【幸せになる方法】死ぬことを考えると怖くなる

ご質問をいただきました。

(長文です(笑))

死ぬことを考えると怖くなる

今は自分の両親や祖父母共に健康なのだが、祖父母や両親が死んだ時のことを想像してしまい、怖くなる。
また、自分が死ぬ時のことも色々想像してしまう。
(死んだ後どうなるかが見えない恐怖と、いざ自分が高齢者になって余命が僅かになった時に、良好な精神状態でいられる気がしない)
  M(2019/01/25 12:31)

人間の本質は肉体を超えて転生する永遠の魂です。

ですから、永遠に続く生命の営みに望めば永遠に転生できるのです。
ですから、そういう意味で未来永劫「不安」などというものはあり得ないのです。

わかりやすく言えば、どうがんばっても本質的に「死ねない」のです(笑)

常に存続していくものを「永遠」といいますからね。

その事実をよく噛みしめ、自分の中に落とし込み、じっくり味わって身体に浸透させてください。

思考が現実化しますからね。
ずっと不安を抱いていると、その不安を現実化してしまうんですよ。

そうではなく、未来永劫続いていく永遠の生命、自分自身の永遠の生命の中に安らぎを感じることです。

それはふと空を見上げて無限に続く広大さを感じるようなものです。

昨夜は美しい満月だったのですよ。

ご覧になりましたか?(笑)

その本当の自分である内面にある永遠の魂に焦点をあて、それにフィットするようなものを人生で選ぶようにすると、不安はどこかに消えてしまいます。

それが本当の自分になるってことなんですよ。

自分の意思とは関係なく頻繁に暗い思考が浮かんでしま

アドバイスありがとうございます。
私はプライベートで家族と話したり、どこかに出かけたりすることも多いのですが、死んだらそのようなことも全てできなくなってしまうのかと思うと、とても寂しかったのです。
しかし、死後も魂として意識があり、また生を楽しむことができる、という話をきいて、少し安心しました。
しかし、私の場合は自分の意思とは関係なく頻繁に暗い思考が浮かんでしまう傾向にあり、一度『死んでも魂はあるんだ!』と前向きに捉えられても、少し時間が経つとすぐに、『でもやっぱり全部終わるのかも…どうしよう…怖い...』となってしまうのです。
(そんなことを考えても全く意味がないことは十分に承知しています
理屈抜きに『私は永遠に幸せに生きられる!!』と感じ、毎日幸せに過ごせる方法を、今模索している段階です。
その為に、物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたいのですが、
何かいい方法はありますでしょうか。
何度も質問してしまい、恐縮です。

M( 2019/01/25 21:23)

まず、ですね。

>自分の意思とは関係なく頻繁に暗い思考が浮かんでしま

ということですが、

人は自由意志をもっている

人は自由意志をもっています。

「自由意思」とは自分の意思、思考は自分で自由に選べるってことです。

自分が何を考えるかは、誰にも強制されないってことです。

ですから「自分の意思とは関係なく」と考えるのはやめた方がいいですね。

それは自分には「自由意思がない」という宣言になるからです。

自分に自由意思がなければ人生は怖いですよ!(笑)

自分がハンドルをもたない車が、自分を乗せて勝手に走り回っているんですからね!

いつぶつかることやら!

きゃ~っ

それが自分で自由にハンドルをきれないなんて!

どんな恐怖のアトラクションですかっ!(笑)

もちろん神は、人生をそんな恐怖のアトラクションとして創造されませんでした。

人は自由意志をもっています。

よかった!

人生のハンドルを自分で握っています。

ほんとうによかった!

自分がハンドルをきれいない車にただ、乗せられているなんて「やめて~」「おろして~」と叫びたくなりますよ!

ですから、「自分の意思とは関係なく頻繁に暗い思考が浮かんでしまう」なとと考えることはやめることです。

自分の選んだ思考の結果として生じているが、その関係に気づいいていないだけ

それは自分の選んだ思考の結果として生じているのですが、ただその関係に自分が気づいていないだけです。

無意識になっているのですね。

無意識はどこから生じるのか。

抑圧からですよ。

例えば、いつも帰る夜道に「おばけ」のようなものがいるとします。

考えまい考えまいとしても、やっぱり考えてしまう。

ダッシュで走ったり、回り道してみても、やっぱり怖い。

それを手放す方法はそれに直面すること

それを手放す方法はそれに直面することです。

一度、明るい時にでもその「おばけ」の正体を見に行くことです。

勇気を持って見てみたら、実は「布が風に揺らめいていただけだった」というのがわかります。

なぜ、何年も恐怖に囚われるのではなくて、もっと早く見なかったのか!

それを怖いから「考えまい、考えまい」として気づかないふりをしていても、それはそこにあり続けるのです。

そして、抑圧しているものは折を見て出てきます。

「未解決」だからですよ。

ですから必要なことはさっさと直面し「な~んだ!」ということなのです。

それが解決したってことです。

ですから、

>自分の意思とは関係なく頻繁に暗い思考が浮かんでしまう

という時は、

「いったい自分は何に直面せずに、抑圧しているのだろう?」と問うことが解決への道です。

そして自分が抑圧し続けてきたものにご対面し、「な~んだ!」といういことなのです。

そうしないと、「自分の意思とは関係ないように見える」思考がたびたび浮かんでくることになります。

「おばけ」の正体は「布だった」と気づくまで、いくら日中忘れていても「恐い」という思いから逃れることはできません。

さっさと正体を見てください(笑)

少し時間が経つとすぐに、『でもやっぱり全部終わるのかも…どうしよう…怖い...』となってしまう

>一度『死んでも魂はあるんだ!』と前向きに捉えられても、少し時間が経つとすぐに、『でもやっぱり全部終わるのかも…どうしよう…怖い...』となってしまうのです。
(そんなことを考えても全く意味がないことは十分に承知しています

今は東京大学名誉教授で救急医療に携わってきた矢作直樹さんなども魂について語っていますね。

そういう外の権威というか、証拠のようなものが欲しければ、そういう本や情報をいくらでも読んでください(笑)

物事の真実を見抜くための判定法

そして幸せになるための「物事の真実を見抜くための判定法」をお知らせしましょう。

「それを考えた時に喜びを感じるか」です。

例えば死ねばすべてが無くなるだけというのは底知れぬ恐怖ですよね。

しかし神は世界中で共通して慈悲であり愛の存在であるとされています。

もし神が愛の存在であるならば、どうしてそんな「無意味で恐怖しかない人生」を創造したりするでしょうか?

それは神が究極のサドだと言っているのと同じですよ!(笑)

つまり恐怖に震え怯える人間を見て楽しむ以外にこのような「無意味で恐怖しかない人生」を創造する意味などまったくないからです。

ですから、「死ねばすべてが無くなる」と考えるのは、

神を究極のサドと考えるのと同じことなんです!(笑)

まぁ究極のサドの神様が創造した世界に住んでるとしたら「つらいわなぁ~」

逆に「私の本質は永遠の魂」と考えてみてください。

「それを考えた時に喜びを感じる」でしょう。

これが私がよく「ハートの喜びに従って生きる」という生き方であり、

その判定方法なんですよ。

すべてのことに対してこれを適用して判断したらいいんです。

理屈抜きに『私は永遠に幸せに生きられる!!』と感じ、毎日幸せに過ごせる方法

>理屈抜きに『私は永遠に幸せに生きられる!!』と感じ、毎日幸せに過ごせる方法を、今模索している段階です。

理屈抜きですね!

素晴らしい~

理屈なんてないんですよ!

理由なんてないんです。

なぜ魂は永遠なのか。

(それは神なる存在は、神が宇宙の創造を意図するずっと以前のことですが、)

神なる意識が自分自身に気づいたとき、「それはただあった」のです!

理由なんてないんですよ。

理由があって生じたものは、理由がなくなれば消滅します。

しかし、神なる意識は「ただあった」のです。

そして、神の分け御霊である私たちの魂も「ただある」のです。

それに理由などないのです。

ただそれを知り、そのように認識するだけです。

そして神なる存在は、放っておけば宇宙を創造し、太陽を創造し、惑星を創造し、植物を創造し、動物を創造し、
花々を咲かせ、小鳥が歌うような喜びあふれる世界を創造されたのです。

神は放っておけばデフォルトで喜びにあふれている

神は放っておけばデフォルトで喜びにあふれているのですよ!(笑)

よかったですね!

おめでとうございます(笑)

神は理屈抜きに、永遠に存在し、放っておけばデフォルトで花々が咲き小鳥が歌う喜びあふれる世界を創造します。

そして私たちの本質である私たちの魂も、神の分け御魂であり、神と同じ性質をもっているのです!

よかったですね~(笑)

すべて解決です!

ただ私たちはそのような存在であると受け入れるだけです。

だってそうなんですから!

この宇宙、この大自然をよ~く観察してください。

ほっとけばこんなにも生命と喜びあふれる自然を創造するのが神です。

これが神の性質です。

ただ、宇宙はそうであるんですから、「そうである!」と受け入れるだけです。

それが理屈抜きで『私は永遠に幸せに生きられる!!』という意味の本質です。

だって、そうなんですから!

最初に気づくと神はただ存在した。

神は万物を創造した。

さて、神はすでに『永遠に幸せに生きている』わけです。

そして、私たちの魂は神の分け御魂なんですよ。

ですから永遠に幸せになれます。

ただ自分の本質を思いだすだけです。

だってそうなんですから!

魂は究極的に死ぬことはできないのです(笑)

もちろん肉体をもたないことはあります。

守護霊さんたちはみんなそうですね。

肉体を持ちたければ、そうすることもできます。

今私たちはそうしていますね(笑)

ですから「すでに何も問題ない」のです。

あなたの疑問点は「すでに解決している」のです。

それを感じられないのは、あなたが自分自身を肉体として認識ているからです。

自身が本当の自分を認めていないだけです(笑)

ただそれを認めるだけでいんですよ!(笑)

だって、最初からそうなんだから!(笑)

エゴが不幸の源

不幸があるのは私たちが自分自身を肉体的物質的存在と認識しているからなんですよ。

エゴと呼んでもいいです。

エゴというのは死すべき肉体的物質的感覚によって生じています。

ですから肉体は最終的には脱ぎ捨てるものであり、物質的なものはその時すべて置いていかないといけません。

服とか、車とか、家とか、お金とか、財産とかですね。

ですから、肉体やこれらのものと自分自身をあまりにも同一化し、同一視すると、それらが失われる過程というのは悲劇であり、苦しみであり、惨めですよね。

しかし、私たちの本質が永遠の魂であるとわかっているなら、それはちょうど秋みたいなものです。

冬に備えてこれから葉は散りますが、美しい紅葉を楽しむことができます。

そして、また冬を越えて春が巡り、また芽吹きの季節を迎えることを知っています。

そのことを知っていれば、秋というのは素晴らしい季節であり、何の悲壮感もないんですね。

ただ美しいだけです。

しかし、自分自身を物質であると考え、枯れゆく葉にあせり、もがき、苦しむならば、その秋はとてもみじめで苦しいものになります。

ただ単に「視点の違い」に過ぎない

秋が素晴らしい季節であると感じるのも、秋がみじめで苦しい季節であると感じるのも、その違いはただ単に「視点の違い」に過ぎないのです。

視点の違いに過ぎないんですよ!

人間も同じです。

自分自身を肉体であり、物質的なものしか認識しなければ、究極的には死がすべてを取り上げますから、とても惨めになります。

物質的な、車とか、とか、お金とか、財産とかに執着することも、肉体に執着するのと同じですね。

ですから、自分自身を肉体であり、物資的なものしか認識しない人を惨めさから救うことは「できない」のです。

イエスや仏陀でさえ、肉体を去ったのですからね。

あなたは決して肉体を去ることはないでしょう、などといい加減なことを言うことはできません。

しかし、私はイエスも仏陀ももちろん消えてなくなったとは思いません。

ただ肉体をもたなくてもその人は存続していきます。

それがイエスが「復活」と呼ばれる出来事で私たちに示したかったことですよ。

『私は永遠に幸せに生きられる!!』 と認識するには、視点を変えるだけ

理屈抜きで『私は永遠に幸せに生きられる!!』 と認識するには、

視点を変えることです。

私たちの本質は永遠の魂であり、今はただある「永遠の季節」の1ページ過ごしていると認識することですね。

そしてすべての季節は素晴らしいのですから、その季節を楽しみにピクニックに出かけることです!

それがすべきことです。

要するに、自分自身を肉体として捉え、物質的存在であるという認識を変え、私は永遠の魂と認識することです。

そして、永遠なのですから、四季のすべての季節において好きなだけ楽しくピクニックにでかけることです。

これからも何万回でも何億回でも望むだけ、ピクニックできるんですよ!(笑)

まぁそのころにはすっかり地球次元に飽きて別の転生を望んでいると思いますが(笑)

それが「悟り」と呼ばれている現象ですね。

仏陀は地球次元のあらゆるピクニックに飽きたのですよ!(笑)

だからと言ってもちろん不幸になるわけではありません。

今、イエスや仏陀が不幸であるなどとはとても思えませんよね(笑)

地球次元の物質的なピクニックに飽きたら、また物質のない次元で好きなだけ存在できるのです。

ただまぁ今はせっかく地球次元に転生しているのですから、この地球の素晴らしい四季を愛でるためにピクニックにでかけたらいいのです!

物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたいのですが、何かいい方法はありますでしょうか。

>その為に、物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたいのですが、何かいい方法はありますでしょうか。

ありません!(笑)

実はですね。
世の中にこんなに多くの「気晴らし」があるのは、誰もが不可避な死や本当の自分をあまり考えずに済むようにあるのです。

テレビや、ネットサーフィンや、酒もそうです。麻薬もそうですね。
アメリカでは鎮痛剤のオピオイドによる死者が年間3万人もいるそうですよ!

すべては現実を忘れるためです。

しかし、こういうものを使って究極的に現実を忘れられたためしはないんですよ!(笑)

ただ一時的に鈍感になり、忘れているふりをしているだけです。

必ずふとした時に、自分の人生の本質、物事を深く考え、どう生きるべきかなどということに立ち戻ってしまうのです。

それは絶対になくなりません。

忘れられないのは神(魂)の呼びかけだから

なぜなら、それは神の呼びかけなんですよ。

本当の自分自身(の魂)からの呼びかけと言ってもいいです。

私たちは物質的地球次元の中で、物質的な身体である人間と呼ばれる存在に転生することを選んだたいへんなチャレンジャーなのです。

私たちはこの物資的肉体に滞在し続けるために、本来の魂としての自分を忘れ、自分を肉体と同一視する必要がありました。

そうしないとすぐに、物質肉体から飛び出してしまい、肉体としての経験ができないからです。

ですから、私たちは肉体として生まれると過去世などを忘れるのはそのためです。

長く肉体に留まっておくためですね。

しかし、そうすると肉体に留まって長く肉体経験が楽しめるのはいいのですが、

自分自身は肉体的物資的存在であると考え、物質的存在としての輪廻転生の輪に捉えられてそこから抜けられなくなってしまうのです。

それが今私達が経験していることですね。

私たちにはそれぞれサポーターがついている

しかし、私たちが永遠に肉体に捉えられてしまうことがないように、私たちにはそれぞれサポーターがついています。

いわゆる守護霊と呼ばれる存在です。

彼らが絶えず、私たちが本来の自分を思い出すように働きかけるんですよ!

だからいつまでも「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感」でいることはできないのです。

彼らがつつき回すからです(笑)

それが彼らの任務です。

彼らは私たちのライフラインなんですよ。

私たちがあまりにもチャレンジングであり、肉体と呼ばれる経験に飛び込むほど勇敢だったために、

その私たちが望めばいつでも本来の自分に戻れるように、

肉体として、物質として、有限で惨めな存在に永遠に閉じ込められてしまうことがないように守護しているのです。

ですから、私たちが「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたい」と望んだところで無駄なんですよ!(笑)

私たちがいつでも「本当の自分に戻りたい」と思った時にサポートできるように万全の態勢で控えているのです。

ちょうど深海に潜る潜水夫を、船の上から酸素を送り続け、合図があればいつでもロープを引っ張れるように準備しているのと同じです。

その彼らが時々「お~い。大丈夫か?本当の自分を忘れていないか?私たちはいつでもロープを引っ張れるように待ってるぜ!忘れるな!」と合図を送ってくるのです。

だから私たちは必ずふとした時に「本当の自分って何なんだろう」という疑問が胸を捉えて放さなくなるのです。

それは彼らがつついているからですよ!(笑)

だから私たちが究極的に物質的現実に埋没し、本当の自分を忘れ、忘却のかなたに埋没し続けることはできないのです。

もちろん自由意思がある

もちろん自由意思があります。

彼ら守護霊たちも、神でさえも、私たちの自由意志を尊重します。

ですからあなたが「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたい」と望めば、すべては実現します。

アルコールであろうが、オピオイドであろうが、テレビであろうが、その他の娯楽であろうが、何でも手に入ります。

いくらでもそれをやり続けることができます。

それがあなたの自由意思による選択だからです。

それらはすべてあなたを鈍感し、物事を深く考えることから遠ざけてくれるでしょう。

一時的には。

世の中にある「娯楽」というものそのためにあるのですよ!(笑)

さあ、よりどりみどりです。

もし望むなら、なんでも好きなものを飽きるまでやったらいいのです。

ただしあらゆることにいつか飽きます。

そして虚しくなってきます。

それは避けられない。

彼らがつつくからですよ(笑)

本当に望んでいるのは、ものごとを明晰に捉え、すべてのことに敏感になり、ビビットで彩豊かな人生を歩むこと

なぜなら、本当のあなたが望んでいることは「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感に」なることではなく、

ものごとを明晰に捉え、すべてのことに敏感になり、ビビットで彩豊かな人生を歩むことからです。

幸せと「敏感さ」には大きな関係があります。

今この時点で、地球は素晴らしいもの満ちあふれています。

要はそれに「気づくか気づかないか」の違いだけなのです。

例えば数日前の満月は幻想的で本当に素晴らしいものでした。

地球人なら誰にでもできる夜空を見上げるという行為をせずに、家の中で不満と不安の思考をグルグル巡らし続けることもできます。

不幸とは何でしょうか?

家の中で不満と不安の思考をグルグル巡らし続けることです。

幸せとは何でしょうか?

外に出て夜空を見上げ、神秘的な満月を見つめて美しさに感動することです。

違いはそれだけですよ!(笑)

私たちを不幸と幸福に分けている幕は極めて薄いのです。

それには「敏感さ」が必要なんですよ。

満月はすべての人のものです。

しかし、その素晴らしさを受け取るためには「敏感さ」が必要なのです。

人生も同じです。

その人生の素晴らしさを受け取るためには「敏感さ」が必要なのです。

「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたい」 と望むことは、自分を敏感でなくし、

人生の素晴らしさに気づかなくさせて欲しいと言っているのと等しいのです。

そうすると地球や人生の素晴らしさに気づくことができなくなり

人生はこんなにもみじめで不幸なものだと結論づけることになります。

もしあなたが人生の喜びに気づくことがないなら、どこかの時点で「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたい」と望んだために、それが実現したからですよ。

だって満月はあんなにも幻想的で感動的にきれいだったのですから!

ですから「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたい」 などと望むものではありません。

世の中は「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になる」もので満ち溢れている

幸せになりたければ「もっと敏感でありたい」と望むことです。

この世にあるすべての素晴らしさに気づけるようになるためです。

しかしあなたが「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたい」と望むなら、

それは実現するでしょう。

世の中はそうするためのもので満ち溢れていますよ!(笑)

一番簡単なのは、だらだらテレビを見ることでしょうかね(笑)

画面を見続ける間、あなたは自分の現実を忘れることができるでしょう。

時間とお金に余裕があるならディズニーランドに行ったらいい!

彼らはそういうことのプロフェッショナルです。

ディズニーランドのトイレには鏡がないのを知っていますか?

なぜなら、トイレで自分の顔を見て現実に引き戻されるのを防ぐためです。

疲れ果てている自分自身を姿を見なくて済むように、ディズニーランドには鏡がないのです。

彼らはとても上手に現実を忘れさせてくれます(笑)

しかし、これらはすべて一時的なものです。

ですから「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたい」の望むことはお勧めできません。

どうせまたいつかあなたの守護霊がすきを見てあなたをつつくからですよ(笑)

本当の自分に気づくように常に促す

本当の自分に気づくように常に促すからです。

そしてそれをやめさせることは絶対にできません。

なぜならそれがあなたが肉体への転生にチャレンジする時の彼らとの約束だからです。

絶対に見放さないぞ!

何千年でも何万年でも、あなたが望む時、いつでもほんとうの自分に戻れるようにサポートするよ!

あなたを肉体的物質的現実に閉じ込めたまま、放置することは絶対にないぞ!

それを忘れるな!

だからあなたが望むならだけ安心して、肉体的現実へ転生していなさい。

この私たちの約束は絶対だ。

それがあなたが最初に肉体に転生する時に、自分の守護霊たちと交わした魂の約束なのです。

そして魂は永遠ですから、その約束は永遠なのです。

ですから、あなたが見捨てられることは絶対にないし、あなたが本当の自分を完全に忘れ去ることも絶対にできないのです。

だから「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感になりたい」などと望まないことです。

それは究極的には何の問題解決にもならないからです。

あなたに一時的に現実を忘れさせてくれたその「娯楽」には必ず飽きる時が来ます。

確かに鈍感であれば、結構長く 「娯楽」を楽しむことができるでしょう。

しかし、あなたがディズニーランドを何百回の転生で楽しんだところでいつか必ず飽きがきます。

それは今生で飽きがくるか、あと何百回目の転生で飽きが来るかの違いだけです。

どの娯楽もいつかなはあなたにとって、つまらないものになります。

すべての娯楽は飽きるんですよ!(笑)

酒でも、テレビでも、パチンコでもバクチでも何でもあらゆる娯楽に一生を費やして来た人をよく観察したらいいです。

彼らが幸せそうに見えますか?

ものごとに鈍感で、ある娯楽をいつまでもやっておられる人をです。

少々愚かしく感じるのではないでしょうか。

いつまでもガラガラで遊んでいる赤ちゃんと同じ

いつまでもガラガラで遊んでいる赤ちゃんと同じですよ。

その赤ちゃんが聡明なら、やがてガラガラに飽きて別のことをはじめるでしょう。

「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感」であること望むとは、いつまでガラガラで遊び続けることを望むということです。

それは少々愚かしいのです。

あなたが本気でガラガラで遊んでいる大人をみたら「何であなたはそんなガラガラでいつまでも遊べるの?バカみたい」と思いますよね(笑)

それと同じです。

だから「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感」でいて、この世が提供するありとあらゆる「ガラガラ」に我を忘れて人生を過ごすではなく、

物事をしっかりと理解し、とても敏感で感受性豊かに、なって素晴らしい人生を生きることを望むことです。

幸せな人生のためには豊かな感受性が必要

すべての人が人生で実現したいことの一つに素晴らしい恋愛があります。

多くの映画やアニメなどにも描かれていますが、その主人公はみんな感受性豊かで繊細ですよね。

おめめパッチリです!(笑)

おめめパッチリは感受性豊かであることの象徴ですよ。

もし鈍感な人物を描きたければ、目が細く眠ってしまいそうな顔を描くことでしょう。

幸せな人生のためには豊かな感受性が必要です。

もし自分を鈍感にしてしまったら、多くの素晴らしさを自ら手放してしまうことになります。

あらゆることは、自分の思考が現実して起こることですから、「物事をあまり深く考えず、程よく鈍感」でありたいと望めばそうなれます。

少なくとも一時的には。

しかし幸せになるためのゲートを自ら閉ざしてしまうことになります。

それでは「人生はこんなにも面白くないもの」と結論づけてしまいかねません。

そして自ら選んだことなのですが、その関連性に気づかなくなります。

ですから、物事をしっかりと理解し、とても敏感で感受性豊かになって、素晴らしい人生を生きることを望んでください。

それなら私自身も追求しているところだからです。

ですから、いくらでもそのためのアイディアならありますよ!(笑)

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