佐用姫ゆかりの地を旅する途中、呼子の食堂で朝ごはんを食べた。
客は私ひとりしかいなかったので、お姉さんといろいろ話をした。
「呼子っていうのは、佐用姫(さよひめ)が狭手彦(さでひこ)の名前をここで呼んだことから来てるそうですね。」
「そうだね。しかし子供の頃、佐用姫が鏡山から、佐用姫岩から飛んでいき、そこから衣干山、呼子、加部島の天童山に「飛んで行った」って聞いたけど、ホントかね?と思ったよ。」
ばあちゃん、あんたは正しいっ!
(このあたりの民間伝承ではそんなことになっているみたいだ。)
だいたいですよ!
佐用姫が、そんなに飛べるんだったら、はじめから鏡山から狭手彦の船に飛んだはずだ。
それを見た狭手彦もドン引きよ!
「ひぇ~っ!」@@
ほとんど山姥(やまんば)でしょうよ。
こいつは化け物だ!と私でも思います、ええ。
呼子あたりでは、佐用姫は加部島で泣きつかれて石になったということになっているが、何かにつけてオーバーなのであった。
唐津くんち 曳山展示場
唐津くんち曳山展示場に行ったのだが、
こんなのとか
こんなのとか、
何かにつけてオーバーなんですよ!(笑)
唐津人は何事もオーバーにデフォルメして表現するところがあるように思える(笑)
どうだぁ~っ!と話を膨らませるんでしょうね。
話しを「大盛り」する(笑)
引っ込みがつかない唐津人
ちなみに、唐津くんちは、第二次世界大戦中も、祭りの自粛が広がった昭和天皇の体調不良の時も、「天皇陛下平癒祈願」と銘打って、祭りが始まって以来中止したことがないそうだ。
展示場のお姉さんに「さすがに今年はおくんちは中止でしょ?」と聞くと、「それがまだもつれて決まってないんですよ。」と言っていた。
(もつれにもつれて8月になって中止が決定されたが、さすがの唐津っ子もコロナには勝てなかった。)
まあしかし、第二次世界大戦中男が出征でいない時も、女子供が山車を担いで「おくんち」やったというから、すごいね!@@
唐津人は言い出したら止まらない(笑)
そうやって、佐用姫の話しも、飛んだの岩になったのと、この山車みたいにデフォルメされ、引っ込みがつかなくなって、現在に至るのであろう(笑)
呼子のお姉さんは、佐用姫が川口に漂着し、葬られた話を知らない
佐用姫が狭手彦を慕うあまりに、船で追いかけてしまい、遭難して伊万里湾の奥に漂着し、その場所は佐用川と名付けられ、佐用川神社があり、彼女を葬った塚まで現存しているのに、この呼子の生き字引みたいなお姉さんが、その事実を知らないということだ。
呼子からそんなに遠いところではない。
しかし、この話しが千五百年経っても、呼子に伝わっていないことの方が驚きである!
「私は昨日実際そこに行ってきたんですよ!」とお姉さんに言うと「そうかい?!」とびっくりしていた(笑)
どうも一度話しを盛ってデフォルメしたら、どこまでも貫き通すところが唐津人にはあるみたいだ(笑)
ちなみに、佐用姫がひれを振って狭手彦を見送った鏡山には、山頂に道祖神がある。
鏡山の道祖神
そうきたか!
唐津人デフォルメしすぎやろっ!
合掌。
(※なお「何かにつけてオーバーにデフォルメして引っ込みがつかない唐津人」というのは私が佐用姫伝説や、展示物?から受ける印象であって、実際の唐津人を私が深く知っているわけではありませんので、あしからず^^;)