ある症状が続く方に質問しました。
自分が好きですか?
この質問、とても刺さりました。
今、自分を好きになろうとしている所だと思います。
というか嫌っていたのをやめようとしている所というか。最近「自分の事好きなようで好きじゃなかった。
好きな所だけ好いて、好きになれない所を押しつぶしてただけだ」 って気づいた所なので。
それは素晴らしい気づきですね!
そのためには、好きじゃないという判断をしていた「尺度」
自分を好きになるには尺度自体を手放す
あなたは、色々あってもすべて素晴らしいし、
すべては神の創造ですからね。
ですから「こんなところは嫌いだ」
そうすると当然ながら嫌いなところがなくなります(笑)
なんとか好きでないところを好きになろうとしても、「尺度」
今までの人生、安心したことがないって気づいた時、
自分が自分を裁いて、追い込んでたからだ!って思って愕然とした位です。。
その通りです。
この質問で「安心したことがない」ということをお伝えしたかったのです。
それが体が常に緊張している人の特徴です。
その緊張を手放すには、判断基準自体を手放し、自分にくつろぎ、今にくつろぎ、地球にくつろぎ、宇宙にくつろぐことなのです。
それを何かの尺度を手放すことなくやっても、ずっと形を変えて続くんですよ。
判断基準がある限り、それに適さない自分の一部があり続けます。基準にあわない人がい続けます。
そうするといつまでたってもリラックスできないんですよ!
「今」全身の緊張を緩めることが大切なのです。
あなたは、神の創造の一部です。
神の一部を構成しています。
安心していいですよ。
神に抱かれているのに安心できなかったら、いったい、
(私ですか?(笑))
すべての人が神に抱かれているのは事実なんですよ。
ですから、あなたの本質である魂は永遠であり、いつでも
今まであなたが神から見放されたことは一度もないし、
神と一体だからです!
それが魂は永遠であるということの意味です。
真に安心して安らぐためには、それに気づくことだけなんですよ。
だって実際、あなたは今まで神に抱かれていなかったことなど一度もないからで
ただ、問題は、何かの考え、常識、価値判断、尺度が邪魔して、
そのことに気づき、受け入れ、ほっと一息ついてお茶を飲み、
自分の考えにそれをなじませていきます。
事実はその通りなんですから、
実際そうなんですから!
しかし、今それを受け入れ、安らぐと、今緊張がほぐれだし、
Why don’t you do that?
どうせいつかの時点でそれを受け入れることは決まっているのです
だってその方が楽しいから!(笑)
自分のなかにじわじわ安心感が広がりますよね。
思わずくつろぎます。
何があっても永遠の命だし、
神に見捨てられる可能性がある限り、真のリラックスはあり得ない
神に見捨てられる可能性がある限り、真のリラックスはあり得ないのです。
だって何か間違えて神に見捨てられたらどうします?
えらいこっちゃ!(笑)
しかし、神に見捨てられるという可能性はないのです。
なぜなら神とすべては一体だからです。
そして 神に見捨てられる可能性がないということは、神は評価尺度自体を持っていないということです。
神は実は人を評価していないのですよ!
神は人を裁きません、なぜならそれは自分を裁くことだからです。
自分の親指に向かって、お前はなっていない!有罪だ!と宣言するのと同じ滑稽さなのです。(笑)
ですから神はすべてを受け入れます。
評価尺度はありません。
ただすべては一体であるがゆえに、自分から出たものはすべてその人に戻って来ることで、公平性が保たれているのです。
人に自分がして欲しくないことをして、自分がされたら嫌なことはしない
ですから、人に自分がして欲しくないことをして、それが自分に戻って来たら嫌だから、自分がされたら嫌なことは人にしない。自分がされてうれしいことを人にする。
それだけです。
そして、人を裁いたり、抑圧したり、犠牲にしたりするのでなければ、何をしてもいいのですよ!
神は何も裁きません。
神はすべてを受け入れています。
ただすべては一体がゆえに、自分から出たものは正確に自分に戻ってくる。それだけです。
だから神でさえ人を裁かれないのですから、人が人を裁いたり、自分を裁いたりすべきではないのです。
まぁ裁くのは自由ですが、自分も裁かれるということが経験できるということですね。
戻ってきます。
それがわかっているのですから、そんなバカなことはしない方がいいのです。(笑)
そうするとその、
だって、その人が自分を絶対に裁かないとわったら安心ですよ!
でしょ?
もちろん私は裁きませんよ。(笑)
だから真に安心してくつろぎたければ私みたいな人とつきあうしかないのです。
何か人を裁く評価尺度を持っている人とはいつかの時点で必ず喧嘩をします。
何か人を裁く評価尺度を持っている人とはいつかの時点で必ず喧嘩をします。
まぁ見ててください!(笑)
それはそうでしかあり得ないのです。
私は評価尺度自体を放棄しました。
「みんなちがって みんないい」です。
そうしたらお互いにくつろいで、喜びをわかちあえるでしょう。
ほら!
人間関係が安心になった!
こんな要領で、自分の内面が自分の現実に反映されていくんです。
自分の内面に尺度がある限り、拒絶の可能性は常に残ります。
そして拒絶の可能性がある限り、その人間関係に真の安らぎはないのです。
しかし、安心してください。
神はすべてを受け入れています。
神は尺度を持ちません。
神の視点は「みんなちがって みんないい」です。
だから私はこのブログの上にこの言葉を書いているのです(笑)
幸せになるために他には何もいらないのですよ。
すべてのトラブルは、人がある尺度を持ちお互いを裁きあうことに端を発しているのです。
それを手放さない限り、この世に争いと戦争の原因がなくなることはありません。
思考は現実化します。
尺度を手放すと、裁く必要がなくなり、身構え、緊張する必要がなくなります。
すると身体は健康になり、人間関係は良好で安心なものになり、
そうすると人生は楽しくなります。
幸せな人生の根底を支える気づきは、この気づきなのです。
何があっても永遠の命だし、
そもそも神には尺度自体がない。
これを受け入れるまでは、
これを受け入れないと、いつまでも体を緊張させ、
だから、さっさとこの気づきを受け入れ、
実に快適です(笑)
それにこれを受け入れたところで、何も損することはないんですよ。
私はそれに気づいて以来、さっさと尺度を手放しました。
そして「みんなちがって みんないい」とこのブログの一番上に書いたのです(笑)
あ〜 すっきりした!
私は人を裁くことをやめました。
尺度自体を手放しました。
ある尺度を持って人を裁くことが好きな人の前から静かに立ち去るのみです(笑)
そして、自分は自分の喜びを追求し、人が喜びを追求することを尊重し、お互いに喜びを分かち合える時は、分かち合う。
そうでない時はただ、それはお互いの興味関心とタイミングが合わなかっただけ。
何も問題ありません。
そうなると人生に何も問題が生じなくなるのですよ!
何の問題もない人生!
お互いの喜びの追求と、その表現と、その分かち合いしか、存在しなくなるのです!
幸せになるのは実にシンプルなことです!(笑)