【魂の望みとは何か?】「思考の現実化」と「遠隔浄化」

「思考は現実化」する

すべては「思考が現実化」している。

厳密には感情やフィーリング、情熱がそれらに関与しているが、見えない部分が現実を創造していることにかわりはない。

なぜか?

それは「神の意図」がビッグバンを通じて宇宙を創造したからである。

見えない「意図」が先にあり、「物質的現実」が後なのだ。

それがこの宇宙を支配する「創造の原理」である。

 

時々「いや私は、地球に生まれたくなかったし、こんな親の元に生まれたくなかった」という人がいるが、この物質世界の地球を経験する「意図」を持たない魂が、この地球に生まれることはないし、今の自分の成長にちょうどふさわしい親を「誰もが必ず自分で」選んでいる。

そのことに例外はない。

ただ、多くの人がそのことを「忘れている」だけだ。

 

今あなたを取り囲んでいる現実、今私を取り囲んでいる現実、それはあなたが創造したのだし、私が創造したものだ。

いや、私はこんな現実を創造した覚えはない。という人がいるかもしれないが、それは「引き寄せの法則」が働いているだけだ。「類は友を呼ぶ」「似たものは引き寄せあう」という原則である。

「意図的な」現実の創造と「意図しない」現実の創造

そして、あなたがもし自分の現実を「意図的に」創造していないなら、周囲の思考に大いに影響を受け、そのごった煮のような現実を創造しているだけだ。

あなたは「意図しない」ことも選べるし、もちろん「意図する」ことも選べる。

だから「意図しない」ことも自分で選んだことなのだ。

「思考の現実化」とは今、この瞬間でもすべての人が行っていることだが、

特に私たちが「思考の現実化」と呼ぶとき「意図的な」「思考の現実化」であろう。

この私たちが「意図しない」で「周囲の雑多な影響を受けて」、「現実を創造」してしまうことが、私たちがこんなはずじゃなかった、こんなの私が創造するわけがないと思う理由なのである。

これは私たちが経験する「不幸」の主要な原因のひとつだ。

しかしそれは「意図しない」ことで、「意図しない」で「周囲の雑多な影響を受けて」、「現実を創造」してしまった結果なのである。

もしその結果を「不幸」として、すなわち「望まないこと」として経験するのなら、何を「意図せずに」選んだか、何を「意図的に選ぶべきか」を理解すればいい。

それを「気づき」と呼んでいる。

私が「力の使い手」の2つの柱は「遠隔浄化」と「気づき」であるというのはこのためだ。

「意図しない」望まない結果を創造しているのなら、望む現実を創造するために「意図」する必要がある。

何をどう意図すべきか、気づく必要があるのである。

これが「思考の現実化」を「意図的」に行うための主要なテーマである。

 

魂の望みとは何か?

 

生まれる時は、自分に似た親に引き寄せられる。そこでこそ「自分の望み」を経験できるからだ。

ところで「魂の望み」とは何か。

あなたが生まれる前、魂であった時に「自分で決めた望み」だ。

それはあなたが自由意志で「自ら望んで」決めたものだ。

誰もそれを押し付けるものはいない。

宇宙では「自由意志」もまた原則のひとつなのである。

「自分で決めた魂の望み」とは、この地球で、金を儲けて立派な家に住みたいとか、女にモテたちとか、男に愛されたいとか、うまいものを腹いっぱい食いたいとか、そういう「望み」ではない。

考えてみて欲しい。

あなたはそれを決めた時、魂だったのである。

魂は多様な経験をするために、幾多の転生を繰り返す。

その幾多の転生において、ある時は男を経験し、ある時は女を経験する。

 

魂は男の肉体を持つ可能性ももち、女の肉体を持つ可能性も持っているのである。

つまり「魂自体に性別はない」のだ。

 

魂は神の分け御魂と呼ばれる。

魂の本質は神と同一でありつながっている。

神に性別はない。

神は男にも女にもある「意識」である。

だから、神は創造において男を生み出すことができるし、女を生み出すことができる。

神は男でもあり女でもあり、その両方であり、その両方でもないからだ。

神は可能性のすべてである。

だから魂も男であり女であり、その両方であり、その両方でもない可能性を持つ。

だから男にも転生できるし、女にも転生できるし、石や惑星にもその意識として宿ることができる。

この宇宙はすべて神の創造物である以上意識の宿らないものなど何もない。

 

五感だけの喜びはいつか必ず飽きがくる

さて、あなたが性別もない物質的身体ももたない状態の魂であった時「自分の望み」に思いを巡らせたなら、金を儲けて立派な家に住みたいとか、女にモテたちとか、男に愛されたいとか、うまいものを腹いっぱい食いたいとか、そういう「課題」を持つだろうか。

肉体がないのである。

もし、魂がそういう「望み」だけを持っていたのなら、なぜたくさんの金を稼ぎ、立派な家に住み、好きなだけセックスし、うまいものを腹いっぱい食べながら、虚しさを感じている人々がいるのか。

それはそういうものが「魂の望み」を満たしてはくれはしないからだ。

物質は素晴らしいし、肉体は素晴らしいし、セックスは素晴らしいし、豊かさは素晴らしいし、うまいものを腹いっぱい食べることは素晴らしい。

私たちがこの地球上の転生を選んで生まれてくるのは、確かにこういう物質世界の素晴らしさを満喫するためでもある。

それはまったく問題ない。

大いに楽しめばいい。

そのために地球は創造された。

しかし、およそ五感による喜びに「飽きないものはない」

好きなだけセックスをすればいいし、好きなだけうまいものを食べればいい。

しかし、五感による喜びはいつか必ず「飽き」が来るし、それはただの繰り返しになる。

うまいもので腹を満たしては排出し、腹を満たしては排出し、腹を満たしては排出し・・・・

貯まれば射精し、貯まれば射精し、貯まれば射精し・・・・

それを永遠に繰り返す。

それだけの繰り返しに一体どれだけの人が「心満たされる」のであろうか。

何かが足りない。

虚しい。

人はそれだけのために生まれてきたのではない。

「人はパンのみにて生くる者にあらず」である。

「人はパンのみにて生くる者にあらず」

時に人はグルメや胃を壊すような激辛、ゲテモノ食いなど、ありとあらゆる変化をつけて楽しむ。

倒錯や変態的なセックス、薬物にのめり込む人もいる。

地球は多様性の星だから、人が様々な表現をすることは自由だ。しかし、そういうことをどれだけ追及してもまだ何か内面に空虚さが残る。

何かが足りない。

シャカ族の王家にうまれ、当時最高の宮殿、最高の女たち、最高のごちそうを欲しいままにした仏陀が、それらを捨てた理由は何か。

その仏陀が達成したものをこれだけ多くの人が乞い求め、仏教が世界宗教になったのはなぜか?

そういうものが確かにある。

それが魂の望みだ。

それは「本当の自分」だ。

最近は多くの人が今「自分探し」をしているという。

それは女を探したり、男を求めたり、モノを欲しがったり、金を稼ごうとすることではない。そういうのは「自分探し」とは言わない。

何度も言うが、物質は素晴らしいし、肉体は素晴らしいし、セックスは素晴らしいし、豊かさは素晴らしいし、うまいものを腹いっぱい食べることは素晴らしい。

何も問題はない。

何かが足りない。

でも何かが足りない。

スピリットがないのである。

心が満たされないのだ。

 

なぜ西洋であれほど大聖堂が街々に創られているのか。

なぜ、日本には寺院がこれほどたくさんあるのか。

人はいったいそこに何を求めてきたのか。

私はキリスト教にしろ、仏教にしろ、今の伝統宗教が人々の心の渇きを癒せるものになっているとは思わない。

葬式以外にいったいどれだけの人が「仏典」に耳を傾けるというのか。

 

これだけ多くの人が世界中で長年に渡って求め続けてきたもの。

それが「魂の望み」なのである。

渇きが確かにある。

 

何度でも繰り返すが、物質は素晴らしいし、肉体は素晴らしいし、セックスは素晴らしいし、豊かさは素晴らしいし、うまいものを腹いっぱい食べることは素晴らしい。

そこに何も問題ない。

地球の日常は素晴らしい贈り物だ。

そこに自分のスピリット、自分の魂をもたらしたい

しかし、私たちは、そこに自分のスピリットをもたらしたい、自分の魂をもたらしたいのだ。

どうやって?

自分自身を取り戻すことによってである。

どうやって自分自身を取り戻したらいいのか?

「自分の魂に由来する以外の、自分の役に立っていない思考」を手放すことによってである。

「力の使い手」とは「遠隔浄化」と共に、「自分の魂に由来する以外の、自分の役に立っていない思考」を手放す手伝いをする者である。

これは「力の使い手」の大事な定義であるので、もう一度繰り返して強調しておく。

「力の使い手」とは「遠隔浄化」と共に、「自分の魂に由来する以外の、自分の役に立っていない思考」を手放す手伝いをする者である。

魂の喜びとは

「自分の魂に由来する以外の、自分の役に立っていない思考」とは何か?

「内面の喜び」を感じることを妨げている思考だ。

「五感以外の内面の喜びを妨げる思考」である。

内面の喜びとは何か?

愛、自由、自信、感謝、穏やかさ、静けさであり、情熱、ワクワクすることである・・・

そういう五感以外の喜びがある。

あなたも知っている、私もしっている、それは五感で感じるものではないのである。

それが魂の喜びなのだ。

 

私たちは本当は、魂の喜びを感じたいのだ。

赤ちゃんが、這い、つまり立ちし、歩こうすること、

やがて、長く歩き、走り、遠く旅をすること。

自由である、自信である、情熱である、わくわくすることである。

それが私たちの人生をドライブしている「真の動機」なのだ。

私たちは、それを経験したいがために、このエキサイティングな地球に転生することを自ら選らんだ。

 

私たちは貯まれば射精し、貯まれば射精しを、食っては排泄し、食っては排泄し、ただ娯楽を楽しむことを、永遠に繰り返す存在なのか?

それだけが人生のすべてなのか?

違う!

私たちは、愛にあふれた、自由で自信にあふれた情熱的なセックスがしたいし、静かで穏やかで感謝にあふれるキスをしたいのだ。

別にセックスやキスばかりではない。

そういう魂の喜びを、この地球上での生活で存分に味わいたいのである。

それは五感を越えた要素を地球に生きる自分の人生にもたらすことだ。

自分の人生のすべてにおいてである。

あなたにとって自由が何を意味し、

あなたにとって愛が何を意味し、

あなたにとって、穏やかさ静けさが何を意味し、

あなたにとって、情熱が何を意味し、

あなたにとって、自信が何を意味し、

あなたにとって、ワクワクがなにを意味するとしてもだ。

私たちはそれを経験したいのである。

地球は経験の星だからだ。

それが私たちの「魂の望み」である。

 

自分の人生にそのような要素をもたらすにはどうしたらいいのか。

「思考は現実化」する。

「それを思考すればいいのである。」

「五感以外の内面の喜びを妨げる思考」を手放し、ただ「それを思考すればいいのである。」

実にシンプルだ。

 

具体的にどうすればいいのか!

それを11月26日の東京セミナーで話す。

しかし、それこそが「力の使い手」の永遠のテーマである。

「思考の現実化」の叡智をもたずして「遠隔浄化」に取り組めども、決して真の問題解決にはつながらない。

また何度でも同じことを繰り返す。

私たちは繰り返しの反復運動に興味はない、進歩成長に興味があるのだ。