【榎本姓の由来メモ】日本最大の悲恋は榎本のご祖先狭手彦(さでひこ)と佐用姫(さよひめ)

 私(榎本)は広島出身なのだが、菩提寺に残る過去帳により、江戸時代初期に紀州熊野から広島(安芸)に入ったことがわかっている。

 関ヶ原(1600年)後、甲斐国主であった浅野幸長(あさの よしなが)に紀州が与えられたが、わずか1619年には浅野家が安芸国・広島藩に転封されている。これに伴い、紀州にいた私のご祖先は、浅野氏について広島に移ったようだ。(その後紀州は徳川家直轄となる)

紀州熊野の神倉神社のご祭神高倉下が榎本の祖である。

今はJリーグのシンボルマークになっている、熊野の八咫烏(やたがらす)。

その三本足は熊野三党を表しており、その一本の足は「榎本一族」なのである。

私こそは、建国の功臣、八咫烏(やたがらす)の生粋の残党なのだ。

映画「君の名は」でも主人公の三葉ちゃんが、口噛み酒をおさめる宮水家のご神体の岩が登場するが、

私にとってのご神体は、この神倉神社にあるゴトビキ岩である。

もともと榎本家は神倉神社の祭神のである高倉下(たかくらじ)の命の子孫であり、

「高い岩倉の下」に住む神官だった。(高い倉の主(あるじ)という意味もある。)

『古事記』『日本書紀』によれば、このゴトビキ岩が、神武天皇が東征の際に訪れた天磐盾(あめのいわたて)なのである。

榎本家は、天磐盾(あめのいわたて)を通じて神に祈る神官の家系でもある。

上の神倉神社の由緒書にある通り、熊野の主神降臨の地である根本霊所に直接つながる一族なのである。

なお、神倉神社の神主は初代高倉下以降、現在に至るまで榎本氏であり、初代からの家系図が新宮市の図書館に残っている。私もコピーを入手している。

神倉神社の神主の榎本さんが、榎本一族の「超」本家筋だ(笑)

榎本のご祖先高倉下

日本書紀によると

天照大神は神武天皇に夜夢で教えた。
「わたしが今から頭八咫烏(やたからす)を送ろう。
それを郷導者(くにのみちびきひと)としなさい」
すると八咫烏(やたからす)が空より駆け下りて来ました。

大伴氏(おおとものうじ)の祖先の日臣命(ひのおみのみこと)は、大來目(おおくめ)を率いて元戎督將(おおつわものいくさのきみ=大将軍)として、山を踏み開いて進み、鳥(ヤタカラス)の向かう所を道を穿(ウガ=かき分けて進むこと)ちます。

神武天皇は日臣命(ひのおみのみこと)を褒めていわく、
「お前は、忠心があり、勇敢。 それに先導をつとめた。
これより、お前の名前を改めて道臣命(みちおみのみこと)としよう。」

この道臣命(みちおみのみこと)が神倉神社のご祭神、榎本の祖、高倉下である。

八咫烏(やたがらす)と道臣命(みちおみのみこと)

『古事記』、『日本書紀』によれば、神武天皇は東征中、熊野で悪神の毒気により倒れたが、高倉下が霊剣をもたらすと覚醒した。

日本の初代神武天皇に霊剣「布都御魂」(ふつのみたま)をもたらしたのは、榎本のご祖先、(神倉神社の祖)高倉下(たかくらじ)なのだ。

日本で最初に浄化して、初代神武天皇を助けたのは榎本のご祖先、高倉下(たかくらじ)なのである。

皇居の守備を担い、日本建国の日に天皇の即位を浄化

また日本書紀によると、

初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以「諷歌倒語」、掃蕩妖氣。

初代神武天皇が即位した日本建国の初日に、大伴氏の遠祖である道臣命(みちおみのみこと)は、大來目(おおくめ)を率いて、密命を受け、諷歌倒語(へそうた・さかしまごと)を行って、妖気(わざわい)を掃った。

日本の建国の日に、初代神武天皇即位の礼を浄化したのが、大伴氏(榎本)の祖先である道臣命(みちおみのみこと)である。

榎本家は始祖より代々神に人々の弥栄を祈る家系であったが、今生の私もいつの間にかこの性質が活性化したようだ。

私は祝詞や儀式はいっさいやらないが、やっていることの本質はまったく同じである。榎本家のこうした血筋が影響しているのであろう。

また平安時代に編纂された「古語拾遺」によると

日臣命(ひのおみのみこと)、来目部(くめべ)を帥(ひきい)て、宮門(みかど)を衛護(まも)り、其の開闔(あけたけ)を掌(つかさど)る。・・・・・。大伴・来目仗(つはもの)を建て、門(みかど)を開きて、四方(よも)の国を朝(まゐ)らしめて、天位(あまひつぎ)の貴(たふと)きことを観(み)しむ。

日臣命(ひのおみのみこと)(=道臣命=高倉下)は来目部(くめべ)を帥(ひきい)て、皇居の門を護衛し、門の開閉をつかさどり、大伴・来目の兵をたて、門を開いて、四方の国から来朝させて、天皇の地位の貴いことを観せた。

榎本一族のご祖先は、初代神武天皇の近衛師団だったのである。

それで、ちょっと榎本姓の由来について調べてみた。

日本の初代天皇神武は高皇産霊尊(たかみむすび)の5代子孫

古事記によると、天地開闢の時、最初に天之御中主神(あめのみなかぬし)が現れ、その次に神産巣日神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高御産巣日神(たかみむすび)という神だ。

高御産巣日神(たかみむすび)は日本書紀では高皇産霊尊(たかみむすび)と書かれている。

高皇産霊尊(たかみむすび)には思金神(おもいかね)と栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)という子がいる。

栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ=伊勢神宮皇大神宮(内宮)正宮の三神の一柱)は天照大神の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみ)と結婚し、天火明命(あめのほのあかり)と瓊瓊杵尊(ににぎ)を生んでいる。

瓊瓊杵尊(ににぎ)は木花之開耶(このはなのさくや)姫と結婚し、火照命(ほでりのみこと)(海幸彦=うらしまたろう)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦)らを生んでいる。

彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦)と豊玉姫(とよたまひめ)が結婚し、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)が生まれている。

鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)は玉依姫(たまよりひめ)と結婚し、日本の初代天皇である神武天皇が生まれた。神武天皇は高皇産霊尊(たかみむすび)の5代あとの子孫である。)

榎本氏は高皇産霊尊(たかみむすび)の22代あとの子孫

こちらの姓氏類別大観によると、

最初に高天原に出現した高皇産霊尊(たかみむすび)から9代あとに道臣命(みちおみのみこと)が登場する。道臣の命が榎本のご祖先高倉下であり、道臣命(みちおみのみこと)の6代あとに【大伴】武日(おおとも の たけひ)が登場する。

さらに【大伴】武日(おおとも の たけひ)から7代目に狭手彦(さでひこ)【榎本氏】が登場する。

つまり【榎本氏】は高天原に現れた高皇産霊尊(たかみむすび)の22代後の子孫だ。

高皇産霊尊(たかみむすび)の子のうち、娘の栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)伊勢神宮皇大神宮(内宮)正宮の三神の一柱)の子孫が初代天皇神武であり、兄弟の子孫が大伴狭手彦(榎本氏)である。


大伴狭手彦(おおともの さでひこ)【榎本氏】

姓(かばね)は連(むらじ)。

公・君(きみ)、臣(おみ)の次の連(むらじ)だ。

連(むらじ)とは、ヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)の一つで、臣(おみ)とともに高位の豪族が保持した称号。一定規模の社会集団を意味する「ムラ」の族長「ヌシ」とする説が有力である。(むら あるじ)。『日本書紀』等の官撰史書では、連(むらじ)姓の多くは皇室以外の神々の子孫と記述される。軍事や祭祀など特定の職能を専管する地位にあった。大伴氏や物部氏など特に有力な氏族は大連(おおむらじ)と呼ばれ、臣(おみ)の中の有力者である大臣(おおおみ)とともにヤマト政権の中枢で最高位を占め、王権を左右するほどの力をもった。)

榎本のご祖先、大伴一族は天皇親衛隊であり準国歌「海ゆかば」は大伴一族の家訓

大伴は、物部と並ぶ武門の一族であり、大伴は天皇の親衛隊であり近衛師団のような存在であった。

君が代に次ぐ、準国歌として戦前には日本人なら誰でも歌えた「海ゆかば」。

(リンク先の動画では13分35秒付近から、1943年(昭和18年)10月21日、東京の明治神宮外苑競技場で行われた学徒出陣で十数万人が「海ゆかば」を斉唱している。出陣学生7万人、見送り多数)

海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)

山行かば草生(くさむ)す屍(かばね)

王(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ

かへりみはせじ

その「海ゆかば」は万葉集(巻十八『国歌大観』番号4094番)に収録されており、

大伴家持(おおとものやかもち)が作った。

・・・

海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ と言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み・・・

大伴佐伯の氏は大君にまつろふ(仕える)もの

梓弓(あずさゆみ)手に取り持ちて、剣大刀 腰に取り佩(かきは)き

大君の 御門の守り我れをおきて人はあらじ

梓弓あずさゆみ)「神事などに使用される梓(あずさ)の木で作られた弓。古くは神事やなどの際、魔除けに鳴らす弓(鳴弦)として使用された。)

だから榎本のご祖先、大伴狭手彦(さでひこ)も上の絵で腰に剣大刀をつけている。

「海ゆかば」は

大伴と佐伯は大君に仕える一族であり、梓弓(あずさゆみ)手に持ち、剣大刀を腰につけ、朝に夕に大君の御門を守る。いざ朝命あらば、海をゆき、水に浮く屍(しかばね)になろうと、山をゆき草の生える屍(しかばね)になろうと、大君のために、死をかえりみはしない。

という、近衛師団たる大伴家の家訓(言立て)であった。

大伴狭手彦(さでひこ)は当時大将軍

狭手彦(さでひこ)は当時大将軍であり、朝廷の命を受け、隣国の新羅に侵略されていた朝鮮半島 の任那、百済を救援するために唐津から遠征している。

私の父方の祖父は呉の海軍であった。私も日本海海戦の三笠には熱いものを感じてしまう。

私の子供の頃の最も印象的な思い出のひとつは友達とイカダを作り、ある日海に出ると、陸風にあおられて漕いでも漕いでも岸に戻れなくなり、漁師のおっちゃんに助けられたことだ。(笑)

私は大学ではヨット部だった。

長男はボート部だ。

ん、そう言えば医学部に行ってる甥っ子もボート部だ。

我が一族にはどういう訳か「船の戦い」をたしなむ者が多い。これも狭手彦(さでひこ)の血か。

大伴一族は遣唐使などにも関わり、鑑真和上は、大伴古麻呂が独断で日本にお連れした。

道臣命と大伴狭手彦が祭神の刺田比古神社

狭手彦(さでひこ)は任那、百済を救援の功績で、和歌山に「岡の里」を授かり、そこに「岡の宮を作った。佐比古二十世の子孫、大伴武持がこの地に、大伴一族の祖神祖霊を祭るため道臣命(みちおみのみこと)と大伴狭手彦(さでひこ)を祭神として祭祀した。刺田比古神社

(刺田比古神社 祭神は大伴氏の祖神(狭手彦(さでひこ)と道臣命(みちおみのみこと)) 和歌山城近く 和歌山市片岡町)

榎本武揚も大伴狭手彦(さでひこ)の海軍の血筋 最後の海軍奉行であり、最初の海軍中将

幕末の榎本武揚は幕府の海軍トップであり海軍奉行であった。

旗艦・開陽丸に乗船して幕府艦隊を指揮し徹底抗戦した。函館五稜郭でいよいよ最後を悟ると、新政府側に自分がオランダ留学から持ち帰った『万国海律全書』を手渡す。新政府の外交で必ずこの本が役立つからだという。

その後榎本武揚は割腹自決をはかるが、大塚鶴之丞らが素手で刀を奪い取って思いとどまらせ、結局東京に投獄された。獄中で私塾のようなものを始め、処刑されるまで自分の持てる知識をできるだけ新しい日本のために残そうとした。

福沢諭吉が『万国海律全書』を訳すが、最初の四,五ページしか訳せず「この原本は海軍にとって非常に重要であることは最初の数ページを訳してみてもわかる。しかし本当によくこの本を訳すことができるのは、この本の講義を直接先生から聴いた榎本以外にない」として翻訳を辞退した。

これが西郷隆盛の耳に入り、

「榎本を斬首するのはもってのほかである、彼が北海道に徳川武士を率いて行ったのは徳川武士、すなわち陛下の赤子を救い、それによって大御心を安んじ奉るためのものであって、彼こそ憂国の士である。また徳川の恩誼を忘れない義と情の人間である。そうした人間を長く牢内においておくのは政府の失態である。一日も早く優遇して新政府に重用すれば必ず御国のために尽くす人物になる。」

として特赦された。

その後榎本武揚は、駐露特命全権公使としてロシアと樺太の国境画定するため、日本で最初の海軍中将として交渉にあたる。その後逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任し新国家の建設につとめた。

明治三十一年(1898年)には、徳川慶喜が初めて宮中に参内して、明治天皇、皇后に拝謁する。これで旧幕府と天皇の和解が成立し、慶喜から朝敵の汚名が消えた。この参内には榎本武揚が明治政府高官として実現に向けて陰で奔走している。

彼が農商務大臣在任中、足尾鉱毒事件が起こり衆議院議員田中正造が帝国議会で激しく追及した。榎本武揚は現職大臣としては初めて、鉱毒被害地を視察する。

『田中正造の生涯』(林竹二)によると

・・・足尾の鉱業主にたいして出された鉱毒予防命令である。これは榎本農相がその地位を捨てることによって、内閣を動かして、発令にこぎつけたもので、明治政府が示した唯一度の鉱毒問題解決への意志であった。田中正造は、鉱業停止以外に解決はないと信じていたが、しかし、榎本の誠意と犠牲にたいして、予防命令が出てからの成りゆきを、議会において見とどける義務を感じたに違いない。 

とある。こうして榎本武揚は自らの地位を捨て、いくら求められても二度と政府の要職に就くことはなかった。

榎本武揚は大君に仕える武門(海軍の)、大伴狭手彦(さでひこ)の血筋をもっともよく体現した近代の榎本一族のひとりであろう。

嵯峨天皇編纂「新撰姓氏録」によると榎本は「神別」「天神」系であり、天孫降臨した際の神々の子孫。

平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」には全部で1182氏姓が記録されており、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類されている。

「皇別」(神武天皇以降、天皇家から分かれた335氏族)

「神別」(神武天皇以前の神代に別れた、あるいは生じた404氏族)

「諸蕃」(渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏族)

榎本姓は「神別」の404氏族のひとつである。「神別」は次の3つに分類される。

「天神」天孫降臨した際に付き随った神々の子孫

「天孫」瓊瓊杵尊(ににぎ)から3代の間に分かれた子孫

「地祇」天孫降臨以前から土着していた神々の子孫

榎本姓は「神別」の「天神」系であり、天孫降臨した際の神々の直接の子孫である。

榎本氏と空海は親戚

ちなみに【榎本氏】の一代上から別れた平曽古【佐伯氏】の6代後に空海(佐伯真魚)が生まれている。

空海は、高皇産霊尊(たかみむすび)の27代後の子孫だ。

ということで、榎本氏と空海(佐伯真魚)は共に大伴一族であり親戚筋であることが判明した。

まぁだから私も空海に親近感を覚えるのかも(笑)

まぁ何というか、神官の家系というか、真理の探究系の家系ということで我々には同じ、高皇産霊尊(たかみむすび)の血が流れているのであった。

空海も大伴一族であったから、遣唐使に潜り込んで唐に行くことができたのであろう。

(そう言えば私の大学時代の一番の親友は「佐伯」だった。もしかして血筋!?)

神武東征のルート上に大伴一族が展開

これは神武東征のルートである。

榎本の発祥の地は、紀州熊野の神倉神社だ。

私のご祖先は江戸時代初期に紀州熊野から安芸に入ったことは菩提寺の過去帳でわかっている。

神武東征の安芸の滞在地は多祁理宮(たけりのみや)である。

この多祁理宮はリンク先を見てもらえばわかるが埃宮「えのみや」と呼ばれている。

そして私の「本籍地」はこの「えのみや」のほんの近く、徒歩圏内なのだ。私の榎本家における過去帳が保管されている菩提寺もここだ。

私のご祖先は熊野を発して、海路安芸の拠点、埃宮「えのみや」に入って、ここを「本籍」とした。

ちなみに海の鳥居で有名な世界遺産の厳島神社。

飛鳥時代に佐伯鞍職(さえきのくらもと)が創建した。

厳島神社の神主は代々世襲であり、現在でも佐伯氏である。

飛鳥時代と言えば大伴一族が大きな勢力を持っており、佐伯も大伴だ。

この大伴一族の海のネットワークを使って、私のご祖先は紀州熊野から海路、安芸の埃宮「えのみや」に入った可能性が高い。

ちなみに私の大学時代の親友の「佐伯」は在学中に一度遊びに行ったことがあるが、岡山出身であり、実家は上の図のちょうど吉備の高島宮のあるところである。

佐伯氏もこの海路上に展開した可能性が高い。

そして、吉備の高島宮の佐伯と、安芸の埃宮「えのみや」の私榎本が、出会った場所が、筑紫の岡田宮のある場所である。これはには驚いた!まるで今生で親友の佐伯と私も海路を移動してきたみたいだ(笑)(もちろん新幹線だが)

そして、私の家内の実家は、まさに筑紫の岡田宮のほど近くにある。家内の祖父はこの岡田宮のすぐ近くの神社の神主だった。

そして、家内の祖父はやはり上の神武東征のルート上の「宇佐神宮」の神主家の出身であり、宇佐神宮のすぐ近くに神式の歴代の墓がある。墓石の一番先には「人神の祖」とあった。

ちょっと出来過ぎた話ではあるが事実である。

私の人生はほぼこの神武東征ルート上で展開しているのだった。

日本最大の悲恋は狭手彦(さでひこ)【榎本氏】と弁財天のモデル佐用姫(さよひめ)

こちらの唐津観光協会のページによると、狭手彦(さでひこ)【榎本氏】は弁財天のモデル佐用姫(さよひめ)と恋をしている。

 宣化天皇二年(537年)、朝廷の命を受け、隣国の新羅に侵略されていた朝鮮半島 の任那、百済を救援するための兵を率いて唐津へとやってきた大伴狭手彦(おおとも のさでひこ)は、出陣のための軍船の建造や準備の為にしばらくここ唐津に留まり、その際、篠原長者の館に滞在することにしました。篠原長者には、佐用姫(さよひめ)というとても美しい娘がおり、佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、二人はお互い惹か れ合って恋仲となり、やがては夫婦の契りを結びました。

やがて軍船は出来上がり、いよいよ船出の日となりました。別れのとき、挟手彦は 佐用姫に「これを私と思って待っていて欲しい」と言って、銅の鏡を手渡しました。

そして、狭手彦の乗った船は松浦の港を出港。佐用姫は玄界灘を見渡す山(鏡山:唐 津市浜玉町~鏡)に登り、遠ざかり行く狭手彦の船に領巾(ひれ)を振りつづけました。(この山は別名、領巾振(ひれふり)山と呼ばれるようになりました)

船が遠ざかるにつれ、狭手彦を慕うあまり船を追って山を駆け下りた佐用姫は、栗川 (唐津市久里(くり)、松浦川)を一気に渡り、川岸の岩(佐用姫岩:唐津市和 多田)に飛び移りました。しかしその時、狭手彦からもらった大事な銅の鏡の緒が切れ、鏡は川に落ち川底深く沈んでしまいました。(このあたりは「鏡の渡り」と呼ば れていました)

しかし佐用姫は、遠ざかる船をさらに追い、途中、川で濡れた衣を乾かし(衣干山: 唐津市西唐津)、呼子の浦まで追いかけ、最後に加部島の天童山に登って船の影を探 します。しかし海原に船の姿は消え、佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣 き明かし、とうとう石になってしまいました。

万葉集にも山上憶良によって以下のように佐用姫の歌が作られている。

松浦〔佐用比売〕、この別るるの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ふの難きを嘆く。即ち高山の嶺(みね)に登りて、遙かに離れ去(ゆ)く船を望み、悵然(うら)みて肝(きも)を断ち、黯然(いた)みて魂(たま)を銷(け)す。遂に領布(ひれ)を脱ぎて麾(ふ)る。傍(かたはら)の者涕(ひとなみだ)を流さずといふこと莫(な)し。これに因(よ)りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)と曰(い)ふ。及(すなは)ち、歌を作りて曰はく

松浦佐用姫(さよひめ)は、この別れの易(やす)きを嘆き、彼と会い難(がた)きを嘆いた。

そして、高山の峰に登って、遥かに離れ去ってゆく船を望み、

失意のどん底で気力を失い、悲しみで呆然とし、魂も消えたようになってしまった。

そしてついに領布(ひれ)を脱いでふりはじめる。(当時領布(ひれ)には祈りの力があると考えられていた。)

それを見ていた周囲の者に、涙を流さない者はいなかった。

これによりこの山を名づけて領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)という。

そして、以下の歌をつくった。

松浦(まつら)県(がた)

佐用姫(さよひめ)の故(ゆえ)か領巾(ひれ)振りし

山の名のみや聞きつつ居(を)らむ

山上憶良 万葉集巻五(八七一)

佐用姫(さよひめ)物語は日本三大悲恋とされているが、あとの二つは竹取物語と羽衣物語であり、史実ではない。

ということで、榎本のご祖先、狭手彦(さでひこ)と佐用姫(さよひめ)は日本最大の悲恋をしたのであった。

(佐用姫ゆかりの地を旅してきました!日本三大悲恋【佐用姫】ゆかりの地を旅する

こういう惚れっぽいところもご祖先に似たのかも*^^*

ということで、榎本姓の由来についてメモしておきました。

全国の榎本さん!ご参考に(笑)

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