今生見えない力で人に奉仕することを志して転生してこられた魂は、
この人生で発揮するために豊かな感受性が与えられている方が多いのです。
しかし、自分が充分強くなるまで、今生の社会では深く傷つき、周囲に翻弄される時期を過ごす方もおられます。
霊感が強く、人の痛みを人一倍感じてしまうKさまからメールをいただきました。
> わたしの上に起こることは、その先にある神からのお役に立つ為に必要なことですかね?
そうです。
Kさまだけでなく、人それぞれにその人に起こることはすべてのその人の成長のために起こります。
それ以外のことはありません。
私たちはみな神様の魂を頂いており、神様の創造の最先端の存在なのです。
自然界や私たちこそが神の創造をお手伝いしているのです。
> 今まで生きてきて、苦しかったことも、結局は、人への愛や優しさを深めてきたように思います。
ああ~
素晴らしい理解です!
人は自分の苦しい経験を、人への愛や優しさへ変えることができるとき、最も大きな成長を果たします。
理不尽なことほど、人への愛や優しさへ変えることができたときに、本当に大きな成長を促します。
大きな学びですね。
ですから自分の人生の大きな苦しい経験を人への愛や優しさへ変えようと自ら取り組む人は真のチャレンジャーと言えます。
そうでなければ、なかなか人が成長することはできないからです。
もし、人生にまったく苦しい経験がなく、カウチポテト族のようにずっと一生何時間もテレビを見続けるだけで自分では何も経験せず、
ぼ~っとしていたらその人が成長するのは本当に難しいのです。
ですから、その人の魂は、その人の成長に必要なことをよく知っており、適切な時期にその人の成長のために必要な「イベント」を起こし続けます。
それは、自然界であれば冬を創造することであったり、氷河期を創造することですね。
大洪水もありました。
人それぞれの人生もおいても同様に、四季が巡り、氷河期を経験することもあるでしょう。
それが神の創造だからです。
その人の成長のために必要なのです。
ずっとアメーバでいてもかまない人は、何億年もアメーバに最適な環境というぬるま湯につかり続けることもできます。実際生きた化石は存在します。
しかし、自ら自分の成長を求める人は、四季を経験し、氷河期や大洪水も経験することになるかもしれません。
それは「自ら望んだ」ことなのです。
人はずっと何もしなくてもバナナがなる赤道直下で、何万年も原始的な生活を送ることもできます。そういう場所も神様は用意してくださっています。
望めば何でも選べるんですよ。
自ら成長を求める人は、Kさまのように自分をチャレンジのある環境に転生させるのです。
イエス・キリストは、磔にされながらも「神よ彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのですから。」
と自らを磔にした人に、愛と優しさを示されました。
ですから、イエス・キリストはKさまのように、自分の苦しい経験を人への愛や優しさを深めようとする、私たちの素晴らしいお手本です。
大先輩です。
自分の手足にクサビを打ち付けた人に、理解と愛と優しさを持つということは並大抵のことではありません。
私はイエスほど、自分の苦しい経験を人への愛と優しさを深めることに使った人を知りません。
イエスの偉大さは、その苦しさを愛と優しさに転換する強さにあります。
それこそが私たち人類すべてが思い出し、自らを勇気づけ、素晴らしいお手本とすべきものです。
私たちが礼拝すべきは、この苦しさを愛と優しさ思いやりに変えるイエスの強さです。
この目に見えないイエスの強さこそ、祈るべき対象です。
目に見える像はどうでもいいのです。
言葉もどうでもいいのです。
このイエスの苦しい経験を人への愛と優しさに変える力こそ、私たちが自ら求めるべきものです。
イエスが示されたことは、Kさまがそうやって日々取り組まれていることと同じ延長線上にあるのです。
今生、私はキリスト教徒であったことはありません。
しかし、Kさまも他の誰でも、自分の苦しさを、人への愛や優しさへ変えようと日々取り組む人は、全員偉大なイエスの後輩と言えます。
私もKさま同様、自分の苦しい経験を、人への愛や優しさへ変えるようとする、ひとりのイエスの後輩であると思っているのです。
> あと、そういう、(亡くなった霊を)光に返すと言うお役目は、仕事をそういうものに変えるということですか?
> わたしには、今、頂いている資格、仕事を天職と思い、そこから、様々なことをさせていただいております。それは、辞めなくてはいけませんか?
すぐにそうする必要はありません。
今はそのお仕事がKさんの生活を支えています。
それが天職とお感じになるなら、どうかそれをまっとうされてください。
しかし、今資格を持ち、天職と思っていることに全力で取り組み、学び尽くしていくにつれ、何か違和感を感じることがあります。
何か天井にぶつかり、これ以上ここいても自分の成長はないように感じることがあります。
自分を生き生きと活かし、成長し続けるためには、何かが違うと感じるようになります。
それは今の仕事を改善することかもしれません。
仕事のやり方を変えることかもしれません。
今の職場で新しいポジションを提案することかもしれません。
それらを先にすべて検討してください。
しかし、今の仕事では自分の感じる内なる衝動をどうしても満たすことはできないとわかったとき、
初めて仕事を変えることを考えればいいのです。
そのためには先に自分の中に大きな自信を作り上げる必要があります。
何があっても自分の使命をやり通す自信です。
特にこういう見えない世界の力を使って人々に貢献しようとする私たちは、先例がありません。
社会にたくさんある仕事のように、やり方を教えてくれる先輩は多くいません。
いやむしろ、人類が初めて取り組むような仕事には先例がないのです。
その未知の世界を旅することを決意する時、
地図もない道なき道を、ひとり歩む旅人と同じ自信と決意が必要なのです。
その見えない自信と決意を、信仰と言います。
私は今生キリスト教徒であったことはありませんし、特定の宗教を信仰したこともありません。
しかし、地図もない道なき道を、ひとり歩む者は、自分を信じ、自分の魂を信じ、いつでも必要な時に必要な導きを得られ、
必要なものは与えられるという、神様に対する揺るぎない信仰が必要です。
それだけが、地図もない道なき道を旅する私たちを支えてくれる唯一のものだからです。