」とはそういうことだ。

で、「いつやりたいことをするのか?」「いつ生きるのか?」

で、「いつやりたいことをするのか?」「いつ生きるのか?」

やりたいことを「今は我慢」し続け、一体いつやりたいことやるのか?

「自分が心から愛すること」「喜びにあふれた人生」をいったいいつから生きはじめるのか?

自分を押し殺して、外の基準に自分をあてはめ続ける作業をいったいいつまで続けるのか?

常に将来のために「生きるために計算高く」あり続けたら、実際には「自分が心から愛すること」「喜びにあふれた人生」を生きる時間がなくなってしまう。

「生きるために計算高くなる」ことは「愛すること」をすることの「永遠の先送り」

「生きるために計算高くなる」ことは「愛すること」をすることの「永遠の先送り」なのである。

そのことに多くの人が人生の晩年になって気がつき、愕然とする。

もう病気や不幸から抜け出せなくなり、気力も情熱もない。

こんなはずじゃなかった。

現代人が直面する大きな問題の原因がここにある。

「生きるためにすること」に追われて「愛すること」をしてこなかった。

「生きるためにすること」に追われて「愛すること」をしてこなかった。

だから、私はいつも「喜びあふれる」ことをしてください「愛すること」をしてくださいと言っている。

なぜならそれが「幸せな人生」だからだ。

それが「生きること」だからだ。

ところが「生きるために計算高くなり」すぎ、「愛すること」をおろそかにし続けてきてしまった。

だって、大人は誰もみな「今は我慢して将来のためにすべきことをした方がいい。」と教えてくれたのだ。

「自分の愛することをしなさい」と教えてくれた大人は誰もいなかった。

大人は「生きるためにすること」をすべきだと教えてくれた。

大切なのは何?

「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

すべての大人は「生きるためにすること」をすべきだと教えてくれた。

もちろんそれは「よかれ」と思って言ってくれたことだ。

しかし「生きる」とは何なのか?

食べ物を食べ、排泄し続けることか?

「人はパンのみにて生くる者にあらず」だ。

人は「幸せになり」「喜びあふれる」ために生きている。

私たちは「愛するために」生きているのだ。

私たちは「愛するために」生きている

「生きるためにすること」とは、物質的肉体的身体の必要性を満たすことだ。

「愛すること」とは、私たちのハート、魂から起こる非物質的な現象なのである。

「愛とは何か」は今でも測定できず、科学になっていない。

「愛」は定義できない。

「愛」は捉えどころがない。

「愛」は合理的ではない。

「愛」みたいなあやふやなものは学校教育ではとりあげない。

ところが私たちの本質は肉体ではなく、魂なのである。

魂としての私たちが求め続けるもの、求め続けてやまないもの、それは「愛すること」なのだ。

大切なのは何?

「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

「生きるためにすること」とは物質的肉体的必要性を満たすことである。

「愛すること」とは、肉体の転生を越えて永続する私たちの本体である魂が永遠に求めることだ。

「愛すること」と「生きるためにすること」のバランスをどうとるかが、地球に生きる私たち人類の究極の問い

私たち人類は、「生きるためにすること」(=肉体的物質的必要性を満たすこと)と「愛すること」のバランスをとることを求められる存在なのである。

「愛すること」と「生きるためにすること」のバランスをどうとるのかが、地球に生きる私たち人類の究極の問いなのである。

大切なのは何?

「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

大人はそれを違うものだと教えてきた。

「今音楽なんか聞いてどうなる?もう試験が近い。わかってるだろ?今すべきことをしなさい。」

「愛すること」と「生きるためにすること」は違うと大人は教え続けてきた。

そこに私たちが直面する問題の根幹がある。

私たちは「愛すること」と「生きるためにすること」は違い、「生きるために計算高く」なる必要があると教えられてきた。

実際、それに従い、いい高校に入り、いい大学に入り、いい会社に就職した人は、いい家に住み、いいものを食べ、いい車に乗っているように見える。

しかし、外からは「物質的なこと」しか見えない。

その人の、

「愛」は見えない。

「喜び」は見えない。

「情熱」は見えない。

ハートに「愛」「喜び」「情熱」といった質が幸せ

ところがハートに、「愛」「喜び」「情熱」といった質を持っていることが幸せということなのである。

物質的に満たされても心は虚しく、不幸な人がたくさんいるのはそのためだ。

「愛」「喜び」「情熱」がハートにないから病気になり、不幸になる。

なぜなら「愛」「喜び」「情熱」こそが「生きる」ためのエネルギーだからだ。

私たちは「生きるために計算高く」なり「生きるためにすること」を優先するあまり、「愛すること」をおろそかにし過ぎてしまった。

その結果、「生きる」ためのエネルギー「愛」「喜び」「情熱」を失ってしまったのだ。

ここに問題の本質がある。

「生きるために計算高く」なり「愛すること」と「生きるためにすること」を区別し「生きるためにすること」を優先することは、決して最終的な答えではない。

もちろん、「生きるために計算高く」なり、「愛すること」と「生きるためにすること」を区別し「生きるためにすること」を優先することではない。

それは私たちがさんざんやってきた。

それが正しいなら、一定年齢以上の人の多くが体に不調をかかえ、虚ろな目をして毎日電車に揺られているのはなぜか?

「生きるために計算高く」なり、「愛すること」と「生きるためにすること」を区別し「生きるためにすること」を優先することは、決して最終的な答えではない。

答えは何か?

答えは「愛すること」と「生きるためにすること」をひとつにすることにある。

私たちは「愛すること」を通じて「生きるためにすること」を満たすことができる。

もし「パンを焼くこと」が大好きでパンを焼くことを愛しているなら、やがて誰よりもいいパンを焼くようになる。なぜなら「好きこそものの上手なれ」というのは真実だからだ。

「パンを焼くことが大好きな人」は「パンを焼くことが大好き」であり、暇があればうきうきしながら「次はどんなパンを焼こうかなぁ」と思い巡らしている。

本屋に行ってはパンの本を手に取り、街角でおいしいパンのにおいが漂っていれば、足を止めて観察し、テレビで話題のパンをとりあげていれば取り寄せてみる。

そういう人の焼くパンが、「生きるためにすること」として焼いている人のパンに負けるわけがない。

「生きるためにすること」は本来したいことを我慢してやっていることである。

8時に出勤し「遅れず、休まず、働かず」をモットーに仕事を「生きるためにすること」として(本音では嫌々)やっている人の焼くパンが、「パンを焼くことが大好きな人」のパンに勝てるわけがないのである。

結局「愛すること」と「生きるためにすること」をひとつにしてしまった人が、一番幸せであり豊かになる。

答えは「愛すること」と「生きるためにすること」をひとつにすること

答えは「愛すること」と「生きるためにすること」をひとつにすることにある。

これが私が今まで生きてきて理解したことだ。

尾崎豊は19歳の時に、

大切なのは何?

「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

という問いを発した。

これは有限の肉体と永遠の魂をもつ、人間という存在のパラドックスから生じる究極の問いなのである。

このパラドックスを、この地球における生においてひとつに統合すること。

これが地球という場を転生に選んだ、私たち人類すべてに共通するテーマなのである。

究極の達成は「愛すること」と「生きるためにすること」をひとつにすること

この地球という場における究極の達成が「愛すること」と「生きるためにすること」をひとつにすることだ。

大切なのは何?

「愛すること」と「生きるためにすること」の区別迷った。

私は尾崎豊以外に、この人類すべてに共通する、究極の問いを明確な言葉で発したアーティストを知らない。

彼は19歳でこの問いを発した。

そして彼は19の時、「生きるためにすること」である「卒業」を選ばず、青山学院高校を退学してしまう。

そして「愛すること」、音楽をすることを選んだ。

彼は「愛すること」と「生きるためにすること」をひとつにした。

情熱的に生きた。

彼はいい仕事をした。

26歳でこの世を去ったが、彼の魂はきっと後悔などしていないに違いない。

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