ここ数日「力の使い手」になることを考えているという方からご質問をいただきました。
ここ数日「力の使い手」になることを考えておりました。
まず、自分を幸せにするためには…ということに向き合いました。
色々方法はあるとは思いますが、私は「力の使い手」というのがどうしても気になり、幸せになるその一つの方法ではという思いが募っています。
(2017年10月11日 18:03)
はい。
私もそのつもりでやっています。
自分から出たものを受け取るのは宇宙の法則です。
それ以外には何もない言ってもいいくらいです。
人が幸せになるお手伝いをすることは、実は「自分が」幸せになる最もいい方法
ですから、人が幸せになるお手伝いをすることは、実は「自分が」幸せになる最もいい方法なのです。
ただ浄化に関して
メルマガもまだ一カ月ほどなので、
まだまだ断片的でよく分かっていません。
それと、まずは自分自身のためにと家族や身近な人のために、という狭い思いではやはり駄目でしょうか。
もちろん、いいですよ。
誰もが最初はそういうところから始めます。
初めて自転車に挑戦するときは、補助輪つけて、後ろをもってもらい、公園の中で練習するものです。
しかし、だんだん慣れてきたら、補助輪を外し、公園の外に出たくなるものですよ。(笑)
それは慣れれば自然にやってきます。
正直、どう書いてよいか、本当に「力の使い手」になりたいのか、迷ってました。
でも、これは方向的には間違ってはいないのかなと捉えてます。榎本さんに早くメールをしなさいと。。
メールありがとうございます(笑)
私はブログの上に「みんなちがってみんないい」と掲げています。
私はどなたがどんなペースでされようと、中断されようと、継続されようと、再開されようとすべて「みんなちがってみんないい」と思っています。
いついかなる時でも、あなたの自由意志が最大限に尊重されるということは覚えておいてください。
それは「力の使い手」の原則です。
私があなたに「あなたはこうすべきだ」と言うことは一切ないということです。
あなたが「こうしたい」ということはすべて尊重されます。
私が何かの基準にあっていないとあなたを裁くこともありません。
ただ、自分から出たものを受け取るのは宇宙の法則ですから、私を含む誰もがそのことを通じて学ぶことになります。
それはあなたも私も例外ではありません。
「力の使い手」は「自由意志による申し出」を受けて、最大限の貢献をしようと志します
ある方がある問題を解決したい、痛みや症状を改善したい、そういう「自由意志による申し出」があった時、「力の使い手」は自分のできる最大限の貢献をしようと志す人々です。
それは相手の「自由意志による発意」があった場合に限られます。
あなたはあなたが自分が大切に思うこと、幸せに感じることを快適に感じる自分のペースで進めていいのです。
すべてのことをです。
それが「あなたの人生」というものです。
それ以外に「あなたの人生」を生きる方法はありません。
そしてあなたが「あなたの人生」を生きることなくして、あなたは決して満たされることはないでしょう。
そのあなたの人生のある時期に、ご縁があり、分かち合うものがあるなら、わかちあうだけなんです。
そしてそのタイミングはすべてあなたが決めていいのです。
特急で行ってもいいし、鈍行で途中下車しながら旅をしてもいいのです。
両方をミックスしてもいい。(笑)
それが「みんなちがってみんないい」という意味です。
少しつけ加えさせてください。
榎本さんに、一番初めに浄化して頂いた後すぐに頭がクリアになる体験をして、「浄化ってすごい!」とその時「やっと出会えた」というようなワクワク感がありました。
ブログに紹介されている方々はこの感覚を味わっているのだな、と。
それを私の周りにも味わってもらいたいなとも思いました。
まだ、大勢の人々に、という勇気は今はないので、身近な人からできればと思っていますが、それでもよいのでしょうか。。
はい。
もちろんいいです。
自分の快適なペースは自分で決めてください。
私も初心者の時があったし、さまざまな経験も積んできました。
「こういう時はこうすればうまくいきますよ」という経験をたくさん積んでいることが私のいいところですが、それをどういうペースで引き出し、利用するかはあなたが決めていいのです。
私はそのことについて干渉することはありません。
私は元来人に干渉するということに関心がないんですよ(笑)
子どもにもああしなさい、こうしなさいとほとんど言わない。
自分の好きなように決めたらいい。それしか言わない。
だけどもそれが最もうまくいくことを知っているのです(笑)
アドバイスを求められれば「私はこう思うよ」「こういう時はこうすればうまくいったよ」ということは言いますが、そもそもあなたはどうすべきだということは言わない。
その人にとって何が最善かはその人にしかわからないことです。
あなたが今、カレーと食べたいのか、サラダが食べたいのか、何か飲みたいのか、
散歩して体を動かしたいのか、
ほかのすべてのことについて、「あなたに必要なことはあなたが一番知っている」のです。
あなたが今何をしたいか、もしかしたらおつたえで探れるかもしれませんが、そんなことに私は一切関心がありません。(笑)
私はあなたにこう聞くだけです。
「何食べたい?」
「カレー食べたい。」
なら「おいしい店知ってるよ!行ってみる?」
「いいね!」となれば一緒においしいカレーを食べにいけばいい。
それだけです。(笑)
人生を楽しみ人々と喜びを分かち合うということは実に単純なことです。
言ってみれば私はこれ以外の原則を人生に適応しません。
ですから、人生に何のトラブルも生じません。
あなたが何を食べたかを大切にすると同じように、私は自分が何を食べたいかを大切にする。今同じものを食べたいと一致したら一緒に楽しめばいい。
どうしても食べたいものがあれば、私はこうしたいと言ってもらってかまわないし、私もどうしても違う食べたいものがあるときは、「NO」ということがあるかもしれない。
そういう時は別々のものを食べてあとで「どうだった?」と聞けばいい(笑)
一緒に楽しもうが、違うものを楽しもうがどちらでもいいんですよ!
私は誰にも干渉するつもりがないから、そもそも誰が何をしているのか知ろうとしていない。(笑)
自分の子供でも元気に楽しんでやってるな!くらいしか思いませんよ。
また逆に私が何も干渉しないことを知っているから、「今こんなことをやっているよ」と時々教えてくれる。
「へぇ~、おもしろいね!」と話をする。
自転車でバリ島やイタリアを一緒に旅することもある。(笑)
彼が今関心をもっていることをやっていれば、それはそれで何も問題ありません。
だから、あなたが身近な人から浄化したいと思えば、それはそれでいいのです。
私がそういうことに干渉することはありません。
楽しんでやってくれれば一番いい(笑)
自分で何かをするのに、私に許可を求めたり、報告する「必要は」一切ありません。
私が何かの基準であなたを裁くこともありません。
ただ旅の土産話をするようにあなたが楽しんで経験したことを私に話してくれるなら、私もそれを楽しむでしょう。(笑)
それだけです。
もう少し質問させてください。
「力の使い手」になると、自分の浄化は通りにくい、という記事を見たような気がするのですが。
自分のことは基本的にやってはいけないのでしょうか?
誠実さと身勝手の違いとは
もちろんやっていいです。
ただ「自分のため・・・自分のため・・・」という自己中心的な意識になると、思考が身勝手なものになりがちです。
自分から出たものを受け取るのは宇宙の法則です。
それにあわせて、
「力の使い手」は「自分がしてもらいたいように人にする」「自分がされて嫌なことは人にもしない」というのを原則にしています。
誠実さとはそういうことです。
不誠実さとは、「自分がされて嫌なこと」を「人にはする」ということです。
いわば自分と人と違う基準を適応する人を不誠実といいます。
それ以外の定義はありません。
だから例えば私は「干渉されるのが嫌い」だから「人にも干渉しない」のです。
「私は干渉されるのが嫌い」だけど「人には干渉する」というのを自己中、身勝手といいます。
「自分がしてもらいたいように人にする」「自分がされて嫌なことは人にもしない」という原則を自分のすべてに適用すれば何も問題は生じません。
しかし、あなたは周囲を幸せにすることの意義に気づいておられますから、上手にバランスをとられることでしょう。
自分でうまくいったことを人にもしてあげようと意図するともっとうまくいくでしょう。
自分のことに関しては「気づき」が重要
また、自分のことに関しては(人のこともですが)「気づき」が重要です。
その人の思考、言葉、行動などが積み重なってその人の人生を形成しいます。
今何か改善したいことがあるなら、「今までの思考、言葉、行動に」その原因があるわけです。
自分がその結果を好まないなら、それを生じている原因を変える必要があります。
しかし、人は「自分のことは自分では気づきにくい」のです。
それで、自分では原因に気づきにくく、それがクリアされないため浄化が通りにくいように感じるこことがあります。
例えば何かに腹を立てているのに、「自分では腹を立てていないと「考えている」」こともあります。
「怒ることはよくない」と教えられ、自分でもそう思っています。
ですが、表面上は怒っていないと「考えて」いても、怒りの感情は抑圧され、くすぶっており、気づかれ解放されるまで、無意識から自分の「思考、言葉、行動に」影響を与え続けているのです。
そういうのは無意識になっている部分には自分では気づきにくいのです。
人のことはよく見えるのに自分のことになると途端にわからないということはよくありますね。
目は外を見るようにできているのでしかたがない面もありますが、
自分を浄化する時は、自分の自分に対する気づき、いわゆる「内省」も大切です。
人の為にすることが、自分の幸せにつながる
人の為にすることが、自分の幸せにつながるということですか?
その通りです!
ある方にご縁があって、浄化させていただくことになりますよね。
その方をよくしようと一生懸命アドバイスすることは「自分の気づき」になります。
むしろ自分の課題を学ぶために、その方を引き寄せているのです。
そして、人に何かを伝える時は、自分でもそれを実践しなければ言葉は空虚になります。
自分で理解できていないことは、人にも伝えられません。
人に伝えることは「自分が学ぶための」最もよい方法なのです。
人の為になすことは、自分の幸せにつながります。
「人の為になす」とは「自己犠牲」とは違う
ただ「人の為になす」とは「自己犠牲」とは違います。
何か自分が我慢したり、自分を抑圧したり、言いたことも言えないのに、相手のために貢献することではありません。
あくまで「自分の喜びが基準」です。
「人の幸せ」に貢献しようとする人が、自分が幸せでなくて、一体どうやって貢献しようというのでしょう。
自分ではその道がわからない、実践できていないのに、どうやってアドバイスしますか。
「自分が幸せ」でない人のアドバイスは、何の意味もありません。
自分が泳げないのに、人に泳ぎ方を教えている人と同じです。
そういう人のアドバイスは決して的を射たものにはなりません。
そういう人が一番迷惑なんですよ。
黙ってりゃ、人が回り道することもないのにね。
そして、世の中には実にそういう人が多い!
見分け方は簡単です。
「その人の言っていることがどうか」ではなくて、
「その人そのものが幸せかどうか」を見ることです。
立派なことを言っていても、その人が幸せそうでなければ、
その「立派なこと」には意味がありません。
「立派なことを言い」「幸せそうに見える」人が最も危険な人物
一番危険なのが、「立派なこと」を言い、「私はこんなに幸せ!」と「装っている」人です。
言葉や外見、作り笑顔で判断すると、よく間違えます。
一番いいのは、その人の目を見ることです。
幸せそうな喜びあふれる目の輝きをしているかです。
そうでなければ、そういう「立派なことを言う人」が一番危険です。
なぜなら、そういう人こそ、人を幸せへの道からもっとも大きく逸らさせてしまうからです。
もし、そんな人について行ってしまったら、自分の本来の幸せの道に復帰するまで大きく時間をとられます。
今生では気づけないかもしれない。
あなたは、あの「幸せそうな人」が言う「立派な言葉」は結局自分には役立たなかったと理解できるまで、何年も何年も、その「立派な言葉」を実践しようと頑張ることでしょう。
そして「自分が何か間違っているからだと自分を責め続け」ます。
だいたいそんなことで今生を終わる人が本当に多い。
自分自身が幸せな人は、人にあれこれ言わないものです。(笑)
あなたに「ああすべき」「こうすべき」とあれこれ言ってくる人は危険です。
もちろん「これはあなたの幸せのためよ!」「あなたのためを思って言っているの!」と言うでしょう。
そういう人の見分け方は、言葉や外見、作り笑顔ではなく「目」の輝きを見ることです。
本人ももちろん自分は善人であり、よいことをしており、幸せであると「考えて」います。
しかし「考えている」ことと実際に放っているオーラは違います。
そういう人こそ、「自分の本来の幸せの道に復帰するまで最も大きく時間をとらせる」人です。
自分は幸せだと「考え」、自分はあなたのために一生懸命になっている善人だと「考え」ている人があなたのとって一番危険なのです。
人は誰もが幾多の転生を繰り返し、最終的には幸せになっていきます。
この世のすべては神で出来ており、それは問題ありません。
それは神の約束です。
もし、この世の幸せに反する存在、(まぁ悪魔のような存在)がいるとしたら、それはあなたが「自分の本来の幸せの道に復帰するまで最も大きく時間をとらせる」人です。
そういう人は、「立派な言葉」を言い、「幸せそうな外見や笑顔」で、あなたにとても親切にしてくれる人ですよ(笑)
もし、この世に悪魔がいるとしたら、悪魔はそういう外見をしています(笑)
悪魔は自分は善人であると信じているのですよ!
だからそういう人は嘘をついているわけではありません。
とてもいい人です。
だからその人の目の輝き、オーラを見抜く必要があるのです。
あなたがそれを見抜くには、「素敵な服と、化粧と、作り笑顔の奥にある目の輝き」を見る必要があるのです。。
外見や言葉だけでは、わからないんですよ。
それにはその人が本当にハートの喜びで輝いているかを見抜く必要があります。
そういう本もたくさんあります。
立派な字面を追うだけでなく、その本の放つオーラを感じとることが大切ですね。
「自分のハートの喜び」が最優先
「自分のハートの喜び」が最優先です。
「自分のハートの喜び」を大切にしない人が、どうして「人のハートの喜び」を大切にできるでしょうか?
自分から出たものを受け取るのは宇宙の法則です。
ですからまず「自分のハートの喜び」を大切にしてください。
すべてはそこに立脚してください。
そして、笑いが伝染するように、
「自分のハートの喜び」を周囲に伝染させてください。
あなたは、「人の為にすることが、自分の幸せにつながるということですか?」と質問されました。
その通りなのです。
しかし、これだけの表現だと、「自己犠牲」が自分の幸せにつながるという解釈もできます。決してそうではないということをわかってもらうために、ながながと説明しました。
正確にいうと、「(自分のハートの喜びから)人の為にすることが、(もっと)自分の幸せにつながる」です。
人は自分にないものを分かち合うことはできない
人は自分にないものを分かち合うことはできません。
まず自分の中にわかちあうべき「ハートの喜び」を持っていることが大切です。
そして、それを大きく育てるには、人とそれを分かち合うことが最もいい方法だということです。
「自分のハートの喜び」を最も大切にする人が「人のハートの喜び」を最も大切にする人です。
そして「人のハートの喜び」を最も大切にする人が、「自分のハートの喜び」を最も大切にする人です。
宇宙の存在というのはそうでしかあり得ません。
そして、それが幸せへの最短ルートなのですよ。
自分から出たものを受け取るのは宇宙の法則なのです。