日本の誇る偉大なマスター【白隠】ただすべてを愛から「そうか」と受け流せば誰でも健康で大往生できる。

 世界的免疫学者安保徹先生が言われるようにストレス(不安・恐怖・怒り)で病気になり癌になっている。

 私が実際に知っている、最も病気をせず長寿だった実例は、映画「この世界の片隅に」見ました!で触れた、私の母方の祖母だ。

 彼女はほとんど大病をせず、晩年も寝込まず、痴呆にもならず、90何歳かで老衰した。大往生である。

 さて、彼女の人生はストレスのない人生だっただろうか?

 祖母の人生は映画「この世界の片隅に」のすずちゃんとほぼ同様である。

 周囲の人がどんどん戦争に行って戦死し、
 食べ物は不足して、雑草まで食べ、
 白米など食べられず、ご飯にたくさんのイモやなんやかんや入っているのは当たり前。
 夜は明かりが外にもれないように、裸電球の周りを黒い布で覆って暮した。
 家の裏に防空壕を掘り、空襲警報が鳴っては、機銃掃射され、爆撃された。
 隣の街には聞いたこともないような新型爆弾が落とされ、多くの知人が死んだ。
 
 私の母の小学校のころでさえ配給でクジがあたらないと靴も買えず、
 下駄で登校していた生徒はたくさんいたという。

 祖母の生きた時代は今の私たちとは比べ物にならないほどストレスフルな時代だった。

 私は祖母がどんな解釈をしてその時代を生きたか知らない。

 ただ私が覚えている祖母は何を話しても「それかね」(そうかね)と言ってニコニコしている祖母だ。

 どんな解釈をしたか知らないが、結果として何があっても「それかね」と言ってニコニコして生きていたら、大病もせずボケもせず、90何歳かで大往生できるのである。

 現代人で祖母たちほどのストレスにさらされている人は誰もいない。

 だから現代人は誰でも人生の解釈の仕方によって、大病もせずボケもせず、90何歳かで大往生できるのである。

 私の敬愛する日本の禅師、白隠の逸話を思い出した。
 
松蔭寺(静岡県沼津市)でのエピソードだろうか。

彼は当時から禅師として知られ、多くの弟子達が慕って彼の寺に集まっていた。

ある時、寺のある村の娘が妊娠した。

娘は聞かれても相手の名を明かさなかった。しかし娘の父親が執拗に聞き出そうとし、脅しつけたので、娘はそれから逃れようと思いあまって白隠の子だと言った。

娘の父親はそれ以上何も言わず、子供が生まれるのを待った。

生まれるとすぐに白隠の元へ連れて行き、「これはお前の子だ」と言い、彼の前に子供を差し出した。

そして考えつく限りの悪口雑言を浴びせかけ、あらゆる侮蔑とあざけりをまくし立てた。

黙って聞いていた白隠は、聞き終わるとただ「そうか」と言ってその子を腕に抱いた。

多くの弟子達が「白隠は堕落した」と考えて寺を去った。

白隠はその子を自分のボロボロの僧衣の袂にくるんで、どこへでも連れて歩いた。

白隠は村人から白い目で見られながらも、

雨の日も嵐の夜も、雪の降る日も白隠は近所の家々を廻って托鉢し、その子の乳を乞うた。

その子はすくすくと育った。

とても愛らしい子に育った。

母親である娘は、自分の子供から離れている苦しみと悔恨の情から、ある日とうとう子供の本当の父親の名を明かした。

娘の父親は白隠の元へ駆けつけてひれ伏し、頭を地に擦りつけるようにして、繰り返し許しを乞うた。

白隠は、ただ「そうか」と言って、子供を渡した。

ここからは私の解釈だ。

白隠はある日どこかを歩いていて、子供を見かけ「子供は愛らしいものだなぁ」と思ったに違いない。

彼の思考にないものは彼の人生に訪れないからだ。

そして、ある日妊娠した村娘が「これは白隠の子だ」と言った。

白隠はこの娘には言うに言われぬ事情があるとすぐに察した。

「違う」と言ったところで娘を追い込むだけだ。

そう察した白隠は「そうか」とだけ言って子供を引き取った。

彼はその結果どうなるかもわかっていた。

弟子達が去り、村人達から白い目で見られることもだ。

しかし彼はそんなことは気にしなかった。

そんなことはどうでもよかった。

彼は自分の体面よりも、思いやりを選んだ、愛を選んだ。

それは誰にも理解されなかった。

そして白隠の愛を受けて子供はすくすく育った。

愛らしく育った。

娘は愛らしい自分の子供から離れていることに耐えられなくなり真実を告げた。

もうこの娘は覚悟を決めており、大丈夫だと察したのだろう。

白隠は、ただ「そうか」と言って、子供を渡した。

白隠はここでもただ母親となった娘の悲しみを思いやった。

子供は母親に育てられるのが一番だ。

白隠はすべてをわかっていた。

でも「そうか」としか言わない。

しびれるぜ!白隠。

白隠は日本の誇る偉大なマスターだ。

 えっと、何が言いたいかというと何があっても「それかね」「そうか」と言っていれば、万事はすべて仏がよしなに計らってくださるのだ。

 (もっとも仏とは仏陀のことではなくて、仏陀が般若心経で色即是空 空即是色(色(物質)は空であり、空は色(物質)である)と説いた空から色を生じた、誰の内にもある仏性のことだ)西洋の言い方をすればビッグバンによって無から宇宙を生じた神ですな。)

 もちろんお経などというガラクタはどうでもよくて「そうか」と言って自分が健康で幸せに生きることが大切だ。

 それを自分の人生で生きることが大切で、もとよりお経などを読み続けたところで足がしびれるだけだ!(笑)

 ただ「そうか」が「不安・恐怖・怒り」ではなく「思いやりや愛」から出ていればいいのだ。

 宇宙はそのようになっている。

 そして、どんなストレスがあっても元気で大往生できる。

 白隠も1686年~1769年の83歳だから、あの当時では大往生だろう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

Loading Facebook Comments ...