自分のわがままな行動を長年続け家族に迷惑をかけ、あげく病気になって入院いてしてる家族のお持ちの方からご質問をいただきした。
「きょうだい達は、なぜそんなにやってあげなきゃいけないと
なぜお金も出してるのにと
平行線です。
いま、現在は、私ひとりが退院のぞみ
きょうだいは、入院させておけと言っています。
愛をもって愛を返す
私は正直どうすべきか
分からなくなっています。」
「〇〇さま
おはようございます。
まず大切なことは、誰もが自分の人生にしか責任はないということです。
人には自由があります。
ですから自分以外の誰かがすることに干渉できません。
その代わりに、自分以外の誰かがすることにも責任はありません。
たとえ家族であってもです。
誰かが自由意志ですることに、責任があったら大変です。
人生は誰かのしりぬぐいの連続であり、人生はそれで終わるでしょう。
幾多の転生も人のしりぬぐいの繰り返しでしょう。
犠牲の日々です。
神様はそのように世界を作られませんでした。
誰もが自分の人生に責任を取り、自分で自分を幸せにすれば十分なのです。
みんながそれをすれば世界中幸せになります。
それが世界を幸せにする方法です。
それ以外に道はありません。
みずから自由意志で不幸になる人はたくさんいますが、それをどうすることもできません。
そして、もし誰かが神の摂理を踏み外し、自分で痛みや病気や不幸になったら、
その人はその元になる原因を自分で選んだのです。
その結果から自分が学ぶのを静かに見守るのもまた愛です。
なぜなら神様がそうされているからです。
神様は人が自分で作った痛みや病気、不幸を本人が気づくことなく自動で取り除かれはしないのです。
本人が気づくのを辛抱強く待たれます。
もし神様がそのように世の中を作られたのなら、私たちもそれに従うしかありません。
そして、もしご本人が「私は何を間違ったんだろう」「どうしたらこの状況から抜けられるのかな」「何としても抜けなくちゃ」「絶対このままでは終われない」。自分の人生をよりよくしたいという思いが強くなったのなら。
不幸になればなるほど、その気づきへの希求が強くなります。
そうすると、神様は「必ず」答えを与えられるのです。
それが神様のやり方です。
その気づきのお手伝いができるのなら、ぜひそうしてあげてください。
ですから、もし相手が求めてきて、自分が何か相手に貢献できるものをもっているなら、愛をもって貢献してください。
基準はあくまで「自分の喜び」です。
もしマザーテレサのように誰かに献身的に尽くすことが「湧き上がる自分の喜び」なら、そうしてください。
しかし、それが自分「それがいいことだから」と「考えた」ことなら、やめておいた方がいいです。
神様を見習って相手の気づきを待ったらどうでしょうか。
あなたの献身は徒労に終わる可能性があるからです。
無駄に犠牲になることはありません。
何かの「立派な考え」に従う時、のちのち「自分は犠牲になった」と思うのではないですか。
「私はこんなに尽くしたのに」と思うのではないですか。
ならやめておいた方がいいです。
その献身があなたが「ハートに湧き上がる喜び」なら、その献身自体がご褒美です。
それが人生の意味です。
あなたはまだ自分の人生を得ていないのではないですか。
人生の豊かさ、素晴らしさ、美しさ、喜びを経験していないのではないですか。
その「献身」に自分の人生を費やすことによって、自分の人生を取り逃がしたと思うではないですか。
あなたは天真爛漫な喜びあふれる豊かで幸せな人生を歩いているのでしょうか。
もしそうなら、それを周囲の人々の分けてあげてください。
もしあなたが「立派な考え」による献身で、本音のところで「自分は人生を取り逃がし、犠牲になった」と思いがわずかでも生じるのなら、あなたは「立派な考えで、誰かの犠牲になり自分の人生を取り逃がす」という「不幸」を自分の周囲の人に与えることになります。
なぜなら人は、自分がもっているものしか人に与えることができないからです。
そうやって代々「立派な考えで、誰かの犠牲になり自分の人生を取り逃がす」という「不幸」が受け継がれて来たのです。
あなたは自分の子供にそのような人生を歩いてもらいたいですか。
自分の子供には天真爛漫な喜びあふれる豊かで幸せな人生を歩いてもらいたいのではないですか。
なら自分にそうしてください。
それが自分を愛するということです。
あなたは人の「幸せ」に貢献したいのですか。
ならまず自分が幸せになることです。
人は自分がもっているものしか、人に与えることはできないのですから。
あなた自身の人生が幸せに輝く時、もうあなたは周囲を幸せにしているのです。
榎本」(2016年1月17日 8:22)