多重人格の問題の解決

 人生がうまくいかない人はほとんど多重人格です。
 病気も多重人格によって生じています。

 見える世界の医学の世界でも多重人格で口調や性格などがガラッと変わると、病気までガラッと入れ替わることがわかっています。
 性格が入れ替わると、血圧が変わり、血液成分が変わり、皮膚病が消え、潰瘍が現れるのです。
 これは見える世界で観察される科学的事実です。

 その人の性格が明らかに変わり、声の性別が変わると、誰の目にも人格が変わったことが明らかになり「精神病」として上記のような観察の対象になりますが、実は一般の人の多くがそこまではっきりとわからないだけで、ほとんどの人が多重人格です。

 それは接する人によって態度を変えているからです。

 自分より弱い立場の人間には威張り、横柄な態度をとり、自分より強い人に対しては、ころっと態度が変わります。

 家族に話すと時と、電話に出る時の声のトーンがまったく違います。
 
 2つの態度を使い分けている人は二重人格です。

 職場での顔、ひとりの時の顔、家族といっしょの時の顔、友達の一緒の時の顔、多くの態度を使い分けている人は多重人格です。

 子供に話すときも、大人と話す時も、上司と話す時も、お客さんと話す時も、家族と一緒の時も、友人と一緒の時も、同じ自分である人は人格が一つです。

 誰に対しても、同じ正直さ、同じ誠実さ、同じ厳しさ、同じ優しさで接します。

 例えば、私は子供に対しても、天光地で話す時も、同じ自分が真実だと思うことを同じ誠実さで話します。
 大人に対する表現と子供に対する表現が違うことはあります。

 しかしそれはまったく同一の私から生じる異なる表現であって、私自身が人によって誠実や正直さなどを切り替えているわけではありません。

 私は子供であろうと、親であろうと、職場であろうと、友人であろうと、天光地であろうと、他の誰であろうと相手が受容できる表現方法で、同じ誠実さ正直さでもって自分が真実だと経験し知っていることを分かちあっています。

 人によって態度を変えているのではなく、相手の実情にあわせて話をしているだけです。

 自分自身は何の違いもありません。

 そうなると人生は極めてシンプルです。

 誰にどのようなウソをついたかなどまったく覚えている必要はありません。

 人生のいついかなる時もただ「自分自身」であるだけです。

 多重人格とは神様と自分以外に別の尺度を持つことです。

 人に認められたいと思うと多重人格になります。

 なぜなら学校の先生に認められたいと思うと、学校の先生の尺度に自分を合わせなければなりません。
 親に認められたいと思うと、本当にやりたいことを諦めて、親の仕事を継がないと認めてもらえません。
 ・・・・
 
 人に認められたいと思うと、その人の尺度に自分をあわせ、その人の前ではいい子ちゃんを演じます。
 しかし、その人から見ればお行儀がいい、よく言うことを聞くいい子ですが、それは本当に自分がやりたかったことではなく、本来の自分を押し殺し、その人の尺度に自分を合わせただけです。

 しかし、自分が認められたい上司も、先生も、親も誰もが自分自身の問題を抱え病気になっています。
 そんな人たちの尺度に自分を押し殺して、合わせようとするのですから、自分はもっとひどいことなるのはあたりまえです。

 そうして、本来の自分を押し殺す「立派な人格」をいくつも作り上げて立派な人を演じ続け、その偽りの「立派な人格」と本来の自分のギャップが病気を生み出しています。

 自分は「立派な人格」を演じているな、外の顔と内の顔は違うな、人によって見せる表情が違うな、接する態度が違うなという人は多重人格です。

 それを自覚し、
 神さまと自分以外に評価尺度を持たず、
 誰よりも自分に対して、誠実で正直で、無邪気でシンプルな自分であれば、誰に対しても誠実で正直で、無邪気でシンプルな自分になれます。
 それが本来の自分であり、病気やトラブル、不幸のない自分です。
 自分以外の人格を演じることをやめると同時に病気やトラブル、不幸消え去って行くのです。

 神さまと自分以外の誰かの評価尺度にあわせて演じた「立派な人格」は実にくだらないものです。
 それらは死と同時に取り去られてしまい、自分には何も残りません。
 それは病気や不幸をもつ人の尺度に自分をあわせたまがい物に過ぎない、偽りの自分だったからです。

 羽織袴で、裃をピンとさせて生きていても、羽織袴も、裃も本来の自分ではありません。
 それを脱げばまったくその権威、立派さは自分に属していなかったことを思い知ります。
 誰も自分に敬意を払ってくれません。
 自分が演じている「立派な人格」も羽織袴や裃と同じです。
 それは本来の自分を押し殺し、その人が見たい自分を演じて見せているだけです。
 その「立派な人格」を脱げば誰も私たちを見向きもしません。

 しかし、子供に対してであれ、大人に対してであれ、友人に対してであれ、職場の人に対してであれ、お客さんに対してであれ、
 同じ、誠実さ、正直さで自分の経験したことを語る時、その言葉、その誠実さ、その正直さはすべて本来のその人に属しています。
 その経験を通じて知った叡智は、その人の魂に刻まれた、その人そのものの言葉です。

 たとえ死して肉体を離れ、次の時代に転生を果たしても、その同じ誠実さ、正直さで、自分が経験して知った真実を語るのです。

 それがその人自身に備わる、死によっても奪い去ることができない、その人そのものであり、その人の権威です。

 人にあわせて演じた「立派な人格」など、すぐに失われるまったくはかない、まがい物です。

 本来の自分でない「立派な人格」を演じ続けることが、自分が満たされない、不満の源です。

 本来自分がしたいことをしていなのですから、いつまでたっても満たされることがないのは当たり前です。

 神と自分だけを尺度に、本当の自分を生き、自分の経験に学び、経験を通じて得た叡智を語るのです。

 それがただ一つの本来の自分の人格であり、何者によっても奪われない、死によっても奪われない自分の権威であり、自分のよって立つものです。

 それ以外に価値ある権威など、この世に存在しないのです。

スポンサーリンク

シェアする

スポンサーリンク