「いい人をやっているとおかしなことになるけど、ひとりぼっちは寂しい」よくありますね。
人は自分の思考「状態」によって自分の現実を引き寄せる
人は自分の思考「状態」によって自分の現実を引き寄せています。
生まれる前の自分にふさわしい時代、社会環境、両親の元へ転生します。
今の人間関係、職場などもすべてそうですね。
内面が変化したなら、いずれ外面の変化も必ず訪れる
さて、自分の内面があることをきっかけに変化したとします。
するとそれに合わせて自分の引き寄せる現実が変化します。
さまざまな変化の仕方がありますが、変化せざるを得ません。
例えば、「今の職場がどうしても嫌で配置転換を申し出た」という変化の仕方もあります。
それはたまたまそういう方法になっただけです。
きっかけが何であったかということはあまり重要ではありません。
内面が変化したなら、いずれ外面の変化も必ず訪れるからです。
私たちは一定の社会意識に属して生きている
例えば私たちは今属している職場、友人たち、部活などなど、そこに共通する社会意識に属して生きています。
例えば一度体育会の部活に属したことがあるなら、とても「辞めにくい雰囲気がある」ことを経験したことがあるかもしれません。
あるいはアルバイトなどでもそうですね。
友人のグループでもそうです、一度属してしまうと、そのグループから離れにくい雰囲気があります。
しかし自分の内面が変化したら、
例えば部活のスポーツに興味がなくなった、人間関係が苦痛になった、もっと別のことに興味が移るなどしたら。
内面が変化したら、そのグループを離れたくなることがあります。
グループを離れようとすると反発を受けることが多い
そのグループを離れることは、そのグループを支配する価値観の否定でもあります。
「私にとってはそれは重要ではない」ということです。
しかし、そのグループにとって「それは重要」なのです。
そのグループのメンバーにとって、自分の価値観を否定されたも同然です。
ですから反発を受けるし「お前は間違っている」という説得を受けることがよくあります。
多くの人が変化を恐れ、現状を維持を選ぶ
その時、今まで付き合いのあった人に理解されないのは悲しいことです。
しかし「通常理解されない」のです。
そこで「人に理解されず、ひとりぼっちは寂しい」から、多くの人が変化を恐れ、現状を維持を選びます。
その方がずっと楽だからです。
「人に理解されず、ひとりぼっちになり」「自分が未経験のところに行かなければならない」
くらいなら、「今の惨めさを我慢しよう」というのが多くの人の選択です。
変化は必然
しかし変化は必然です。
江戸時代から明治、太平洋戦争から現在、
1995年以降のインターネットの急速な普及だけでも多くの変化を生み出しています。
すべての物事が変化するなかで、やがて自分自身も変化しなければならない時がやってきます。
それが早いか遅いか、外圧による変化か自分自身からの変化か。
そういう違いはあってもやがて変化がやってくることだけは確実です。
なら自分自身の内面の変化に従い、自分自身で自分の人生を舵を切った方がずっといいのです。
ひとり在ることの強さ
その人生の変化において、「ひとり在ることの強さ」がとても重要になります。
「人に理解されず、ひとりぼっちになることは寂しい」と思っていたら変化できないからです。
馴染みのグループを去るということは、一抹の寂しさを感じるものです。
しかもそのグループの人には自分の考えていることは理解されない。
「もしかしたら自分が間違っているかもしれない」と感じるかもしれません。
その時、自分の内面の感覚を信じ、変化していくためには「ひとり在ることの強さ」が大切なのです。
自分を信じる。
「自分が自分の味方になる」ってことですね。
仏陀の場合
仏陀は釈迦族の王子でした。
何不自由ない生活をしていましたが、ある日「死」というものを知ります。
仏陀は、もし死が自分の身体を含めてすべての物質的なものを取り上げるなら、それらを追い求め執着することに何の意味もないことをたちどころに理解しました。
仏陀の「内面に変化」が起ったのです。
仏陀は釈迦族の王子としての生活に興味を失っていきます。
そしてとうとう家出をしてしまいました。
家族や釈迦族の人々にとって、仏陀の行動はまったく理解できません。
「この何不自由ない暮らしを捨てるなんて、お前は何て愚か者なんだ!」と思われます。
仏陀は「人に理解されず、ひとりぼっち」です。
頭がおかしいとさえ思われます。
しかし彼は自分の内面に突き動かされて、ひとり変化していくしかなかった。
すべての変化は大なり小なり、このようなものなのです。
自分の内面の変化は誰かへの「反発」ではないか?
その自分の内面の変化は誰かへの「反発」ではないか?と問うことはとても重要です。
誰かへの反発による行動の場合、「軸は相手にある」のであって、自分自身にはないからです。
例えば親への反発によって、グレたとします。
グレて問題行動を起こし、暴れたところで自分自身の人生は何ら好転しません。
ただ単に「反発」が目的であり、自分自身の主体的な変化ではないからです。
親に反発はある。
このまま親の束縛の中で生きていたら自分は決して満たされないだろう。
自分自身の人生を自分はどう生きたいのか。
それを真剣に問い、自分がどう生きたいのかという「自分自身の軸」に沿って変化したなら、
表面上は「反発」に見えても、それは自分の内面の軸に沿ったものです。
「自分自身の軸」に沿って変化する時、自分の人生を手にする
自分の属するグループの社会意識、集合意識に従って、自分自身をその規範に合わせようとするとき、自分自身の人生はありません。
ただ単にその社会意識、集合意識の鋳型に必死に自分を適合させようとする「フリをする演技者」がいるだけです。
社会というのは理解可能なそういう人を求めます。
そういう人は褒められます。
認められます。
仏陀みたいな人はまったく理解不能です。
社会というのは人に自分自身の内面に従って生きてもらいたくないのです。
ぜひ釈迦族の規範に従って生きてもらいたい。
王子としてふさわしい行動をしてもらいたい。
それなら理解できる。
しかし仏陀は理解できない。
一体何を考えているのか?
釈迦族の王子の地位を捨てて、乞食のように生きるなんて!
だから社会というものは個人に決して自分の内面を見つめて欲しくはないんですよ。
ただ社員としての役割、親としての役割、生徒としての役割、妻としての役割、夫としての役割、王子としての役割・・・
その社会的に認知された役割をずっと演じ続けていてもらいたい。
個人の内面などどうでもいい。
社会はそんなことに関心はない。
ただ社会として期待する役割をあなたが果たし続けることだけを求めているのです。
その時、社会は、組織は、職場は、家庭は順調に機能します。
しかし、ひとつだけ問題があります。
「あなたの心が虚しい」ということです。
期待される役割をいつまでも演じ続け、社会に受け入れられ、認められても、決して自分自身になれず、満たされないのです。
それは物質的にすべて満たされた王子であっても同じことです。
期待される役割を演じ続け、認められ、喜ばれ続けても、決して自分自身にはなれない。
そして、その虚しさを自分自身が一番よく知っている。
社会はその人が自分自身を見つめることを決して望みません。
もし人が自分自身の内面を見つめたら、
下手をすると仏陀のように、組織を捨て家庭を捨て、真理の探究をはじめかねない(笑)
そんな理解不能なことは社会は望んでいないのです。
しかし、本当の自分の内面の声に耳を傾け、自ら変化する時、初めて本当の自分に向かって変化し始めるのです。
そして仏陀はある日、本当の自分に到達した。
途方もなく満たされた。
すると釈迦族の王子の地位を捨て、乞食同然になっていた仏陀でしたが、彼のその満たされた内面によって、彼の周囲の現実もまた途方もない豊かさで再び満たされることになった。
彼のためにどれだけの伽藍が捧げられていることか。
彼は自分自身を満たすことによって、やがて忘れ去られる小さな釈迦族の王子としての存在を遥かに超えた、世界の歴史を通じて最も知られた、豊かな存在になりました。
それが本当の自分になることの力です。
本当の自分に蓋が出来ない・・・それは「生きる」「生かされる」そのものだと思います。ですが、書かれておられるように、自分自身を生きるを選択をすることは、とてつもない3次元ではアドベンチャーの様で、周囲に理解が及ばない時もありますし、また周りは変わりたくない・現状維持をしたいのですから、弾かれる時も多々ある。
そして思いは反射しますよね。自分が出したものは必ずリターンし戻ってくる。
(本来戦うべき相手は自分だったりするかもです)
ある人の言葉の中に、「郷に入れば郷に従えなんだけど、従わないなら当然
はじかれる。でもそこで 妬みや恨みをもらわないようにするには、はじき出された郷の人たちを排除しないでおくこと」だと。
ビジネスでも大先輩が言っておられた中に、どんな事もやろうとする時は、反発に遭うし、大きな圧力がかかることは当たり前だと。でも、その反発する側を決して排除するのではなくて、何かする時には必ず声をかけるとか・・・(来る来ないはその人が決めること)そんなお話をされました。
1対多数で行き場を見失いがちになる時もあります。声はかけられないかもしれない。
声をかけられても行きたくなければいかなくて良い。
でもその人たちのその生き方を尊重することは出来る・・・・ジャッジしない。
人は本当に自由です。染まるも染まらないも自由。良いも悪いも存在しない。
白黒付けたがりますが、見方ひとつで全てはひっくり変えります。
最近、ゼロ地点(中庸)とは、やじろべいの真ん中で、バランスを取る点という風に見ていたのですが、もしかしたら、曖昧で、慈悲深く、良いも悪いもない、ブラックもホワイトも無い、調和に満ち、絶妙なグレーゾーンなんだと感じるようになりました。
自分で自分の人生は創れるのですから。