舞鶴引揚記念館に来た。
太平洋戦争における最大の死者数は東京大空襲(約8万4,000人)でも、広島の原爆(約14万人)でもなく、旧満州からの引き揚げ途中で亡くなった人(約24万5000人)だ。
敗戦時(1945年8月15日)約155万人の日本人が満州にいた。
このうちの2人は私の祖母とまだ幼かった父で当時ハルピンにいたようだ。
死者約24万5000人ということは、15.8%。40人クラスの海外修学旅行で帰る途中で友達が6人死んでしまった。
私は以前、長春(旧奉天)からハルピンへ、旧満州鉄道を使って旅したことがある。
数時間の移動だった。
ん?
当時の蒸気機関は今より遅いとしても1日あれば充分に移動できる距離だ。
長春(奉天)から葫蘆島(コロ島・中国側の主要引揚港)あたりまで含めても2日もあれば充分じゃないか。
ところが父に聞いたところ、日本に帰るまで3年半かかったという。
満鉄に乗ればいいじゃないか。まあ軍人や役人が先に帰るとしても1年もあれば順番が来るんじゃないのかな?
そう思った。
ところが敗戦を知った関東軍(旧満州日本軍)が満州鉄道を破壊しながら撤退した。
まだ日本人が満州に155万人もいるのに、唯一の帰国手段である満州鉄道を日本人が破壊した。
関東軍(旧満州日本軍)が撤退中にソ連軍が満州鉄道を使って急速に追って来るのを防ぐためだ。
いざとなったら政治家や軍人というものは、一般人がどうやって帰国するのかということなど1ミリも考えない。
それで帰国手段を失った満州に取り残された155万人の日本人のうち24万5千人が死ぬことになった。
どうやって帰ったのか?
歩いて帰ったのだ。
家も収入も失った日本人たちは、背負えるだけの荷物を背負い、歩いた。
しかも敵国の中をだ。
日本が旧満州を占領して155万人もの日本人が入植する過程で、自分の土地を取り上げられたりした中国人も少なからずいた。
かつて身ぐるみはがれた中国人は今度は日本人を身ぐるみはぐ。
それは仕方がない。
しかも旧満州は冬にはマイナス30度にも達することがある所だ。
祖母と父は帰国まで3年半かかったと。こういう状況で3回も満州の冬を越したということだ。
その上、北からソ連軍が日本人を標的に急速に満州に攻め込んで来た。
私の父は左耳の上に銃弾がかすめた跡がある。
日本に向かって歩いている途中に、ソ連兵から狙撃された跡だ。
まだ幼かった父にもソ連兵は容赦なかった。
奉天(長春)にたどり着くと部屋を確保して冬を越した。収入がないので中国語がしゃべれた幼い父は、豆腐を仕入れて通りで売っていたという。
満州の冬は寒く、豆腐をあつかう手が霜焼で真っ赤に腫れあがりつらかったそうだ。
そうやってわずかな金を稼いだ。
そんなこんなで太平洋戦争最大の約24万5000人の日本人が死んだ。
舞鶴引揚記念館の分厚い資料を抱えた年配のスタッフが1時間くらい付き合ってくれて色々詳しく説明してくれた。
展示には表現していないが、生きるか死ぬかの逃避行の途中で、子供を売らざるを得なかった人も少なくなかった。相場もあって男の子は300円、女の子は500円だったそうだ。女の子は性的需要があって高かったそうだ。
必死の思いで子供と一緒に中国側引揚港の葫蘆(コロ)島までやって来て、子供の乗船手続きを終えると、青酸カリを飲んで自殺する女性がたくさんいた。途中でレイプされ自分は日本に帰れないと思ったからだ。
当時はここ舞鶴港では自分の子供の帰国を待ち続ける人がたくさんいて岸壁の母と呼ばれていた。
東京都在住の端野いせさんもそのひとりで、「岸壁の母」の歌のモデルとなった。
歌手の二葉百合子さんが晩年病床に伏していた端野いせさんを見舞った時、
「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」一瞬たりとも新二のことを忘れたことがないと語っていたという。
岸壁の母 碑
広島平和記念資料館、知覧特攻平和会館と舞鶴引揚記念館は日本人として死ぬまでに一度は巡礼しておきたい。