佐用姫の悲恋の相手は榎本の祖、大伴狭手彦
榎本一族の起源は、紀州・神倉神社であるが、
高祖「高倉下命」(たかくらじのみこと)の子孫「大伴狭手彦」(おおとものさでひこ)が榎本の直接の祖先になる。
和歌山市の「刺田比古神社」(さでひこ神社)には
左に大伴狭手彦、右手には道臣(高倉下)が描かれている。
そしてこの大伴狭手彦から榎本一族が続いていく。
そして、我がご先祖大伴狭手彦は、唐津の地で大恋愛をしたという。
宣化天皇二年(537年)、朝廷の命を受け、隣国の新羅に侵略されていた朝鮮半島 の任那、百済を救援するための兵を率いて唐津へとやってきた大伴狭手彦(おおとも のさでひこ)は、出陣のための軍船の建造や準備の為にしばらくここ唐津に留まり、その際、篠原長者の館に滞在することにしました。篠原長者には、佐用姫(さよひめ)というとても美しい娘がおり、佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、二人はお互い惹か れ合って恋仲となり、やがては夫婦の契りを結びました。
やがて軍船は出来上がり、いよいよ船出の日となりました。別れのとき、挟手彦は 佐用姫に「これを私と思って待っていて欲しい」と言って、銅の鏡を手渡しました。
そして、狭手彦の乗った船は松浦の港を出港。佐用姫は玄界灘を見渡す山(鏡山:唐 津市浜玉町~鏡)に登り、遠ざかり行く狭手彦の船に領巾(ひれ)を振りつづけました。(この山は別名、領巾振(ひれふり)山と呼ばれるようになりました)
船が遠ざかるにつれ、狭手彦を慕うあまり船を追って山を駆け下りた佐用姫は、栗川 (唐津市久里(くり)、松浦川)を一気に渡り、川岸の岩(佐用姫岩:唐津市和 多田)に飛び移りました。しかしその時、狭手彦からもらった大事な銅の鏡の緒が切れ、鏡は川に落ち川底深く沈んでしまいました。(このあたりは「鏡の渡り」と呼ば れていました)
しかし佐用姫は、遠ざかる船をさらに追い、途中、川で濡れた衣を乾かし(衣干山: 唐津市西唐津)、呼子の浦まで追いかけ、最後に加部島の天童山に登って船の影を探 します。しかし海原に船の姿は消え、佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣 き明かし、とうとう石になってしまいました。
一度この地を訪れたかった。
虹の松原
唐津湾の奥には、虹の松原という見事な松原が続いているが、この右端、現在の浜崎海岸あたりから「狭手彦(さでひこ)」は船団を率いて出陣したらしい。
そこから美しい虹の松原を横切りながら佐用姫は狭手彦(さでひこ)の船影を追ったに違いない。
「さでひこさま~っ!」
虹の松原はとっても気持ちがいい松原が長く続くので、ぜひ自転車で走るべきといえよ~
遠ざかる船を追いながら、佐用姫は思った「そうだ!鏡山に登ればもっと狭手彦さまの船がよく見えるに違いない!」
鏡山
鏡山は海岸近くの小山と思ったら案外急登りである。
鏡山山頂からの眺め。
やっぱりよく見える!
さでひこさま〜っ
ひれを振りつつ、見送る佐用姫であった。
なお、現在は山頂に佐用姫神社などもあり、恋愛成就の神様になっている。
佐用姫は失恋したのだが^^;
この鏡山からさえも狭手彦の船は見えにくくなってきた。
「そうだ!呼子の方にいったら見えるかもしれない。」
一説によると佐用姫は、ここ鏡山から松浦川の佐用姫岩に飛んでいったそうだ。
佐用姫岩
この岩のてっぺんが窪んでいて、佐用姫が足でけって川を渡ったという。当時は川の中にあったそうだが、現在は陸続きになっている。
ここで不覚にも水にぬてしまった佐用姫は、衣干山で衣を干す。
衣干山
見事な一本桜があった。
春には見事な花を咲かせるという。
呼子と加部島の天童岳
そして呼子の浦から加部島の天童岳を目指す。
呼子とは、「さでひこさま~っ」「さでひこさま~っ」と狂ったように呼ぶ子(佐用姫)からきたそうだ。
天童岳山頂
さでひこさま~
佐用姫が天童岳山頂に着いたときには、すでに狭手彦の船は見えなかったという。
夕暮れが差し迫ってきて、私に佐用姫が乗り移ったのか、加部島をもっと北へ行きたくなった。
加部島を北に向かう道。
さでひこさま~っ
立石埼灯台
島の北端に着くと、そこに白い小さな灯台があった。
まるでいつまでも水平線に狭手彦の船を探し続ける佐用姫のようであった。
佐用姫はここ加部島で、狭手彦の名を呼びながら何日も泣き続け、ついに岩になってしまったという。
田島神社
田島神社の中に佐用姫神社がある。
この下に石になった佐用姫が眠るという。
格子に囲われて石に触れることもできなかった(涙)
ようやく狭手彦の血を引く私が石になった佐用姫に触れてなぐさめてあげようと思ってきたのに。
立岩の佐用姫神社
実は、伊万里と松浦の間の立岩にもうひとつ佐用姫神社がある。
そこを訪ねてみた。
由緒書きによると、
佐用姫は、壁島の岡岳(加部島の天童岳)でひれを振っていたが、狭手彦を慕うあまりに、軍船を追って、出帆してしまった。そして嵐のために難破し、いつしか船が伊万里へと流された。豪華な衣装を身に着けた貴婦人の死顔には、神々しい威容と魅力が漂っていたという。
狭手彦を見送るために精一杯着飾っていたに違いない。
村長の心づかいで、塚を築き丁重に葬った。
加部島で石になったのではなく、おそらくこちらの話が本当だろう。
今でも近くの川は佐用川と呼ばれている。
佐用川の川口付近に佐用姫を乗せた船が漂着したというから、このあたりだろうか。
佐用姫を葬った塚
佐用姫神社の由緒書きに「佐用姫を葬った塚は、社会保険浦之崎病院の中庭にある」というので行ってみた。
ありました!
誰かがお茶を供えてくれてました。
暑いからね。(どうもありがとう~)
そうか。
さよちゃんはこんなところに眠っていたのか。
小舟で狭手彦の船を追うなんて無茶するぜ。
狭手彦の子孫の私がようやくあいに来たぜ。
待たせたな。
佐用姫を葬った石から一筋の涙がこぼれたように感じたのであった。