美しい恋愛である。
あの高揚、心のときめき、目の輝き。
それがふたりに訪れたとき、それは他のどんなものよりもリアリティにあふれる大切なものになる。
もちろんお金よりもはるかに大切だ。
どんなにお金を積んでも美しい恋愛だけは買えない。
(お金では可能なのはせいぜいある種の取引、形を変えた売春だ。それはいつも虚しさが残る。)
真の恋愛だけが、ふたりの心を尽きることないハーモニーで満たし続ける。
それこそがこの世で最も大切なリアリティだ。
それは恋愛をしたことがある人なら誰もが知っている。
私たちは愛を知ることによって初めてお金を越えた喜びを知る。
お金で買えない喜びを知る。
それは五感とは何の関係ない。
食べることも、見ることも、聞くことも、匂いも、触ることにも関係ない。
ハートで感じるものだ。
(時々セックスを愛だと思っている人がいるが、セックスは愛とは何の関係もない。
あれは動物的な本能だ。サルや豚でもセックスをする。レイプ殺人犯もセックスをする。
あれが恋愛であるわけがない。
英語ではセックスを「make love」というが、セックス=愛ではない。美しい恋愛とセックスの違いを認識していない。
愛のないセックスもあれば、セックスのない愛もある。
もちろん愛のあるセックスもある。(素晴らしい!)
私たちは美しい恋愛を通じて、初めて物質的でない喜び、五感を超えた喜びを大きなリアリティをもって感じる。
恋愛は私たちを圧倒し、うっとりさせる。
どこで感じるのか?
ハートで感じるのである。
しかし、恋愛があることを物理的に証明できた者などこの世にひとりもいない。
「見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。」(金子みすゞ)
それを恋人たちはみな知っている。
ちなみに私はセックスに反対ではない。
生物の子孫を残す偉大な仕組みだ。
そして美しい恋愛をともなうセックスは本当に素晴らしい。
その情熱、あふれる思い、喜び・・・
しかしそれをもたらすのは美しい恋愛なのである。
素晴らしいセックスが美しい恋愛をもたらすのではない。
(セックスばかりを求める者はやがで堕落する。
まあつまらん映像や道具、薬などを使い始める・・・
そういうのを使う者は本当の恋愛を知らない。)
美しい恋愛が、この世のものとは思えない素晴らしいセックスをもたらすのである。
決してその逆ではない。
恋をしよう。
きれいな恋をしよう。
美しい恋愛をしよう。
その燃えるハートの中で人は五感を越えるリアリティを圧倒的な実感を持って初めて知る。
神は愛であるとはイエスは言った。
愛とは五感を越えた圧倒的なリアリティのことである。
五感を越えた圧倒的なリアリティが神だ。
美しい恋愛をしたことがない者が、五感を超えたもの、神を知ることができるとは思わない。
神とはその美しい恋愛の中で初めて垣間見る、五感を越えた圧倒的なリアリティなのである。
私たちが人生の中で美しい恋愛にこんなにも心ひかれるのはそのためだ。
美しい恋愛には神がひそんでいる。
だから恋をしよう。
きれいな恋をしよう。
美しい恋愛をしよう。
そうすると、神があなたのハートのドアをたたく。
恋をするときれいになるのはそのためだ。
恋は魔法なのである。