私たちは自らを道具たち(Tools)と呼ぶ

私がお預かりしている人を癒す力を使いたいという方に差し上げ「力の使い手」さんと呼んできた。

私たちはほとんどお互いにあったことがなく顔も知らない。

ネットを通じてつながってるだけだ。
(もちろん電話番号も公開しているので、私の声を聞いて直接話したい方はいつでもどうぞ。
ちなみに今日2016年1月1日元旦はモーニングコールで目が覚めた。四国の女性からだ。その方を寝ぼけまなこで浄化することから私の2016年は始まった。これ以上私にふさわしい新年の迎え方があるだろうか!まさに私にふさわしい目覚めであった。どうもありがとう!)

その方からは
「ありがとうございました
早くからごめんなさい
お陰様で落ち着いて来ました
これからもよろしくお願いします感謝です」(2016年1月1日 7:55)
とメールをいただいた。激しい動悸が止まらなかったそうだ。よかった。

さて、私たちは「力の使い手」は自分たちのことを道具たち(Tools)と呼ぶことにしよう。

神様や守護霊団に由来する見えない「力の使い手」は、彼らの「経路」になることが大切だ。
彼らはより大きな視点でものを見ており、より大きなヴィジョンを持っている。
しかし人間には自由意志があり、それが最大限に尊重されているために、彼らは求められもしないのに、何かを人間にすることはない、それは許されていない。
だから私たち「力の使い手」は、地上の人間として「この方をお救いください」と意図し、彼らに求める必要がある。
そうすると彼らは私たちが自由意志で示した意図に従って、彼らの力を存分に発揮してくれる。

彼らはより広大な視点とヴィジョンと力を持っており、私たちは地上の人間として「どうか私を経路としてお使いください」「道具としてお使いください」と意図することが大切だ。それ以上差し出たことをする必要はない。彼等の方がはるかにものがよくわかっているのだから。

見えない世界には守護霊団の膨大な方々がおられ、ありあまる力を持ち常に地上の人間に役立とうと愛を持って見守ってくださっている。
それなのに地上の人間は、目に見えることばかりに囚われて、そのような大きな愛があることに気づかず、苦しみと悲しみ、不幸から抜け出す方法がわからず打ちひしがれている。

それにいち早く気がついた私たち「力の使い手」は純粋に、苦しむ人に役立とうと意図することによって、守護霊団の意図と波長があい、私たち自身を彼等の道具に使ってもらうことができる。

だから私が「力の使い手」に求める唯一のことは「自分の全身を愛で満たしてそれを周囲に溢れさせること」それだけだ。

なぜなら守護霊団は、何とか苦しむ人間の役に立ちたいと思っておられるからだ。

だから私たちも、そう思うことで彼等の意図と波長があい彼等の道具となることができる。

だから私たちは自らを道具たち(Tools)と呼ぶ。

フランチェスコの平和の祈りを紹介しよう。

「神様

私達を平和の道具とならせてください

憎しみあるところに愛

争いあるところに許し

分裂あるところに一致

疑いあるところに信仰

誤りあるところに真理

絶望あるところに希望

悲しみあるところに喜び

暗闇に光をもたらす者とならせてください

神様

慰められるより、慰めることを

理解されるより、理解することを

愛されるより、愛することを求めさせてください

それは

人は与えることによって受け

許すことによって許され

自己に死ぬことによって永遠の生命を生きるものとなるからです」

自己に死ぬとは、いざ選択を迫られた時、この人たちを救うためなら、自分が今まで得たものをすべて失ってもかまわないという選択をするということだ。

私にはフランチェスコのこの平和の祈りをみなさんに紹介する資格がある。

私も2015年10月以降の自らの経験を通じて、この真の意味するところを知ったからだ。

自己に死ぬとは、もし苦しむ人がいるなら、自分が今まで得たものすべてを投げたしてでも、どうか彼等を救ってくださいと思い、その道を選択するということだ。

私も一時はすべてを失ったように思えた。
涙にくれて、打ちひしがれたが、一切後悔はしなかった。
自分の魂に恥じるところは一切なかったからだ。

しかし、ふと気がついたら何も失っていなかった。
むしろ以前とは比較にならないほど多くのものを与えられた。

私から何も取り上げず、見える世界の私の理想さえ叶えてくださった。

まして私に見えない癒しの力を人に伝えることさえ許してくださった。

その癒しの力を、私から受け取った人たちが、次の世代に受け継いでいってくれたら、

いつか私がこの世を去る日が来ても、私が地上を歩き行ったことが、この地上に永遠に生き続けることになるではないか。

こんな誇らしいことがあるだろうか。

私がいつか地上を去る日が来ても、この癒しの力、生命力は永遠に地上で人々の役に立ち続けることになるのだ。

これこそが永遠の生命を生きるということだ。

だから私は「力の使い手」に求める。

人の役に立とうと意図し、自分の全身を愛で満たしてそれを周囲に溢れさせること。

そしていざ選択に迫られたら、自分が全てを失うように見えても、
自分の魂に恥じない選択をすること。
誰ひとり理解してくれなくてもかまわない。
どんな誹謗中傷を受けてもかまわない。

もしそれが神様と自分の魂に恥じない選択でさえあれば、強い意志でたったひとりで立ち上がってもらいたい。

神様がそんなあなたをお見捨てなることは絶対にない。

あなたが今立っている大地を誰が創造されたと思っているのか。

それが私が今回の経験から学んだことだ。
earth

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