【マザー・テレサの心の闇】「神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません。私はもう祈りません。」

マザー・テレサは私もいいこと言うなぁ~と思ってこのブログでも何回か取り上げてきた。

2016年9月4日、マザー・テレサはバチカンのサンピエトロ広場で列聖され、聖人であると宣言された。

彼女は奇跡を行った聖者として、頭に天使の輪ができたのであった!

2007年、マザーの列福運動の担当者の一人で「神の愛の宣教者会」の司祭であったブライアン・コロディエチェク神父によって、「Come Be My Light」 来て、わたしの光になりなさい!という本が出版された。

そこにはマザーテレサが自分の心の闇を打ち明け懺悔し救いを求めた5人の神父との書簡が収録されている。(ペリエール大司教、ヴァン・エクセム神父、ピカシー神父、ノイナー神父、ピート神父の5人)

奉仕活動を始めて間もないころから心に恐ろしい闇が

マザー・テレサの「心の闇」の問題より

1953年(マザー43歳)……ペリエール大司教への告白

「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」

え~っ
奉仕活動を始めた間もないころから心に恐ろしい闇があるのかっ?!@@

信仰は実際には闇を生み出すだけ

◆1955年(マザー45歳)……ペリエール大司教への告白

[2通の手紙から]

「私の心の中には、表現できないほどの深い孤独があります。」

「私のために祈ってください。私の心のすべてが氷のように冷たいのです。私を支えていた疑うことを知らない信仰は、実際には私にとって、すべて闇を生み出すだけなのです。」

え~っ!
マザー・テレサのような信仰は、実際にはすべて闇を生み出すだけなのかっ!

虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません

◆1957年(マザー47歳)……ペリエール大司教への告白

・・・私は神から求められてはいません。神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません。私の魂には何ひとつ魅力あるものがありません。天国は何の意味もありません。それは私には空虚な場所のようにしか感じられません。」

マザー・テレサのような聖者でも、神から拒絶され、信仰もなく、愛もなく、熱意もなく、天国も何の意味もなく空虚な場所なのか!

もうこりゃ一般人にはとてもキリスト教で幸せになるのは無理だわ^^;

表面上の明るさという仮面によって、虚しさと苦悩を覆い隠している

◆1959年(マザー49歳)……ピカシー神父への告白

「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。

私の信仰は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか? 心の底には、虚しさと闇しかありません。主よ、この得体の知れない痛みは、何と苦しいことでしょう。絶えず私の心は痛みます。私には信仰がありません。私の心に次々と湧いてくる考え、私を苦しめる言葉にできない苦悩を口にすることはできません。答えを見い出すことのできない多くの疑問が、私の中に存在しています。私はそれを打ち明けるのが怖いのです。それが神を冒涜(ぼうとく)することであると思うと……。もし神がおられるのなら、どうか私を許してください。すべてがイエスとともに天国で終わるという希望を、信じさせてください。(中略)

――その言葉は何の喜びも私にもたらしません。神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません。私が(奉仕の)仕事を始める以前には、愛も信仰も神への信頼も祈りも犠牲精神も私の中にありました。主の呼びかけに忠実に従う中で、私は何か間違いをしでかしたのでしょうか? 主から与えられた奉仕の仕事に、私は疑いを持ってはいません。その仕事は私個人のものではなく、神ご自身のものであると確信しています。(中略)

彼等同じ奉仕に携わるシスターたちや世の人々)は、私の心の中には神への信仰と信頼と愛が充満し、神との深い交わりと神のご意志との結びつきが心を駆り立てているに違いないと思っています。彼らは、私が表面上の明るさという仮面によって、どれほどの虚しさと苦悩を覆い隠しているのかを知りません。(中略)神よ、あなたはあまりにも小さき者に何をしておられるのですか?」

>表面上の明るさという仮面によって、どれほどの虚しさと苦悩を覆い隠しているのかを知りません。

内面の苦虚しさと苦悩を覆い隠して、表面上明るい仮面をかぶっているから、多くの後進たちを、自分が今体験している出口のない闇に導いているんじゃないんですかね?

自分が幸せじゃないのに、幸せなフリをしてはいかんですよ!

私はもう祈りません。私には信仰がありません。私は信じていません。

上の2か月後

「・・・私の心には信仰がありません。愛も信頼もありません。あまりにもひどい苦痛があるだけです。(中略)あなたと私との間には、恐ろしいほどに高い垣根(分離)があります。私はもうこれ以上、祈ることはできません。あなたと私を結びつける祈りは、もはや存在しません。私はもう祈りません。私の魂はあなたと一つではありません。(中略)

私はあなた(イエス様)が、大きな愛と力をもって私を今の仕事に召命された事実を疑ってはいません。私を呼び寄せられたのがあなたであったことを、私は知っています。この仕事は、あなた自身がなすべきものであるからです。しかし私には信仰がありません。私は信じていません。イエス様、私の魂を惑わせないでください。」

え~っ

祈ることもやめたんですか?!@@

私は、本当のことを言いたいのです。“私には信仰はありません”と伝えたいのです。

◆1962年(マザー52歳)……ピカシー神父への告白

「神はこのような状態にある私から、いったい何を得ることができるのでしょうか。私には信仰もなく、愛もないのです。先日来、私の心がどれほど暗く落ち込んでいたか、語ることさえできません。(中略)闇はあまりにも暗く、痛みはあまりにも辛いのです。(中略)

人々は、私の信仰を見て、神のもとへ引き寄せられると言います。これは人々を偽っていることにならないでしょうか? 私は、本当のことを言いたいのです。“私には信仰はありません”と伝えたいのです。しかし、その言葉を口にすることはできません。」

いや。それは人々を偽ってますよ!
“私には信仰はありません”と伝えた方がよかったです。
まぁこうして事実が出版されて、私たちにも知ることができて本当によかった。

◆1979年(マザー69歳)……ピート神父への告白

[ノーベル賞受賞の3ヶ月前]

「イエスは、あなた(ピート神父)を非常に愛しておられます。(中略)しかし私はといえば、沈黙と虚しさがあまりにもひどく、見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえません。祈りで舌は動きますが、何も話せません……。(中略)どうか私のために祈っていただきたいのです。」

こんな状態でノーベル平和賞を受けたのね。
自分の心が平和でなくちゃ、周囲に本当の平和をもたらすことはできんわな。

ノーベル賞”受賞のスピーチ

「私は、いただいたノーベル平和賞の賞金で、家がない多くの人々のためにホームをつくろうと思います。なぜなら“愛”は家庭から始まると信じているからです。もし貧しい人々のために家をつくることができたなら、もっともっと愛が広がっていくと思います。そして愛を理解することによって私たちは平和をもたらし、“貧しい人々”――家庭の中の、国家の中の、世界の中の貧しい人々に福音をもたらすことができるでしょう。(中略)

イエスが私たちを愛したように、私たちもお互いに愛し合いましょう。完全な愛で、イエスを愛しましょう。もうすぐクリスマスを迎えるこの時、イエスを愛する喜びやお互いを愛する喜びを与えていきましょう。私たちの心に、イエスを愛する喜びを持ち続けましょう。出会うすべての人々に喜びを分け与えましょう。喜びを放つものは本物です。私たちはキリストと共にいないかぎり、幸せにはなれません。キリストは私たちの心の中にいます。キリストは私たちが出会う貧しい人々の中にいます。(中略)

私たちにはイエスがいます。イエスは私たちを愛しています。もし私たちが、神(イエス)が私たちを愛しているということを忘れさえしなければ、イエスが私たちを愛するように、私たちもお互いに愛し合うことができるのです。大きなことをしようとするのではなく、どんな小さなことにも愛を込めて行うことが大切です。そうすればノルウェーは、真実の愛があふれる場所となるでしょう。」

もはや、これは偽善でしょ。

結局マザー・テレサは死ぬまで自分の心の闇に対処することができなかった

結局マザー・テレサは死ぬまで自分の心の闇に対処することができませんでした。

マザー・テレサほどの信仰の人(と思われていた)方であっても、自分では内面に何の信仰も、愛もない、と感じ続けていたわけです。

なら、もう現代キリスト教に人を救うことはできんわな。

私は仏陀を敬愛すると同様にイエスも敬愛していますけどね。

まぁ過去世では私もキリスト者だったこともあるようですが、今生はこういう救いのない道に頭を突っ込まんでよかったなぁとつくづく思うわけです。

マザー・テレサは2件の奇跡を認定されて聖者になったが

マザー・テレサは2件の奇跡を認定されて聖者になったが、その2件でさえも、実は疑義があるそう。

私なんて、遠隔浄化でよくしたことなんて2件どころじゃないわけですよ!(遠隔浄化の実際)

私も2年前にバチカンを訪れているわけですけど、私も聖者申請して聖者となり、サンピエトロ大聖堂の上に像を彫ってもらおうかしらん。

悪ぅねぇのぉ~

しかしまぁ私は今生クリスチャンではないし、長門の海のポコチン観音を見に行って喜んでるくらいなので、無理やろなぁ~

もし私が聖者になった暁には、サンピエトロ大聖堂の屋根に、「私自身」の像(長門の観音様みたいなの)を立てるとしよう!

秒速で破門されるやろなぁ~

しかし、日本人はおおらかよのぉ~

これをご神体と崇めて、わっしょいわっしょいやるのだから!

マザー・テレサもこういうおおらかな日本に生まれたら、心の闇を抱かすにすんだかもね~

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