マザーテレサのANYWAYでこの言葉だけが宿題となっていた私であったが、やっぱり実践してみてこの言葉が正しいことがわかった。
何と言いますかね。
「人は不合理、非論理、利己的です。」
マザーテレサはこう言ってくれました。
その通りなんですよ!
だって、「自己責任」と書いておきながら誰も答えれないんですから!
その「自己責任」という言葉さえ不合理だった。
ぜんぜん自己責任じゃなかった!
誰も理由を知らなかった。
私はその自己責任のない人の「自己責任」を追及した。
答えはなかった。あたりまえです。
すべてが虚構だからです。
真実には必ず誰もが納得できる答えがあります。
だから私は彼らに「なぜなんだ?」と問うこと自体を落とした。
母に対してもそれを追求することをやめた。
するとすぐに以前の親子関係に戻った。
結局その不合理に「なぜなんだ」を持ち続けて、「損」をしたのは私です。
だから罪(虚構)を憎んで人を憎まずです。
そして、私が以前より唯一「力の使い手」さんに求めていることは、
「自分の全身を愛で満たしてそれを周囲に溢れさせる」これだです。
これが何より大切です。
「力の使い手」は、何があっても愛にあふれ、喜びにあふれて人生を生きる学びです。
なぜなら、愛の地点にある時、最も強力に浄化できるからです。
神(見えない力の源)は愛だからです。
私はこれらの「なぜなんだ?」を落とすことで、愛にあふれる地点に容易に移行することができました。
体の振動数がすぐにあがりました。
それは相手の問題ではなく、「自分の状態」の問題です。
だから誰かが自分に何をしようと絶対にその地点から落ちてはいけないのです。
イエスはご自分の手足をくさびで十字架に打ち付けられながら何と言われたか。
「父よ。彼らをお許し下さい。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」ルカによる福音書第23章34節
イエスはご自分が手足をくさびで貫かれながらも、彼らがなぜそうしているのか自分でわかっていないことに理解を示し、彼らを愛された。
イエスはその場に場面においても、決して愛の地点から落ちることがなかった。
その揺るぎない愛こそが私たち「力の使い手」が見習うべき境地です。
なぜなら神は愛だからです。
マザーテレサはこうも言われました。
「You see, in the final analysis, it is between you and God;
It was never between you and them anyway.
最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」
結局私たちは内なる神・自分の魂を、神は愛なのですから、その輝きを愛という形でどれだけ現すことができるか。
ただそれだけの話なのです。
およそ人を救おうと志す「力の使い手」は、これからそれぞれご自分の人生で、ご自分の魂がこのような課題をそれぞれ自分に与えます。
それは自分の愛が口先だけのものではないか、簡単なことで曇ってしまわないか、揺るぎないものか、ご自分で確かめるためです。
その時、それがどんなに理不尽、不合理、非論理的に見えても、最終的に人を愛する道を選択してください。
そうすれば決して道を間違えることはありません。
「力の使い手」がそれぞれの場所で、それぞれが自分の魂を通じでその揺るぎない愛を現すとき、「力の使い手」は初めて世の光となることができます。
「力の使い手」の学びというのは、ご自分の愛を、自分が本来持つ自分の内なる神・自分の魂と等しいレベルまで磨きだしていく過程です。
「自分の全身を愛で満たしてそれを周囲に溢れさせる」こと、これだけです。
私はそれ以外のことは何も求められません。
なぜなら、神は愛だからです。
それがご自分の中に神を見つける方法にほかなりません。
もし、ご自分の愛を見失いそうになる時、マザーテレサのこの言葉を思い出してください。
「People are unreasonable, illogical, and self-centered,
LOVE THEM ANYWAY
人は不合理、非論理、利己的です
それでもなお、人を愛しなさい」
これは本当に役立つ叡智の言葉です。
「力の使い手」はぜひこれを実践していただきたいと思います。
(そんなこと言って、お前がすぐはわからんかったんじゃろがっ!(>自分))
はいっ(^^;
マザーテレサの顔でいっぱいになってしまいましたが、そろそれこれで宿題を終わりにしたいと思います。
マザーテレサ先生、どうもありがとう!