「自分以外の人」を基準にすると決して幸せになれない

ご質問をいただきました。

・・・
私も周囲の人を怖がっているところです。
自尊心ワークをやっていて、いつも引っかかるのは
「人から良い評価をされない私に価値がない」という思い込みです。

いい人に思われたい。
これで行動するのは、偽善ですよね?

Y(2019/03/06 9:20)

 その通りです。
アンパンの歌でも歌った方がいいですよ!(笑)
何の為に生まれて 何をして生きるのか♪
答えられないなんて そんなのは嫌だ!♪
今を生きることで 熱いこころ燃える♪
だから君は行くんだ微笑んで~♪
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び♪
たとえ胸の傷が痛んでも~♪
・・・
何が君の幸せ 何をして喜ぶ♪
解らないまま終わる そんなのは嫌だ!♪
・・・
愛と勇気だけが友達さ~♪
時は早く過ぎる 光る星は消える♪
だから君は行くんだ微笑んで♪
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び♪
たとえどんな敵が相手でも~♪
・・・

「自分以外の人」を基準にすると決して幸せになれない

 「自分以外の人」を基準にすると決して幸せになれないのですよ!
 それは人生の非常に基本的な理解です。
 まず、「通常の人というのは自分と同じくらい混乱している」のです。
 日本で一番エライ総理大臣を見てください。(笑)
 実にくだらない答弁をして、何かにつけて誤魔化していますよね。
 エライ人に良い評価をされたいというのは、日本では究極的にはそういう人たちに褒めてもらえるってことです。それが最も立派ってことなんですよ!(笑)
 ところが総理大臣をしっかり忖度して褒めてもらっているインチキ官僚たちの顔をみてください。
 ぜんぜんいい顔をしていないですよ。
 彼らはぜんぜん幸せそうには見えません。
 彼らの人生はみじめですよ。
 ですから、エライ人に褒めてもらう。
 人に評価してもらうってのは、せいぜいそのくらいの生き方なんですよ(笑)
 日本で一番エライ人に評価されたとして、そんなもんです(笑)

通常の人というのは混乱している

 それに通常の人というのは混乱しています。
 首尾一貫していません。
 支離滅裂で考えが変わります。
 そういう人に一生懸命合わせようとするから、精神分裂になるんですよ!(笑)
 ほんとうですよ!
 あなた自身も混乱し、考えが変わり、迷いがありますよね。
 実はほとんどの人がそうなのですよ!
 ですから自分自身でさえ、混乱し、考えが変わり、迷っているのに、同様な混乱がある人にに評価されようと、もがいても、
 混乱が2×2×2×2・・・と幾何級数的に増えるだけなのですよ。(笑)
 人生が余計混乱しわけがわからなくなるだけです。
 ですから、多くの人に気に入られようと頑張っている人は精神分裂ですよ!

日本では「いい労働者」を養成するための教育が行われてきた

 しかし、日本では基本的に「いい労働者」を養成するための教育が行われてきましたから、目上の人の言うことを聞く人がいい子、先生の言うことをよく聞く素直な子がいい子という教育が行われてきたのです。
 目上とか、先生とか、偏差値とか、エライ人とか・・・すべて「自分以外の尺度」ですよね。
 それに自分自身を合わせるように長年教育されてきているのです。
 ですから私たち日本人が「自分以外の人」を基準にして生きる習性を身に着けるのはごく普通のことなんですよ。
 教育や社会の価値観がそうなっているからです。

自分の喜びに素直に生きるようにならなければ、喜びにあふれた人生にならない

 ですから生まれた直後の赤ちゃんはは、言葉もわからないから社会の価値観を押し付けられることもないですから、
 素直に自分の喜びとするところを、ハイハイしたりおしゃぶりしたりして、とても幸せなのです。
 積み木などに一生懸命打ち込むのですね。
 しかし、だんだんと「自分以外の人に褒められる立派な人」になるように教育されていきます。
 そうして私たちは幸せの楽園を追放されるのです。
 いつのまにか幼いころの無邪気な幸せを失っている。
 失楽園ですね。
 イエスが「幼子のようにならなければ天の王国に入れない」と言われたのは、
 自分の喜びに素直に生きるようにならなければ、喜びにあふれた人生にならないという真理を教えたものなんですよ

「誰がいなくても、誰に褒められなくても、自分はそれをするか?

いい人に思われたくて選択しているのか、自分の喜びからなのか
分からない時があり、今少し混乱してます。

 それはですね。
 「誰がいなくても、誰に褒められなくても、自分はそれをするか?」というのを目を閉じて感じてみればいいんですよ。
 例えば、私の自然菜園とかは、誰がいなくても、誰に褒められなくてもするんです。
 それは人にも喜んでもらえたら嬉しいですよ。
 でも、それが基準じゃない。
 あくまで尺度は自分の内面にあります。
 自分が喜びとともにしていることを人が喜んでくれたらうれしいけれど、それを人が喜ばなくても、自分はそれをするってことです。
 分かち合える人がいればうれしいけれど、人が基準ではないのです。
 「誰がいなくても、誰に褒められなくても、自分はそれをする」というのが「自分の喜びから」しているってことです。
 ですから、目を閉じて自分の内面を見つめ、「誰がいなくても、誰に褒められなくても、自分はそれをするか」ということを感じてみてください。

自分がハンドルを握っているシンプルな人生を、喜びあふれて生きる

 そうすると人生の大半のものは落ちていきます。
 不要なんですよ!
 人生にほんとうに必要なものはごくごく少数です。
 自分がほんとうに関心を持っていることはごくごく少数なんですよ
 それでいいんです。
 人生というのはとてもシンプルなものなんですよ。
 そしてそのシンプルさのなかに喜びあふれて生きていくのです。
 そうすると人生はとっても生きやすくなるんですよ。
 自分がハンドルを握っているシンプルな人生を、喜びあふれて生きるってことですね。

何をどう考えればいいか分からなくて、頭の中で同じところを
グルグルしています。

こんな混乱メールですみません。。

答えは自分の中にある

いいえ~
大事なことです。
日本人はほぼ全員が「誰かに褒められる立派な人」なるように教育されてきましたからね。
しかし、それでは幸せになれないんですよ。
お年寄りやエライ人全員が、笑顔で幸せな社会では、素直に従えば幸せになれるかもしれません。
しかし、今はそういう社会じゃないんですよ。
多くの人が混乱し、迷い、不安の中に生きているのです。
そういう人に評価されたところで、どこにも行き着きはしないんですよ。
答えは自分の中にあるのです。

目上の人と衝突することも

私は子育てでも、「自分の内面の尺度」を大切にしてきました。
すると目上の人と衝突することもあるんですよ。
私も長男のことで高校時代に担任の先生に呼び出されて注意されたことがあるんです。
「本校の生徒にふさわしくない」という実に抽象的な理由です。
「このままでは卒業式に出られないかもしれないし、志望校にも合格できませんよ」と言われました。
私は「折れて先生の言うことを聞いとけよ」アドバイスしましたが、もう意地になってるんですよ。
長男は高校の内申点などあてにしないと、二次試験の比重の重いところを受けて第一志望に合格していきましたけどね。
親としてはヒヤヒヤですよ。
目上の人を「忖度」するということをしないんですね(笑)
理由も納得していないのにただエライ人に盲従するということをしないのです。
しかし、今となってはエライ人を「忖度」するという生き方を教えなくてよかったと思いますよ。
東大出てキャリア官僚になって、政権に忖度して、文書を改ざんしたり、統計を誤魔化したり、あるものを「ない」と言ったり、そんなことして出世したところで、何もエラくないし、人生に何の満足感も充実感もないと思いますね。
「忖度」する人生は、虚しい人生ですよ。

世間は誤魔化せても、自分の魂は誤魔化せない

世間は誤魔化し抜くことができても、決して自分自身の魂は誤魔化せませんからね。
自分は何に喜びを感じるか、自分が言うこと、することに本当に納得しているか、
自分の魂に恥ずかしくないことをしているか、
自分の魂が満たされ納得していることをしているか、
それが大事なことです。
魂というのは転生を超えて一貫している永遠の自分なのです。
その魂の感覚に従うことこそ、真に首尾一貫しているということです。
人の顔色を伺って忖度したり、自分の肉体の生存だけに意識を奪われてしまっては
真に生きることはできないのです。

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