女の子は どんな所にお嫁に行くか分かりません。娘に継母かと思われるほど、厳しく育てて来ました。

娘さんが嫁ぎ先で、とてもかわいがられているのですが、ストレスからか体調不良になってしまったお母様からメールをいただきました。

・・・ 娘を大事に思っているのは、本当に心からの気持ちです。

成長するまでは、継母かと思ってた…と娘の口から言わせるほど、厳しく育てて来ましたが… 女の子は どんな所にお嫁に行くか分かりません。

嫁ぎ先で 恥ずかしい思いをしない様に、行儀も 言葉も、 情緒も豊かで 思いやりの心を持った娘になってくれる様に、その想いを込めて  しつけをしました。

ご縁が有って 榎本先生のお話を読ませて頂く中で 反省する所も いっぱい有ります。 榎本先生に「ご縁」を頂いた事は、やっぱり 私の人生の宝です。 娘を大事に思っているのは、本当に心からの気持ちです。( 2018年5月14日 22:28)

そのお気持ちは本当であることはよくわかります。

成長するまでは、継母かと思ってた…と娘の口から言わせるほど、厳しく育てて来ましたが… 女の子は どんな所にお嫁に行くか分かりません。

嫁ぎ先で 恥ずかしい思いをしない様に、行儀も 言葉も、 情緒も豊かで 思いやりの心を持った娘になってくれる様に、その想いを込めて  しつけをしました。

「人の役に立つように」と立派に育てられすぎている

嫁ぎ先で恥ずかしくない女性に育てるというのは本当に立派なことです。

しかし、それを全うするためにあまりに自分を抑え自分に厳しくし、病気になってしまっては何にもなりません。

そういう想いと共に、ただ嫁ぎ先に自分を合わせるだけでなく、どう自分自身の幸せと周囲との関係をバランスさせるかが大事になります。

日本人にはとても「いい人」が多いのです。

人に重宝がられ、何事もNOと言えない人です。人に自分がどう評価されるかを、自分自身の幸せ以上に大切にしているのです。

そうすると自分の人生の幸せ、喜びは二の次三の次になり、結局「人のため」に生きてしまい、自分自身の幸せのための時間も場所も失ってしまいます。

そうして極端な場合、生きる意味を見失い、鬱になったり、眠れなくなったり、導眠剤という麻薬が手放せなくなったりします。 ストレスで病気になるんですよ。

それはいかに自分の幸せと周囲の幸せをバランスさせるかという「視点」がないからです。

私がそんなボロボロになってしまった人と話をすると「自分を大切にしていいと思ったことがなかった」などと言われるのです。

あまりに「人の役に立つように」と立派に育てられすぎているのですよ。

私は自分の子供は、「自分の喜びを大切にして生きなさい」と育ててきました。

周囲には色んな価値観の人がいますから、周囲に合わせていたらキリがないし、自分が分裂してしまうからです。 周囲の人は、その人が今どんな他の仕事を抱えているとか、悩みをもっているとかそんなことはまったくわからないのです。

それでいい人のあなたに「これやっといてね」と次々にあなたを便利に使い続けます。

キリがないのです。

その度にあなたは「はい」と笑顔で応えます。

「いい人」だから人の役に立ちたいと一生懸命頑張るのです。

しかし、キリがないし周囲の人はあなたの状況を理解しません。

なぜならあなた以外には誰にもそれはわからないからです。 だからあなた自身が周囲と自分の幸せのバランスをとる術を身につけなければ、自分自身がつぶれてしまいます。

周囲にいる人は「いい人」ばかりではない

しかもあなたの周囲にいる人は「いい人」ばかりではありません。

モリカケ問題を見てください。エライ人のすることをです。

そういう人のために身を粉にして働いて一体何になりますか。

彼らに利用されるだけです。

世の中には残念ながらそうやって「いい人」から絞れるだけ絞ってなんとも思わない人もたくさんいるのです。

そういう世の中に自分を合わせようとがんばり続けても、どこにも行き着かないのです。

幸せになれません。 ただただ消耗するだけです。

社会自体に歪んだ部分があるのです。

日本は毎月50万円の収入がある人が、毎月40万円医療費に使い、毎月60万円借金しながら生活している人と同じ国家財政です。

こういうのは続かないのです。

社会や色んなところに、「こういうのは続かない」ことがたくさんあるのです。

もし、子供を周囲の人に気に入られ、周囲に役立つ人に育てたら、「こういう続かない」ことに自分の人生が巻き込まれ、キリがないストレスに押しつぶされてボロボロになってしまう人が本当に多いのです。

日本人は年間30万人くらい自殺するそうですが、本当に「いい人」が多いんですよ。 そんなことになったら何にもならない。

「ずっと続く幸せの道」に子供を導かないといけない。

「ずっと続く幸せの道」に子供を導かないといけない。

そのためにはただ単に「周囲に気に入られる」人に育てるだけではダメなんですよ。

「自分が喜びを感じることを通じて、周囲の人に貢献する」人に育てないといけません。 「軸は自分にある」のです。 「軸が自分以外(周囲)にあったら」、決して幸せになれないのです。 自分が喜びを感じることを最優先するのです。

私もそうしてきたんですよ。

そうすると私の場合は遠隔浄化にたどり着いた。

自分が喜びを感じることで周囲に貢献できているのが一番いい状態です。

私は心身ともに健康ですし、幸せですよ。

なぜなら私にはある意味ストレスがないからです。 遠隔浄化は私にとっては好きなこと、喜びを感じることですから、それにどれだけ打ち込もうとそれはただ単に自分が喜びを感じることをしているだけです。

私は時には通常の人以上に連日連夜あることを調べたり本を読んだりすることもありますが、まったく苦にならないのです。

それはただ単に「自分がそうしたい」ことだからです。

誰に気に入られようととしてそうしているわけじゃないんですよ。 自分以外に評価する人は誰もいないのです。

だからそれを一生懸命やっても、喜びと楽しさと充実感しかない。

これがいい状態です。

「自分が喜びを感じることは何か」を真剣に探求すること

こういう状態にたどり着くには、「自分が喜びを感じることは何か」を真剣に探求することです。

ある意味周囲の評価はまったく無視してきたのです。

なぜなら誰も遠隔浄化みたいなことに関心がないから。(笑)

もし私が周囲の人に気に入られるように人生を生きていたら、私が現在のように遠隔浄化を通じて人に貢献する生き方はできなかったのです。

私は自分が喜びを感じることは何かと探求してきました。

自分がそうしてきたから、人が自分の喜びを探求するのを認められるのです。

自分が周囲の犠牲になったと感じている人は、自分が目下と考える人が、自分の喜びを探求するのが許せないのです。

なぜなら自分は周囲の犠牲になったからです。

それが立派な生き方だと信じているからです。 あなたも私のような立派な人間になりなさいというわけです。

そういう人は、目下が自分の喜びを探求することが許せず、周囲のために自分を犠牲にする生き方を教え、それを褒めるのです。

嫁の掃除が行き届いるかいつもチェックする姑になるのですよ(笑) それが嫁の常識、それが女の生きる道というわけです。

しかし、それでは残念ながら幸せになれないことも多い。

人は自分がもっているものしか分け与えることができない。 それが通用するのは、嫁ぎ先や就職先の目上の人が、「自分が喜びを感じることで周囲に貢献する」ことを探求してきた人の場合だけです。

なぜならその時、あなたがその人に気に入られようと頑張ろうとしたら、その人は「自分が喜びを感じることをしなさい」としか言わないからです。

なぜなら自分がそうしてきたから、それ以外のアドバイスが思い浮かばないからです。

自分が周囲の犠牲になった人は「あなたも周囲の犠牲になりなさい。それが立派な生き方です。」としか言わないのですよ。

なぜなら自分がそうしてきたから、それ以外のアドバイスが思い浮かばないのです。

人は自分にないものを人に与えることができないのです。

だから人を幸せにしたかったら、まず自分が幸せになって見せることです。

それで初めてどうしたら幸せになれるか、どうしたら喜びにあふれて生きることができるのか、人に伝えることができます。

その人に自分を合わせようと思うのなら、その人自身の生き様をみて「私はその人のようになりたいか?」と自分に問うてから

もし自分を人に合わせようと思うのなら、「その人の言っていること」ではなく「その人の生き様」を見ることです。

その人はいつも不機嫌ではないか?いつも穏やかで喜びにあふれているか? そして「私はその人のようになりたいか?」と自分に問うことです。

それがYESなら、その人のいう言うを取り入れ自分の人生に取り入れたらいい。

もしその人がいつも不機嫌であり、穏やかなく喜びにもあふれておらず、その人の「生き様」を見て、「自分もその人のようになりたい」と思えないなら、 そして、その人が「あなたはこうすべきだ、ああすべきだ」とありがたくも「指導」しようとするなら、一秒でも早くさっさとその人の元から静かに立ち去ることです。

なぜなら、生涯をかけてその人の言うことを実践したところで、せいぜい「その人」のようにしかなれないからです。 あなたが「その人のようになりたい」と心底思えないなら、その人の言うことを聞いてもあなたにとっては何の役にも立たないのです。

せいぜい生涯をかけて「その人のようになるだけ」です。

それよりも自分自身で、「自分が喜びを感じることで周囲に貢献する」ことを探求する方がずっといい。

それが私がやって来たことであり、自分の子供に教えて来たことです。

幸い私は今とても健康で幸せですし、身体に何のトラブルもありません。子供たちも第一志望の大学に合格し、健康で生き生きと大学生活を送っています。

ですから、私は「自分が喜びを感じることで周囲に貢献する」ことを探求する生き方が、素晴らしい生き方であることを確信しているのです。

なぜなら自分の人生を通じて、そしてそれを教えた子供たちの生き様を見て、それを知っているからです。

第一の軸を決して自分以外の外部に求めてはいけない

ですから第一の軸を決して自分以外の外部に求めてはいけません。

自分自身の内なる喜び、内なる情熱に焦点を当て続けることです。

そして、「自分がその人のようになりたい」という生き様をしていない人の「あなたはああすべきだ、こうすべきだ、こうあるべきだ」というご指導は「ご意見承りました。」とニッコリ笑ってすべて無視し、その人の目の前から静かに立ち去ることです。

そして、自分自身の内なる喜び、内なる情熱に焦点を当て続ける時間と空間をたっぷり確保することです。 そして、その時間と空間の中に「本当の自分」の人生を創造し続けるのです。

そして、その自分の内なる喜び、内なる情熱の表現を、楽しんでくれる人、分かち合いたいと思う人、喜んでくれる人と共に過ごすのです。

自分自身の内なる喜び、内なる情熱に焦点を当て続けていたらそうならざるを得ないのです。 類は友を呼ぶのは法則です。

それが私が今生今までに理解した、幸せになる方法です。

私が自分の人生で経験し、子供たちにもそう教え、とてもうまく機能することを確認している生き方です。

これ以外にどうやったら幸せになれるのか、もし方法があるなら私が教えてもらいたいです。(笑) 私が今まで人生を探求してきて、これ以外に長期的に安定的に、幸せと喜びが拡大しつける生き方は他にありません。

家族が多かったので  母のお皿に「タマゴ焼き」が有るのは見た事が無かった

メールを読ませて頂いているうちに、胸が苦しくなるぐらい、 自分がして来た事を反省しました。

「後悔しました」と言う言葉は、好きでありませんので、使いません。

娘の病気の半分は、親として 「 しつけ 」として教えて来た事のストレスかも知れないと感じました。

かなり、我慢させて来たのかも知れません。

「 自分の喜び 」なんて教えた事は無かったです。

周囲と摩擦なく、人に好かれる「イイ子」になってくれる様に育てて来た様な… 先生に教えて貰って、 今、 やっと、自分の事が見えて来た感じです。

私自身「自分の喜び」を、先ず第一に考えた経験が有りません。

どうしたら、この人を喜ばせる事が出来るかを、小学4年生の時に意識したのが最初です。

5月の母の誕生日に、お金も持っていない私は考えました。

私が10歳の頃は 戦後11年。

田舎の農家でしたので、食料は比較的に不自由した記憶は有りませんが、 それでもご飯と言えば 麦がいっぱい入っていました。

母を喜ばせる事で思いついたのは、母に 「タマゴ焼き」を作ってあげる事でした。

鶏を飼っていましたから、なんとか家で食べるぐらいは足りていましたが、家族が多かったので  母のお皿に「タマゴ焼き」が有るのは見た事が無かったからです。 夕方 4時頃だったと思います。

全く ご飯どきで無い時間に、唐突に、畑に出ていた母を家に連れて帰り、うろ覚えで 難儀しながら 初めて焼いた「タマゴ焼き」を食べて貰いました。

母は、涙をポロポロこぼしながら食べてくれました。

私も嬉しくて、一緒にポロポロ泣きました。

その時に、人を喜ばせる事がこんなにも 自分も嬉しい事なのだと思ったのです。

でも此の事も 先生から見られると、はき違えているのだと思われるでしょうね。

( 私自身も、今になって思えば  イヤ これはちょっと違うな…と、今 書きながら感じているのですから) 「人の役に立ちたい」の気持ちを、今一度  見直していきたいと思っています。

お返事を読んで私も思わず涙がこぼれてしまいました。

とてもいいお母様ですね。

人を喜ばせることは尊いことですよ。 私の母もどちらかというとそういうところがありました。 男兄弟三人でいつもてんてこ舞いで働いていました。

私より早く寝たのを見たことがなかったし、私より遅く起きたのを見たことがなかった。 自分のことは何もしない人でしたね。

それでもとても元気で、子供のころ私たちが風邪をもらって熱を出したりしても、母は病気になったのを見たことがなかった。

子供ながらに「母はすげえな」と思っていましたが、もしかしたら多少の体調不良は誰にも気づかせなようにしていたのかもしれませんね。

ただ、そんな母でも晩年はやはり身体にストレスと言うかひずみが着ています。

私の理解では、ただ「いい人」であっただけでは幸せになれないのだな。 というものです。

まぁ母はおかげさまで同年代の方と比べたら、身体に悪いところはないと言ってもいいくらいですが、はやり凝りといいますか、そういう部分はありますね。

私は「人の役に立ちたい」という気持ちは尊いものだし、とても大切なものだと思います。 しかしこの世界において、ただ「いい人」だけであっては、なかなかうまく生きることができないと思うのです。

私は自分のお皿に卵焼きを乗せたことがないお母様をすごく立派だと思います。

そういう母親たちのしてきたことと比べたら私たちの世代の苦労というのは苦労とも呼べないようなものです。

「いい人」の生き方は確かに立派だし、頭も下がりますが、そういう「いい人」が必ずしも、最後まで健康であるわけでもありません。

私にはそれがベストの生き方であるとは思えないのです。

少なくとも私には、そういう犠牲的な人生を生きたいとは思えないのです。 「自分自身の喜びを追及すること」と「人の役に立つこと」のバランスの中に、答えがあると思っています。

例えば子育てしたことがある人は誰もでも知っていますが、2人の子供がいれば自分の人生の25年くらいは、時間的にも経済的にも子育てに捧げることになります。

それは親にとっては確かに自己犠牲的なことです。

しかしそれは親は自ら望んですることですよね。

そうでなくちゃいけない。

25年にも渡る時間的、経済的な捧げものをもし嫌々やったのなら、それこそ自分の人生がみじめです。

私は、子育てを肩車したり、子供と自転車で旅をしたり大いに楽しみました。

そうするとそれはかけがえのないものになります。

「自分自身の喜びを追及すること」と「人の役に立つこと」は両立することです。

そのバランスの中に喜びあふれる人生があると思っています。

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