浄化する相手が捉えられない場合があります。
捉えらえない人というのは、浄化できない、よくできないということです。
それはその人がそう決めているからです。
ポイントは
自己責任
過去は忘れる
感謝
です。
自分の人生で起こることはすべて自分が起こしています。
今の自分の周囲を見回してください。
家族との関係、職場での関係、友人との関係、
自宅で自分がいるところの状態。
自分の体。
それらに最も影響力をもっているのは誰だと言うのでしょうか。
親でしょうか?家族でしょうか?友人でしょうか?
自分の人生に最大の影響を与えているのは自分です。
「いや主人が私の人生に最大の影響を与えています」という人がいるかもしれません。
その人がそう言うのなら間違いなくそうです。
しかし、そのご主人と結婚したのは自分です。
ご主人が自分の人生に最大の影響を与えることを許しているのは自分です。
ご主人と離婚しないのも自分です。
今の日本で自分で選ばない限り、誰がそれを強制できるでしょうか。
すべては自分の選択の結果、あるいは選択しなかった結果(周りに流されるということを選んだ結果)を自分が受けているだけです。
周りに流されることを選んだのも自分です。
自分で決断し、自分の人生の責任をたったひとりで引き受けるという覚悟を持たないという選択を自分でしたのです。
人生で起こることは、主体的に選択したか、周囲に流されることを選んだに関わらず、すべて自分の選択であり、責任なのです。
これがわからない人の人生が変わることはありません。
ですから浄化で捉えられるようになることはありません。
自分の人生の起こることに自分以外の誰が責任が取れるというのでしょう?
自分が何を考え、どう行動するか、一番知っている人類が自分以外にいるというのでしょうか?
そんな人は誰もいないのです。
自分の人生を最も知っているのは自分であり、自分の口、手足を動かしているのは自分です。
自分以外の誰かに、自分が口や手足を動かした結果生じている、今の状況に責任があるはずがないのです。
バカげています。
自分の人生の責任がすべて自分にあることがわからない人が、自分の人生を変えることは絶対にありません。
浄化で捉えられるようになることもありません。
次に、自分の人生の責任はすべて自分にあることがわかったら、もう過去のことをあれこれ言わないことです。
何しろそれは全て、自分が選んだ、もしくは周囲に流されるという選択を自分がした結果です。
そんなことを悔いいつまでもあれこれ言っても何も始まりません。
「いい経験をした。」
「今度は違う選択をしよう。」
それだけです。
それでもう過去に意識を向けることはなくなります。
過去に起こった事ではなく、自分がどうなりたいかという未来の理想に意識の焦点を移します。
そうなるともう過去は自分に影響を与えることができなくなります。
自分が過去を思い出し、意識し、思い煩う時だけ、過去は今の自分に影響を与えるのです。
過去に意識を向けることがなくなれば、過去は自分に影響を与えることができないのです。
それをいつまでも過去を思い出し、「あの人は〇〇だ」「この人は〇〇だ」「あの時こうだった」「この時どうだった」
そんなことを言い続ける限り、その人が過去から逃れることはできません。
自分が過去を捨てないから、ずっと過去に支配されるのです。
自分が過去を捨てないということを選択し続けているのです。
そんな人の未来が変わるはずがありません。
過去の繰り返しが起こる以外にあり得ません。
なぜならその人が過去を捨てないからです。
過去を捨てない人は、変わらないことを自分で選択した人です。
ですから、過去を思い煩う人が浄化で捉えられるようになることはありません。
老人というのは過去を言う人です。
過去を言うようになると人は年を取るのです。
過去を言わない人は、けがれなき未来を手にします。
過去を言わない人は、たとえ肉体的には高齢でもいつまでも若々しいのです。
新しい未来だけがその人に存在するからです。
新しい未知の未来への希望、挑戦が眼に輝きを与えるのです。
意識が希望に燃える若者と同じなら、何歳であろうと肉体もその意識に従うのです。
過去を言い始めたら、たとえ肉体的に何歳であろうとその人は既に老人です。
自分が選んだ過去がもたらした結果がどうであれ、「いい経験になった。」「今度は別の選択をしよう。」
それしかないのです。
もしそう思えないなら「自分の人生で起こることはすべて自分の選択の結果」がわかっていないということです。
さて、
「自分の人生で起こることはすべて自分の選択の結果」もわかった。
「過去に意識を向けることもなくなった。」
もし、自分の人生を自分の過去と違うものにしたければ、これまで自分が行っていた反応と違う反応をしなければいけません。
たとえば隣のオヤジの顔を見ただけでもムカムカする。
しかし、それもオレの選択、わかった。違う選択をすることにしよう。
そうだもう過去に意識を向けるのはよそう。やめた。
しかし、次の日の朝隣のオヤジの顔を見たら、思わずムカムカしてしまった。
それでは人生は何も変わりません。
怒る人の内側に怒りがあるために、それを表現するための隣のオヤジが必要なのです。
怒りっぽい人はつねに怒る理由を探し出し、怒りを表現させてくれる人に怒りをぶつけるのです。
怒りを表現することを許してくれない人には決して怒りをぶつけません。
たとえばもし相手に怒りをぶつけたら自分がすごい仕返しを受けるなど、自分が著しく不利益を被る場合はその人に怒りをぶつけないのです。
ですから、もし人生で怒りをぶつけられているなら、その人にナメられているということです。
私はあなたが怒りをぶつける対象ではないとはっきりわからせてやる必要があります。
それを選ぶのもまた自分です。
周囲(怒る人)に流され、決してなされるままにされないと選ぶのもまた自分です。
私はあなたが自分の中にある怒りをぶつけてすっきりするためのサンドバッグではないということをはっきりわからせます。
一生あなたの怒りのストレス解消のサンドバッグになるくらいなら、私は離婚しますとはっきり言えばいい。
それが自分を幸せにするために、自分の人生の選択に自分ひとりで覚悟を持つということです。
自分がその人と結婚するということを選んだのだから、どこにも言いに行くところはありません。
婚姻届に誰がハンコを押したのですか?
自分が見る目がなかった。
これからは決して周囲や雰囲気に流されず、自分の意志だけで後悔のない選択をしよう。
それが自己責任です。
それ以外に自分の人生をよりよくする方法などないのです。
自分の中にある怒りを自分で見つめようとせず、人にぶつける人は、誰にも相手にされず、孤独にTVゲームのキャラクターでも殴り続けていればいい。
それがその人にふわしい人生です。
しかし、その人も怒りは本当は自分の内面にあった、それを人にぶつけるのは間違いだったと気づく時、いつでも違う人生が始まります。
彼も自己責任のある人になったからです。
また、もし自分も自分の怒りを相手にぶつけているなら、相手の怒りは正当です。
それはお互いにボクシングを楽しんでいるだけです。
その怒り狂う相手は、まさに自分にふさわしいのです。
自分の中にある怒りを解消するのは誰でもない、自分自身です。
自分の中にある悲しみを解消するのは誰でもない、自分自身です。
自分の中にあるやりきれなさを解消するのは誰でもない、自分自身です。
あなたが自分の脳で考えたことに対して、ほかの誰が責任をとれるというのでしょう。
自分の見方を変えるしかないのです。
自分の中に怒りがある時、誰かと真に仲直りをすることなどできません。
なぜなら自分の中にはまだ燃えたぎりる怒りがあり、その仲直りの言葉は、上っ面を装っただけです。
いつでも自分の怒りをぶつける用意があり、明日になればすっかりその仲直りの言葉を忘れ、いつものように怒りをぶちまけるのです。
次の日また隣のおやじを見てムカムカしたのは自分の中に怒りがあったからだった。
自分の中に怒りを見つめ、きれいに消し去ってしまったら、もう、隣のオヤジを見てもムカムカしなくなってきた。
それがすっかり定着すると、
はて、私はいったい何に怒っていたんだろう?
もう過去も捨ててしまったのですっかり忘れてしまいます。
(人が怒っていた理由を忘れ、別の違う理由を見つけて次々怒りをぶつけるのは、「理由」ではなくその人の中にある「怒り」が真の原因だからです。)
(怒る人にとって「理由」などどうでもいいのです。だから一度怒りはじめた人は「だいたいお前は・・・」と直接関係ない過去のことを次々持ち出して怒り続けます。)
(ようやく訪れた、自分の中の怒りをぶちまけるチャンスを最大限に活かしているのです。)
隣のオヤジを見てももうムカムカしなくなったが、まだ挨拶するほどではない。
挨拶は照れくさい。
しかしもうムカムカしなくなって3か月たった。
ある時に、隣のオヤジの庭にきれいな花が咲いていて思わず、「きれいですね」と言ってしまった。
向こうも「ああ、きれでしょ」と一言返してくれた。
そんな感じで半年、1年と過ぎていくうちに、
となりのオヤジともいつとはなしに挨拶するようになっていた。
その人の見える世界の現実が変わったのです。
そのようにして人は自分の見える世界の現実を変えていきます。
もう自分の中には、怒りもない。
悲しみもない。
やりきれなさもない。
自分で自分の人生を選ぶ覚悟をし、今までとは違う選択をした。
そして、過去を捨てて自分の中に怒りや悲しみや、やりきれさなどのごたごたがない時、
ふと人は花を見て「ああきれいだな」と思う。
夕日をみて「美しい」と思う。
隣に誰かがいてくれることがどんなにうれしいことが気づく。
常にそれらはそこにあった。
今までそれに気づくことができなかったのは、自分が怒りにまみれていたからだった。
それ以外の理由などない。
常に周りにあったものの素晴らしさに心底気づいた。
ありがたい。
人生に感謝が生まれた。
いつの間にか、その素晴らしさに心を向ける時間が増えていった。
ふと気が付くと、自分が人生で見るもの、人間関係、すべては以前の自分とはまったく違うものになっていた。
このようにして自分の人生の現実を変えていきます。
これ以外の方法などないのです。