今生の自分の使命(ライフワーク)の見つけ方【自分の「ハートの喜び」に熱中しよう!】

ご質問をいただきました。

自分の(魂の)課題が明確にわかっていないときは、自分のハートが喜ぶことは何なのか、と考えるとその答えは見えてくるのでしょうか?O(2017年4月21日 21:21)

そうです。

外部の尺度に自分を合わせ、人の期待に応え続けているかぎり、自分の今生の魂の課題はわからない

何か外部の尺度に自分を合わせ、人の期待に応え続けているかぎり、自分の今生の魂の課題はわかりません。

親や先生の言うことを聞く、

偏差値や世間体、何か決まりに規則に従うこと。

お金が稼げるか稼げないか。

これらはすべて「自分のハートの喜び」以外の「外部の尺度」です。

こういう尺度に自分を合わせている限り、自分の今生の使命はわかりません。

わかるのは「世間に合わせて生きる」方法だけです。

そして、その世間をよく見てください。

そうアドバイスした大人たちです。

そういう人たちが生き生きと目を輝かせて、喜びに満ちて生きていますか?

面白くない顔をして、よどんだ目をしているのではないでしょうか。

そういう「外部の尺度」に従っていたら、そういう晩年を迎えるということです。

それがあなたの人生のお手本なのでしょうか?

もしそれを言う大人が、生き生きして楽しそうにしていないなら、彼らの言うことは何の参考にもならないということです。

自分自身で生き生きしていないのですから!

彼らが「何を言うか」は重要ではありません。

彼らの「今の状態がどうなのか」「生き生きしているのか」「彼らの生き様はどのようなものか」それが大切です。

というのも、自分で自分を誤魔化し、欺きながらもそれに気づいていない人がたくさんいるからです。

もし、その人の生き様があなたの憧れるようなものでなければ、彼らの言うことは参考になりません。

彼らは生き生きと生きる方法を知らないのですから。

彼らの生きざまがその証拠です。

さて、私は幸い「遠隔浄化」という自分のライフワークにたどり着きました。

もう私は孔子のいう「不惑」(まよわず)であり、「知命」(天命を知る)という心境ですね。

ライフワークにたどり着ついた過程

で、私が「遠隔浄化」という私の接してきた身近な大人が誰も勧めたことがない「ライフワーク」をやるようになったか、紹介してみたいと思います。

母によると私は幼稚園に上がる前、もくもくと積み木なんかをやって一人遊びを長い間やっていたそうです。テレビゲームのように「誰かが作ったルール」に従うのではなくて、自分で勝手に遊べばいいことです。純粋に楽しい、まぁ「自分のハートの喜び」なわけです。

物心つくと、近所の友達を引き連れて、公園や神社、山などで「冒険ごっこ」が私の主な遊びでした。ここでも「誰かが作ったルール」に従うではなくて、自分たちで勝手にルールを決めて飽きずに探究していましたね。

少年野球チームなどにも入ったのですが、そういう「誰かが作ったルール」に従って、勝ち負けを競うというのはどうも私の性にあわなくて長続きしませんでした。

もちろん草野球や草サッカー、鬼ごっこやかくれんぼみたいなこともたくさんしましたが、「勝ち負け」よりも「みんなで生き生き遊ぶこと」に主眼があったと思います。

行動力が出てくると山に洞窟を掘ったり、海にイカダを作って漕ぎ出したり、まあそういう「ルールのない遊び」ばかりに熱中していましたね。

大人になって日本100名山をテント担いで登ったりしたのも「ルールのない遊び」です。

スペイン巡礼バリ島自転車ツーリングもその一環でしょう。

今から思えば、未知を探究する「ルールのない遊び」ばかりなのです。

10代後半になると「何かが間違っている」「ほんとうの真実」ってなんだろう?

みたいな内なる欲求が芽生えて、そういう探究を始めるわけです。

大学でも面白くない講義はいつも自分が読みたい本を持ち込んでいました。(特に出席をとる授業は!)それで前の方に座って教科書の上に、いつものように読みたい本を載せて読んでいると、教授から「そんなに本が面白いですか?」と言われたことがあります。

こんな大講義室で学生がいっぱいいるのに、結構私が何をしているのが気づいているのだなとびっくりしました(笑)

学生時代に始めた、塾や家庭教師ははまり役でとっても楽しかったのです。

情熱を込めてやりました。

私たちの学習塾は私たちが属している数年の間に大発展します。

「先生って結構面白いな」と思い教員免許を取ることにしました。

塾などの実践の成果か、好きな真理の探究の本を読んでいたためか、教職科目の成績だけはどれもとてもよかったです。

なんかすらすら書けちゃうんですね。

それで結局「教育」が私の主なキャリアになりました。

そして、10年ほど前に「遠隔浄化」に出会うわけです。

そこで頭角を現した私は、ずっとNO1でした。

「遠隔浄化」の面白さにはまったわけです。

そして、ずっと「遠隔浄化」を教える立場にありました。

別に自分で立候補したわけではありません。そうなってしまったのです。

それで1年半前に「ある事件」が起きて、私はそこを追放され、

たったひとりで「誰かが作ったルール」に従うことなく、「遠隔浄化」を通じて、道を探究し、真理の探究を続け、それを「力の使い手」さんに教えるという「ライフワーク」が自然に出来上がってしまったのです。

我ながら驚きですよ!

もちろん、私が人生を生きるその時々で、今のような「ライフワーク」にたどりつくとは夢にも思いませんでした。

私の周りには、今の私になるためのお手本になる大人は誰一人としていませんでした。

誰かに従っていたら決して今のような「ライフワーク」にたどりつくことはなかったでしょう。こういうことをやって褒めてくれる目上は誰もいないのです。

誰もこういうことをやった経験がある人がいないのですから!

だから私は今生ほとんど、いわゆる師匠というものを持たない人生でした。

今生は誰かを師と仰ぎ、「誰かが作ったルール」に従って生きる人生ではなかったのです。

今、人生をここまで生きてみて振り返ってわかりますが、子供のころはまったくそういうことは意識していませんでした。

しかし、普段の遊び方の中、趣味の中に「そういう傾向」がはっきり現れているのです。

 実は魂は「ハートの喜び」を通じて、生涯を通じてその人を導いているのです。

人間は五感の限られた視野しかもっていませんが、魂は幾多の過去世を通じて何を目指してきたか、それを成し遂げるにはどうすれば完全に知っているのです。

そして「ハートの喜び」を通じてそれを教えているのです。

積み木遊びでも、イカダを作って海に漕ぎ出すことでも、授業に関係ない好きな本を読むことでも、何でも「ハートの喜び」に従ったことは、驚くべきことにすべて「今」に通じているのです。

逆に、外部の価値観に従ったことは、今では覚えてもないし使ってもいない、役に立たないことが多いのです。学校の好きでもない暗記科目はその際たる例ですね(笑)

私がおふくろに感謝しているのは、母は子供のころから私に「あれしろ、これしろ、あれするな、これするな」と「まったく」言ったことがないのです。

私は子供のころ文字通り毎日服がドロドロになるまで遊びまわりました。

しかし、そのことをとがめられたことは一度もないのです。

私は小学校高学年になるまで、「服を汚すことが悪いこと」という考えがあるのを知りませんでた。

友達を「楽しいからこういうことして遊ぼう!」と誘うと、「服が汚れるとお母さんに怒られるから」と断る人いたのです。

その時「え~服が汚れるという理由で怒るお母さんがいるのっ!」ということを初めて学びました。

そのくらい私は「服を汚すことが悪いこと」とはまったく思ってなかった。

私にとっては毎日「服を汚してドロドロになることはあたり前」だった。

というより、遊びに夢中で、服のことなどまったく気にしたことがなかった。

後年になった母から「あなたの服だけは、洗うと泥水になるので、家族の服とはいつも別に洗っていた」と聞かされました。

でもおふくろは、だから「汚さないようにしろ」とは一度も言ったことがないのです。

勉強しろとも言ったことがないし、進路はこうしろとも言ったことがない。

私は幼少からすべて自分でしたいことは自分で決めてきました。

それが今となってはとてもいい訓練だったなとわかります。

私は子供のころから母によって自分の「ハートの喜び」だけに従って遊びまわることをゆるされ、一度も妨げられたことがないのです。

結局そうしてきたことだけが、今の私の財産になっているのです。

今それが私にはわかります。

ですから自分の「ハートの喜び」だけに従って遊びまわればいいのです。

その時、理由なんてわからないのです。

将来どうなるかもわかりません。

ただ、今自分が「ハートの喜び」で夢中になることに熱中すればいい。

そうすると、最終的に今生の自分の使命(ライフワーク)にたどり着きます。

人生はそのようになっているのです。

誰も人生もです。

だから、外部の価値観を投げ捨て、今すぐ自分の「ハートの喜び」に熱中しよう!

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