以下のメールをいただきました。
夕方から腰の痛み 背骨の芯の痛みが起きて来ました・・・5時半頃、凄くマイナスな愚痴を聞く羽目になってしまい、
このことも身体に影響が有るのかも… 「みんな違って みんなイイ」と、直ぐに思い直したのですが、頭まで痛くなって来ています Y( 2018年4月26日 21:06)
単なる人の悪口など、「凄くマイナスな愚痴」など聞きません。
馬耳東風です。
しつこいと「ちょっとごめんね」とその場を立ち去ります。
それが「どういう意図」による発言なのかが、ポイントです。
「ネガティブな感情のゴミ捨て場」になっているだけ
・いかに相手が悪いか、自分がいかにかわいそうで、いかに自分が正しいか、
要するにただ単に、「凄くマイナスな愚痴」を肯定してもらいたいだけ。
そういうのは私はまったく聞きません。
なぜなら、そういう「凄くマイナスな愚痴」を聞くと「暗黙の肯定」を与えていることになるからです。
その人はこれからもずっと、その「凄くマイナスな愚痴」のゲームを続けていくことになります。それを肯定することは、その人の「マトリックス」を暗黙に支持していることになり、その人の「凄くマイナスな愚痴」を強化するだけなのです。
簡単に言うと、あなたはその人の「ネガティブな感情のゴミ捨て場」になっているだけです。
あなたが、それを黙って聞くことによって、「いかに相手が悪いか、自分がいかにかわいそうで、いかに自分が正しいか」を賛同してもらい、自分の正当性を確認して胸をなでおろし、やがてまたその誰かを裁く思考によって、「ネガティブな感情」を燃え上がらせ、あなたのところにやってきて、そのゴミを吐き出すわけです。
あなたは一生その人の「ネガティブ感情のゴミ捨て場」です。
「みんなちがってみんないい」をはき違えています
「みんな違って みんなイイ」と、直ぐに思い直したのですが、
頭まで痛くなって来ています
それは「みんなちがってみんないい」をはき違えていますよ。
「みんなちがってみんないい」とはそういう誰かに対するネガティブな裁きを肯定するためにあるのではありません。
その人が人生を二元対立の思考で捉えて、「凄くマイナスな愚痴」を言い続けることは、それその人の選択であり、その人が変えようと思わない限り変わりません。
「みんなちがってみんないい」とは、その人がそういう生き方をしたいなら、それはそれで仕方がないけど、私はそういう選択をしないということです。
その人がそういう選択をするのはその人の選択だけど、私はそれに同調しない。
なぜなら私は「凄くマイナスな愚痴」が好きじゃないし、「ゴミ捨て場」じゃないから。
その人がそれをし続けたいなら、それは尊重するけど、
私はそういう選択をしない。
その自分の選択が「みんなちがってみんないい」ということです。
「みんなちがってみんないい」とは「裁きのない世界」
その人が裁きのある世界に住み続けるのは仕方がないけど、私は裁きのある世界に住み続けない。それが「みんなちがってみんないい」です。
「みんなちがってみんないい」とは「裁きのない世界」のことです。
うまく一度は回避できたのですが、「先ほどは話の途中だったから」と再度 電話が わざわざ かかって来てしまって… 私が お世話した方だったので、無碍にも出来ず…プラスに話を持って行こうと思って提案したら、ピシャリと「 もうイイです。もう結構です」とシャッターを下ろされてしまいました。 難しい残念です心を⤴⤴⤴ に、頑張ります!
素晴らしい~
望むところですよ!
「 凄くマイナスな愚痴」を聞かなければ、その人は別の人を探します。
私は「 凄くマイナスな愚痴」を肯定する係じゃないし、ゴミ捨て場でもありません。
私はもう20代くらいからそういう選択をしているので、誰も私に「誰かの悪口」を言いません。なぜなら私が聞かないからです(笑)
私はそんなことには一切関心がありません。
そんな無意味なことに人生の時間が無駄にされることがないのは素晴らしいことですよ!
その状況からいかに幸せになるかなら大いに関心がありますし、 できることがあれば全力でお手伝いします
その状況から「いかに幸せになるか」なら大いに関心がありますし、できることがあれば全力でお手伝いします。
ただ単に、「 凄くマイナスな愚痴」を肯定して、支えてもらいたいだけの人はごめんこうむります。
私は自分の人生を一人でも多く、「より幸せにないたい」と自ら変化しようとする人に注力します。
「より幸せにないたい」と自ら変化しようとする人に注力します。
「より幸せにないたい」と自ら変化しようとする人に注力します。
「より幸せにないたい」と自ら変化しようとする人に注力します。
ここは大事なところですから繰り返しておきます。
「人のせい」と人を裁き、「自ら変化する気がない」に人に関わっても時間の無駄なのです。
何しろ、その人は「自ら変化する気がない」からです。
その人の人生はすべてのその人の「思考」「言葉」「行動」で構成されており、別の「思考」「言葉」を選ばなければ、その人の「行動」は変わらないし、その人が人生で経験するものが変化することはありません。
永遠の繰り返しなんですよ。
あなたはその人がもう何年も、「同じタイプの 愚痴」を繰り返していることに気がついているのではないですか?
相手は変わり、理由は変わっても、それはずっと「同じタイプの 愚痴」なのです。
それはその人の生き方なのです。
相手のせいじゃないんですよ。その人の生き方なのです。
「より幸せにないたい」と自ら変化しようとしなければ、またこれから何年も「同じタイプの 愚痴」を繰り返すことはすでに確定してるのです(笑)
そういう「同じタイプの 愚痴」のメリーゴーランドにつきあう暇はないのです。
だって退屈ですよ!
いつまでも同じところをぐるぐる回っているだけなんだから!
「裁きの世界」を維持することに力を貸すつもりは1ミリもない
「人のせい」の人は変わらないし、変わりたいととも思っていません。
ただ単に「自分の裁き」がいかに正しいか、肯定してもらいたいだけです。
私はそういう「裁きの世界」を維持することに力を貸すつもりは1ミリもありません。
> ピシャリと「 もうイイです。もう結構です」とシャッターを下ろされた
よかったじゃないですか!(笑)
私は「マイナスな愚痴」の「ゴミ捨て場ではない」と認識してもらったわけですからね。
もうそういう「同じタイプの 愚痴」のメリーゴーランドにつきあわなくてもいいんですよ!
それこそが福音ってもんです(笑)
「 より幸せにないたい」 と自ら変化しようとする時思い出してもらえればいい
それは相手を拒絶しているわけじゃないんです。
相手が自ら「裁きの世界」と「 凄くマイナスな愚痴」に生きることを容認しているけど、もし相手が、「より幸せにないたい」と自ら変化しようとするなら、いくらでも話を聞いたらいいのです。
それは拒否じゃないんですよ。
その人が格闘技が好きだから、その人が格闘技を見に行くのは仕方がないけど、私はサイクリングが好きだから、サイクリングに行くね!ということだけの話なのです。
それが「みんなちがってみんないい」です。
その人に合わせて、好きでもない格闘技を一緒に見に行き、自分がまったく何の関心もない格闘技の話をいつまでも聞いているのは退屈ですよね?
そんな人生を続けたいのですか?
格闘技が好きな人は、格闘技が好きな人同士で盛り上がってもらえればいいのです。
サイクリングが好きな人は、サイクリングが好きな人同士で自転車旅を楽しめばいいのです。
それが楽しい人生であり、「みんなちがってみんないい」人生です。
自分が好きじゃないことに、自分を無理に合わせることはないのです。
その人が望むなら二元対立と裁きと愚痴のない世界がどれだけ素晴らしいか、目を輝かせて存分に話せばいい
そして、もしその人が、「ちょっと私も格闘技に飽きちゃった、サイクリングって楽しい?」
「私も自転車に興味が出てきたの」と言えば、
「どうぞ!どうぞ!」「ほんとに楽しいんだから!」と、
二元対立と裁きと愚痴のない世界がどれだけ素晴らしいか、目を輝かせて存分に話せばいいのです。
そして、一緒に自転車旅を楽しめばいいのです。
それだけなんですよ。