創造の原理(私たちは神と一体の共同創造者)

国立天文台は、宇宙は無から生じたとしている。

国立天文台はと右のリンクの一番下に以下のように書いている。「「無のゆらぎ」とは、物質も空間も、時間さえもない中で、ごく小さな宇宙が生まれては消えている状態のこと。それらの宇宙のひとつが何らかの原因で消えずに成長したのが、私たちの宇宙だというのです。では「無のゆらぎ」は何から生まれたのか。さらに「無のゆらぎ」の生みの親は、何から生まれたのか…。私たちはいつか、始まりの始まりへとたどりつけるのでしょうか?」

この「無のゆらぎ」の中では物質も時間も空間もないので、測定と証拠(エビデンス)から成り立つあらゆる学問は手が出せない。

観測するものが「無い」からだ。

国立天文台が「無のゆらぎの生みの親」「始まりの始まり」と表現しているものを私たちは仮に神と呼ぶ。

実際には何もない無であるから、文字もなく漢字もない、「神」という字もない。
だから「神」という字は「無のゆらぎの生みの親」とは何の関係もない。しかたがないので無から宇宙を生じさせたものを仮に「神」と呼んでいる。

さて私たちが日常経験しているもので、観測できないが確かに存在しているものがある。

意識(気づいていること)であり、思考であり、感情であり、フィーリングである。

(「神」というのはちんけな文字ではなく、膨大なフィーリングなのである。その膨大なフィーリングを感じている時、私たちは神に近づく。)

意識や思考、感情、フィーリングが実際に存在していることは私たちは日常生活を通じて「知っている」が実はこれらも測定できず、証拠(エビデンス)を提出することができないので、学問ではない。学問はこれらを無視する。

宇宙が「無のゆらぎ」から生じた以上、存在のすべては「無のゆらぎ」の生みの親からできている、それ以外のものは何も「無かった」のだから。

しかしいくら学問が無視していても私たちは意識(気づいていること)であり、思考であり、感情であり、フィーリングが存在していることを知っている。

それらは測定できないが存在する。

みんな知ってる。

宇宙が無であった時にも、測定できないが「無のゆらぎの生みの親」があった。

それは神と呼ばれる意識(気づいていること)であり、思考であり、感情であり、フィーリングである。

それらは物理的には観測できないため、ビッグバン以前は無であるとされた。

しかし私たちの本体もまた意識(気づいていること)であり、思考であり、感情であり、フィーリングなのである。

それを私たちの本体を神と同じと表現する。

宇宙には神以外のものは何もなかったから、私たちが神と同じ意識(気づいていること)であり、思考であり、感情であり、フィーリングであることは当然なのだ。

すべてはそこから創造された。

それしか材料はなかった。

神は意識、思考、感情、フィーリングを「使って」宇宙を創造した。

私たちも、意識、思考、感情、フィーリングを「使って」現実を創造する。

私たちもまた、意識(気づいていること)であり、思考、感情、フィーリングを「使って」創造し続け神と一体の共同創造者なのだ。

まだ無しかなかったとき、神はどのように宇宙を創造したのだろうか。神という存在がどんなものか体験し、知りたいと思考し、激しい情熱を感じたのだ、そのフィーリングを使って、ビッグバンを起こし宇宙を創造した。

神は自ら膨張しはじめたのだ。

だから創造に必要なのは、意識と思考、激しい情熱という感情やフィーリングなのである。

激しい情熱を持って打ち込む人はすべて何事かを成し遂げるものだ。

それが創造のエネルギーだからである。

神という意識が無から有を生じさせるためには、二元性を生じさせる必要があった。
ゼロからプラス(陽子)とマイナス(電子)を生じさせることで、無から有を創造した。プラスとマイナスは差し引きゼロであるが、分離することではじめて存在させることができる。

光と闇、男性性と女性性、上と下、善と悪、卑俗なもの神聖なもの・・・あらゆるものを無から、生じさせた。

二元性に分けるしか、無から有を生じさせることはできなかったからである。

あらゆる物質的現象を生じさせたのは、神と呼ばれる意識(気づいていること)であり、思考であり、感情であり、フィーリングである。

私たちもまた、神と同じ意識(気づいていること)であり、思考であり、感情であり、フィーリングである。

私たちは神と一体の共同創造者である。

だから思うことが実現するのだ。

これが創造の原理である。

神との共同創造者であることを忘れてしまった私たち

さて、私たちは神と一体の共同創造者なのだが、物質世界に転生を繰り返すうちにそのことをすっかり忘れてしまった。
しかし、この宇宙が無から神によって創造された以上、私たちが神と一体の共同創造者であるという事実は失われようがない。宇宙には神以外の材料は何も無かった。
しかしちょうど、膨大な資産を譲り受けて、それをどこかにしまって何度も転生して遊びほうけている間に、すっかり自分が膨大な資産を持っていることを忘れてしまい、「自分は貧しい」「生きるのはつらい」などと途方に暮れているのと同じだ。
どれだけ膨大な資産を受け継いでいようと、「その存在を忘れて」いれば、その人にとっては「ないに等しい」。

自分が人間という肉体的存在で非力でか弱い存在と、「自分で思う現実」を創造し続けている。

それはそれで何も問題ない。

制約がなければゲームは面白くない。

サッカーは手は使ってはいけないし、限られたゴールにボールを蹴り込まなければならないから面白い。

何の制約もなければゲームにならない。

問題は、そのゲームに熱中するあまり、それがゲームであることをすっかり忘れてしまい、元々は自分がそのゲームをプレイすることに同意して始めたことも忘れ、そのゲームから抜け出せることさえ忘れ、そのゲームの中にすっかり疲れ、怯え、恐怖し、どうにもならない不安にさいなまれていることだ。

それが人間の現実だ。

もともとそれらは、自分たちが神と共同創造したものなのだ。

だからどのような制約されたゲームであれ、それは自分自身が創造したものだ。

それが「自分で創造したものだ」と気づくことによって、変更が可能になる。

自分がそれを創造したということに気づかない限り、そこから抜け出すことはできない。

なぜなら抜け出られないと「思っているからだ」。

だから物質世界のあらゆる現実は、自分が創造したことに気づき、意識(気づいていること)であり、思考であり、感情であり、フィーリングを使って変更することができる。

それらが元々すべての物質的現実を生じさせたからだ。

意識(気づいていること)、思考、感情、フィーリングを使ってあらゆる現実が創造できるということこそが私たちの膨大な資産なのである。

問題は「私たちがそのことを忘れている」ただ、その一点にある。

それは失われてはいない。

それは私たちの本性である。

日々それを使って現実を創造している。

問題は、私たちが、意識(気づいていること)、思考、感情、フィーリングをどのように使って現実を創造しているのかすっかり忘れてしまっていることにある。

それだけなのである。

神の計画

さて、宇宙は神以外のものは何もなく、私たちは神と一体の共同創造者なのだがそれをすっかり忘れてしまっている。

だが自分の手を見て欲しい。

皮膚があり、指紋があり、爪があり、神経があり、血管があり、関節があり・・・至高の精緻な現象なのである。

それら肉体が、意識(気づいていること)、思考、感情、フィーリングという私たちの本体を乗せて、「体験すること」を可能にしている。

それらは決して無秩序にそうなったわけではない。

進化と呼ばれる一定の方向性が存在する。

その手はそれが成し遂げてきた神の最高傑作なのである。

その宇宙の方向性を「神の計画」と呼んでいる。

その「神の計画」に沿うことでものごとはスムーズに進展する。

それに沿わないものごとは、困難に遭遇し、永続きしない。

だから私たちは、本来「神と一体の共同創造者」なのだから、その内にあるフィーリング、魂の声に耳を傾けてそこから情熱を得て物質界に働きかければ、私たちの現実を非常にスムーズに創造することができる。
それが神の方向性であり、「神の計画」だからだ。

そのフィーリングは外を見ることでは決して見つからない。

なぜなら、「神と一体の共同創造者」たる私たちの意識(気づいていること)、思考、感情、フィーリングは内にあるからだ。

私たちが、より健康であること、喜びにあふれること、より長寿であること、より偉大であること、より神のフィーリングに近づくことこそ、私たちの進化の方向性である。

バシャールが何でもいいから「自分が一番ワクワクすること」をすること言っているのと同じである。「ワクワクする」というのは「人生の中で真の自分を表現することの出来る波動」を表し、その波動は同じような波動を引き寄せるという。自分のワクワクする気持ち(興奮する気持ち)に従って生きることが人生の目的であるとも発言している。」

人生の目的とは

宇宙は無から生じた。私たちは神と一体の共同創造者である。

では私たちの人生の目的とは何か?

自分の人生を創造することを通じて、神と共同創造し続けることである。

それが新たに宇宙を構成し続けている。

神が無からを自ら知るために宇宙を創造し、私たちは神と一体の共同創造者として存在し続けている以上、

私たちの人生の目的とは、大いなる創造を楽しみ、創造の中に飛び込んで経験し尽すことなのだ。

神は宇宙を創造し、地球を創造し、大自然を創造し、社会を創造し、人生を創造した。

そして、意識(気づいていること)、思考、感情、フィーリングである神の本体は、その素晴らしき創造の中に飛び込んで経験してみたい!という熱い情熱を抑えることができなかったのだ。

だから私たちは、意識(気づいていること)、思考、感情、フィーリングである私たちの本体であり神の本体でもある、魂と呼ばれる私たちの本質とともにこの肉体に飛び込んで大いに自分が創造した物質世界がどういうものであるか経験し尽くしているのだ。
それが神と私たちの関係である。

神は私たちの意識(気づいていること)、思考、感情、フィーリングを通じて、物質世界の体験を大いに楽しんでいるのだ。

宇宙は拡大している。

創造は続いていく。

私たちの人生の目的とは、自分の人生を創造することで、神と一体の宇宙の共同創造に参加し、この豊かな神の創造をともに推し進めながら、生きることを楽しみ経験し尽すことなのだ。

それ以外に神が無から宇宙を生じさせた意図などなかった。

あなたは自分を限られた肉体をもつ、非力で有限な存在であると考えるだろうか。
神と一体である共同創造者で、生きることを楽しみ経験し尽くすために存在していると考えるだろうか。

「どのように考えようと」神はその通りの人生を創造してくれる。

ならば、宇宙や地球、大自然という素晴らしい創造を実際に生きることを楽しみ経験し尽すことを選んでいる最中の神と同じ材料からできている神と一体の共同創造者であると考えた方が得ではないか!宇宙誕生の経緯を考えればそうでしかあり得ないのだから。

物質次元を楽しむためには、自らを物質次元入り込む必要があった。

人間を創造し、その中に意識(気づいていること)、思考、感情、フィーリングという私たちの本体を閉じ込める必要があった。

それがこの地球次元を楽しむルールだった。

私たちはこの物質的地球次元において、生きることを楽しみ経験し尽くしている、神と一体の共同創造者なのである。

私たちは現実を創造するツールをすでにもっている。

それを失ったことは一度もなかった。

ただ「制限された思考」を自分自身だと思うことで「制限された思考」そのままの自分の人生を創造し経験しているだけなのである。

思うことが実現する。

「自分自身をどのような存在であるかと考え、感じることが」自分の現実を創造し続けている。

自分がどのような存在であるかと考えるのは私たちの完全な自由なのである。

ただそれが「大衆意識」という常識を受け入れることで、私たちの本質をすっかり忘れていることだけが問題なのだ。

Imagine(イマジン)

Imagine there’s no Heaven
It’s easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
sharig for today…Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peaceYou may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as oneImagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the worldYou may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will live as one
想像してごらん 天国なんて無いと
やってみれば簡単なことさ
僕らの下に地獄なんて無く
僕たちの上には ただ空があるだけ
想像してごらん みんなで
ただ今をわかちあってるって・・・想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないよ
殺すことも死ぬことも無い
そして宗教も無い
想像してごらん みんなが
平和に生きてい暮らしを…あなたは僕を夢想家だと言うかもしれないね
でも僕は一人じゃない
いつかあなたもみんなと一緒になって
そして世界はひとつになるんだ想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって…あなたは僕を夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんなと一緒になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

あなたは世界と自分自身をどのようなものであると想像するだろうか。

あなたはそのような世界に住み、そのような自分を経験することになる。

それだけなのである。

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