ご質問をいただきました。
・・・人生楽しいなんて思った試しがありません。それでも、最近は以前と比べると希望を見出してはいますが、まだだめかーといったような感じです。特に最近では、・・・・・・・・、人間関係によるストレスというところに当てはまるような気がします…
いつも疑問なのですが、その根本的なネガティブな感情はどうした
らなくなるのでしょうか。具体的は方策が見えないでいます。
(長文です(笑))
私には、嫌な人は誰もいません。人間関係に何のストレスもないです。人生に腹が立つようなことも「ほぼ」ありません。人生は楽しいですよ。
では、なぜ、どうやって私はこういう人生を生きているのかその秘密をお話しします。(本当は秘密でも何でもないんですけどね(笑))
ネガティブな感情は「自分の期待」から生じている
実はネガティブな感情というのは「自分の期待」から生じているんですよ。
「誰かが〇〇すべきだ」と思っているからです。
自分以外の誰かに期待すると、人には自由意志があるから必ず100%自分の期待通りにはなりません。
そうするとその「自分の期待」通りにならないことがネガティブな感情を生じさせるのです。
ネガティブな感情を持たないようにするには、初めから誰にも何も期待しないことなんですよ!(笑)
私はそんな風に生きているのです(笑)
誰にも何も期待しないから、相手をジャッジする必要がない、そもそもジャッジする基準を持たない
そもそも誰にも何も期待していないから、誰かについてあれこれ思う必要がないわけです。
だから誰かを裁く(ジャッジする)尺度をそもそももたない。
だって誰かをジャッジして、あなたは正しい、あなたは間違っている、あなたは〇〇すべきだ、ということ自体を手放しているのですから、そもそもそのために必要な「尺度」自体を人生で持ち運ぶ必要がないのです。
それは旅の途中に絶対に使わない重くてかさばる体重計をずっとリュックに入れて旅をしているようなものなんですよ!自分の人生でそもそも「誰かをジャッジする」ということをしなければ、計る尺度もいらないんですね(笑)
だから私の人生には誰かを計る尺度そのものがない(笑)
それを別の言葉で言えば「みんなちがってみんないい」といいます。
初めから人を裁こうと思って観察していない
私は人を裁く尺度を持っていないので、そもそも人を裁こうと思って観察していません(笑)
私は誰の人生も監視していない。
私は誰かをコントロールしようする意図がないので、そもそも誰かを裁こうと思って見るということ自体がない。
だから誰とも何のトラブルも起こらないんですよ(笑)
人間関係のトラブルというのは、お互いの「あなたはこうすべきだ!」「お前はこうすべきだ!」という主張の食い違いから生じます。
私の人生にはそもそも「あなたはこうすべきだ!」ということ自体がない(笑)
だから人間関係に何のトラブルも生じない。
これが秘密です(笑)
実は良好な人間関係はすべてそうなっている
実は良好な人間関係というのはすべてそうなっているんですよ。
私は去年中学校のクラス会に本当に卒業以来くらいだったのですが、あった瞬間すぐに当時に戻って、ああだった、こうだったとに楽しく話ができました。
すべてのクラスメイトとの人間関係が良好なんですね。
それはお互いに、お前は〇〇に進学すべきだ!とか〇〇と結婚すべきだ!とか、〇〇に就職すべきだ!とか、そういう尺度をお互いにもたない。相手がどんな人生を生きようと「そうだったのか!」と認め合っているんですね。
だから人間関係が壊れない。
それと同じことなんですよ。
すべての人間関係をこれと同じようにすればいいだけなんですね。
何も期待しないというのは諦めて生きることではない
誰にも何も期待しないというのは、諦めて生きることではないのです。「どうせこの世は・・・」という境地ではありません。
そうではなくて、自分は自分で人生のハンドルをしっかり握って楽しく生きる、あなたはあなたで自分の人生のハンドルをしっかり握って楽しく生きてねってことなのです。
自分を含めて、人それぞれが自分自身の人生のハンドルをもって幸多い人生を生きることと大いに期待する!ってことなんですよ。
相手が自分で自分の人生を幸せにすることを大いに期待しているのです。
私の思い通りじゃなくて、あなたの思い通りに生きてねってことです。
自分で選んだのでなければ社長になっても不幸
私の知っている人に家業をついで社長になった人がいます。
しかし、本当はその人は他にやりたいことがありました。
でもそれを諦めて親の意向に従って社長になったのです。
でもぜんぜん仕事に身が入らない。不平不満です。
酒量も増えて、体調もものすごく悪い。
自分で選んだのでなければ社長になっても不幸になるんですよ。
お金も権力も普通の人よりはるかにたくさん持っているけど、不幸です。
子供にも何も期待しない。自分で幸せになること以外は。
私は家族との人間関係も良好ですよ。
つい最近も大学生の次男とモンゴルで馬旅をしてきました^^
なぜ良好かというと、私は自分の子供にも何の尺度も当てはめず、何も期待していないからなんですよ。ただ自分自身で幸せになることだけを大いに期待している。
親だから子供の幸せを願うのは当たり前ですね。
しかし、「お前は〇〇すべきだ、〇〇すべきじゃない」というジャッジは一切しない。
「自分で自分が幸せだと感じることをやりなさい」
それだけなんですよ!
そうするとちゃんと自分で判断します。
私は大人だから自分が知った世の中の真実はアドバイスする。
例えば、良くも悪くも世の中には学歴というのがあって、少なくとも私の生きた時代にはこのように作用していた。だから選択肢を広げるためにも、私は大学に行った方がいいんじゃないかと思うが、最終的には自分で決めなさい。そしてすべての自分の人生の選択の結果もまた自分のものだ。
という風にアドバイスはするけれども、だから「親の言うことを聞け」「先生の言うことを聞け」とは言わない。
必ず「自分で決めなさい」という。
そして子供自身が出した結論に何の干渉もしない。
子供は、親が最終的に何の干渉もしないことをよく知っているので、自分の人生どうすべきか一生懸命考えます(笑)
子供が私にアドバイスを求めることはよくありますが、私は「自分がこうしたいのなら、この方がいいんじゃないか」という視点でしか言わない。
お前はこうすべき、ああすべきということは一切言わない。
だから子供は親がうっとうしくない。
だから親子関係が良好なのです。
初めから親が自分の尺度で子を裁くということをしなければ、親子関係が崩れる余地はない。
そもそも反抗しようにも、反抗する理由がない。
お前はお前で自由に幸せになれ!それを応援するぞ!とだけしか言わない人に反抗する理由はないのです(笑)
すべての人は幸せになりたいから、自分の人生を一生懸命考える。
あれこれいわなくたって、みんな自分の幸せの道を選んでいく。
だから本人に任せておけばいいんですよ(笑)
植物は干渉したら枯れて、自然な状態で見守ればよく育つのと一緒ですね(笑)
私に嫌いな人はいないが人間関係に濃淡はある
誰にも人間関係の濃淡はありますね。
普通はやっぱり家族が一番濃いかな。
近くに住んでるけど、名前もどんな人かも知らない人もたくさんいますよね。
日本だけで1憶2千万、世界で77億人、すべての人と人間関係は結べません。縁がない人の方が遥かに多い。
私にだって、よく知っている家族から、何も知らない人まで人間関係の濃淡はある。だからといって嫌っているわけじゃないですよね。家族から知らない人まで、「みんな自分の人生を自分で幸せになったらいい」と思ってます。
その濃淡はあるけど、家族も含めて誰にも何も干渉しない(笑)
「みんなちがってみんないい」
それで人生はうまくいく(笑)
本当なんですって!
人生ってこんなに簡単に幸せになれるのに、どうして多くの人がそうしないのか不思議です(笑)
お互いに「お前が間違っている」「いや、あなたが間違っている」と言いあっている(笑)
そもそも誰かに何かを期待し、人を裁くということをやめたらいいのに(笑)
私はそうして生きています。
しかし、世の中それを選ばない人がたくさんいるのも知っていますよ。
あれこれ「あなたは間違っている!あなたはこうすべきだ!」と言いたがる人がたくさんいますね(笑)
それを選ばない人の前から静かに立ち去る
私はそんな人に出会ったら、その人の前に静かに立ち去ります(笑)
別にケンカすることはない。相手にそんなことはやめたらいいよとかも言わない。私は誰であれ、その人が自分で選んだ選択を尊重します。
あなたがそのように生きることを望むのなら、それはそれでいい。でも私はそれは「好み」じゃないというだけの話しです。
それは「嫌い」じゃなくて、好みですね。
お互いに「あなたは間違っている!」「あなたはこうすべきだ!」という人生を生きることを好む人はどうぞ。
しかし私は好みじゃない。
「あなたは間違っている!あなたはこうすべきだ!」と言いあうのは私は好きじゃないんですよ(笑)
だから、それが好きな人は、そういう人同士でどうぞ!ってことなだけです。
類は友を呼びますから、私の周囲にはそういう好みの人がいなくなった。
だから私は誰も嫌う必要がないし、嫌いな人がいないのです。
自分が間違っていない時が一番苦しい
自分が間違っていない時が一番苦しいのです。
まぁ私もずいぶん腹が立つことがあって、このブログにもさんざん書いた。以前からの読者さんは知っていると思いますが、わざわざ読むようなことじゃない(笑)
まぁ私は何にも悪い事をしていないのに、ある日突然、「榎本はこうだ!」と決めつけられて、ネット上の掲示板に「私〇〇は榎本を裏切り者と認定します。神様に感謝です。」みたいなことを数百人に書かれた(笑)
今から考えたらすごいやね!(笑)
今の世の中にはこういう発想を持つ人がいるというのは驚異的なことです(笑)ユニークですね。今の私には想像もできない。世界は多様性にあふれてる。
で、私は事実無根だから腹を立てた。
なぜそんなことをするのか!
私の実の母までが「私〇〇は、(息子である)榎本を裏切り者であると認定します。」と書くんですよ。
やっぱり情けない。
あなたは私について、何を知っているのか?私が実際にどうであるか一度でも私に聞いたか?何か自分で確かめたのか?何も知らない。何も確かめないのにどうしてそんな誹謗中傷を書けるのか?と食ってかったわけです。
その根拠とされていることはすべて事実無根なことは「私自身がよく知っている」から非常に腹が立った。
まあこれが私の人生における概ね最後の怒りですね(笑)
まぁさすがに母はここをやめた。
人生の最後に、親子の断絶をして幸せはないと思った。ここでは「裏切り者」に関わると伝授が切れると教えていて、関係を事実上絶たせるんですね。
だから、その団体に残っている人とは一度も会ったことないし、人間関係もなくなりましたね。
母は謝ってくれましたが、他のあとのほとんどすべての人はそのままです。
まぁ私はそのことに1、2年くらい腹を立てていた(笑)
私はしばらく「自分は間違っていないのになぜ」という思いが手放せなかった。
人には自由意志がある
まず大前提としてすべての人に自由意志があります。
それはどうにもならない。
事実無根のことでネット上の掲示板に「私〇〇は榎本を裏切り者と認定します。」誰かが書くことを自由意志を操作して取り消さすことはできない。
なら私はこの怒りをどうしたらいいのか。
私は自分の怒りの解決策を見つけた!
私は自分の怒りの解決策を見つけたのです!
私のこの怒り、憤りの源泉は何かとずっと深堀りしました。
私は何も悪いことをしていない、私が決め付けられたことは事実無根であると「わかってもらいたい」という「人に対する期待」に源泉あったということに気づいたのです。
「私はわかってもらいたかった」んですよ。
それは誤解だ、事実無根だとわかって欲しかった。
でも、これさえも「誰かに対する期待」ですよね。
自分のコントロールを越えたものです。
で、私はその「誰かに対する期待」そのものを落とした。
つまり「わかってほしい」という思い自体を落とした。
それなら、私の思考ですから、私の管理下にある。
そうすると、さあ~っとという訳にはいきませんでしたが、私はそのことを繰り返し思い出して、怒りを反芻するということがなくなっていった。
やがて、どうでもよくなった。(笑)
私が怒りを手放せるかどうかというのは、「わかって欲しい」という「誰かに対する期待」を手放せるかどうかに鍵があったのです。
相手の問題じゃない、自分の問題です。
そして私は、その鍵を自分の手に取り戻した。
たとえ事実無根の言いがかりであっても、「本当のことをわかって欲しい」という「誰かに対する期待」を手放すことで、再び自分の人生のハンドルを自分に取り戻すことができたのです。
簡単に言えば、「わかってくれなくてもかまわない」という心境ですね(笑)
真実をわかって欲しいという気持ちも手放すべき
真実をわかって欲しいという気持ちも手放した方がいい。
ガリレオ・地球が太陽を回っているという真実に気づいた時、彼は真実をみんなにわかって欲しくて、地動説を発表した。
しかし、それはローマカトリックの教える天動説とは異なっていたので、異端尋問で有罪となった。
だからガリレオは取り下げた。
もし彼が真実を貫いたら処刑されていたことでしょう。
真実を貫けばいいってもんじゃないんですよ(笑)
その後もガリレオは自分はもちろん地球が回っているという自分の真実に従って生きた。しかし、ガリレオは「みんなに真実を知って欲しいという期待」は落とした。
それでいいんです。
その後も何百年も多くの人が、地球は平板で、その上を太陽が動いてると信じて生きた。ローマ法王さまがそうおっしゃるんだから間違いない(笑)
世界というのはそんなものなのです(笑)
その人がそれを信じたいのなら、それに干渉すべきじゃない。
本当のことをわかってもらいたいなどと期待しない方がいい。
処刑されて終わりです(笑)
真実は自分の内に秘めて、黙って自分はその真実に従って生きたらいい。
今の日本では思想信条・言論の自由が憲法で認められている
イエスやガリレオの時代は真実を口にするだけで処刑された。しかし今の日本では思想信条・言論の自由が憲法で認められているんですね。
それはほんとうに素晴らしことです。
真実を口にしても処刑されることはない。
イエスなんかは真実だと思うことを口にしてたら、十字架に手足を打ちつけられたんですよ!
痛いですよ!
だからみんなに真実を知ってもらいたいなどを思わない方がいい(笑)磔される(笑)
日本で思想信条の自由が認めらえたのはたった、ここ数十年のことですよ!
多くの人の頭の中はまだ中世です(笑)
それまでは日本にも踏み絵などがあって、自分の真実を貫いていると処刑された。まぁ私が受けた「裏切り者認定」も踏絵ですね。
そうでなけばこの現代社会で、私と話をしたこともない数百人の人が、ぞろぞろと私〇〇は榎本を裏切り者と認定します。」などと掲示板に書くはずがない(笑)
あ~
21世紀の日本にもこういうことがあるのだなという、私のひとつの勉強ですね。
しかし、それは私の怒りの源泉は「自分の他者に対する期待にある」という探究を助けた。
こんなことでもなければ、人はこういう探究をしないんですよ(笑)
しかし、私はそうして誰も嫌いな人がいない人生を手にした。
それで私をジャッジしたがる人たちとは疎遠になったけど、それでいいんですよ。(笑)
その人たちも今となっては嫌いというわけじゃないんですね。
どうでもよくなった。
淡くなった。
日本や地球に住む、私が知らない大半の人と同じになった。
普通になったということですね(笑)
自分がジャッジされたら立ち去った方がいい
しかし世の中には人をジャッジしたがる人はたくさんいますね。
もし、自分の人生にそんな人がいたら、静かに立ち去った方がいい。
あなたが「あなたはこうすべきだ!」「お前はこうすべきだ!」という無限地獄にずっと留まりたいというのなら、それはそれでその人の自由です。
ただ、人に自由意志がある限り、決しては人は100%自分の思い通りにならないし、自分の不満が満たされることはない。
必ず、次から次に不平不満が出てくる(笑)
あなたが誰かが自分をジャッジすることを許しているなら、「あなたはこうすべきだ!」「ああすべきだ!」と、必ずその人は次から次に言い続けます。
こいつは何でも俺の言うことを聞く便利なやつだから(笑)
「あなたはこうすべきだ!」と大きな声を出していれば、自分の望みどおりのことをしてくれる人がいるなら、こんな便利な人はいない。
だから、その人は決してこの「特権」を自分から手放さない。
その人は、いかにあなたが間違っていて、私の言うことを聞くべきか、言葉巧みに主張し続けます(笑)それがあなたの幸せのためだと!(笑)あなたのめに言っているのがわからないのか!と(笑)
それが「宗教」の基本的な仕組みですね(笑)
すべての「宗教」は基本的に「あなたの今の生き方は間違っている」ということに立脚しているんですよ(笑)
ところがそれでは幸せになれないんですけどね。
あなたが選ぶどんなことであれ、それにあなたが喜びを感じるならば、それをしなさいというのが私の考えです。
それが私の唯一の信条ですね。
「みんなちがってみんないい。」
どうしてあなたは自分が喜びあふれることをしないの?
私の疑問はそれくらいのものです。
もちろん人がそうしなくても私は干渉しません(笑)
私は自分でそうして生きてきて、子供たちにもそうすることを尊重した。
人生楽しいですよ(笑)
何の問題もない。
そして、この考えを誰が受け入れなくても私はぜんぜんかまわない。(笑)
私はそもそも誰とも論争する気がない。
なぜなら、私はその人が選ぶすべての生き方を尊重するから。
静かに立ち去るのがいい。
その人が気づかないくらい「いつの間にか見かけなくなった」というのが一番いい(笑)
誰かをジャッジする思考を持っている人とお付きあいするのはもういい。
私はそういうことから卒業した。(笑)
元気にあいさつ「こんにちは!^^」「いいお天気ですね。さようなら!」
さわさりながら世の中にはそういう人がいます。
まぁそんなことをいちいち目くじらを立てていたら大変なので、元気にあいさつ「こんにちは!^^」です。「いいお天気ですね。さようなら!」ですよ!(笑)
それはその人たちが嫌いってことじゃなくて、その人たちは私がまったく関心がないことに関心があるってことだけですね。要は「好み」の違いです。
今日は中華食べたい。今日はイタリアンが食べたいくらいのことです(笑)
それを何!お前はイタリアンが食べたい。許せない!「裏切り者認知します。」と言うようなものです(笑)
「みんなちがってみんないい」が尊重できない人ってのは。
世の中には多種多様な価値観があるからいいのです。
一番害のある人は「あなたは間違っている」とあなたに信じさせる人
一番害のある人は「あなたは間違っている」とあなたに信じさせる人です。
これには困る。
人は誰もが自分自身でしかあり得ない。
それをあなたは間違っている、こうすべきだ、あなたがあなたのままであることが許せないと主張し、それを本人に納得させる人たち。
こういう人が一番タチが悪い。
こういう人がイエスを磔にする人々です。
イエスは何も悪い事をしていないのに、彼が彼であることを許せないんです。
人生で最も避けるべき人というのは、「あなたがあなたであることが許せない」「あなたは間違っている」とあなた自身に信じさせる人です。
それを受け入れた人は不幸になりますね。
何しろ「自分は間違っている」という思考を受け入れたんですから何をやってもうまくいかない。思考は現実化します。
だからそんな自己否定を絶対に受け入れちゃいけない。
一旦それを受け入れると、そのドツボから抜け出すのに時間がかかる。
我がままの本質とは自己の正当性を主張すること
「我がままと」は、自分は自由に振る舞うのに、人が自由に振る舞うことは許せないということです。
「みんなちがってみんないい」とは、私も自由に生きるけど、あなたもどうか自由に生きてね!ということです。
私はもちろん後者です!
人をコントルールしたがる人は、まず「あなたは間違っている」「あなたには直すべきことがある」と信じ込ませます。
次に「私は正しいのだから、あなたは私の言うことを聞くべきだ」と信じ込ませます。
それを受け入れた人は、その思考から抜け出すまで自分の人生のハンドルを自分で握ることはできません。
だから「自分は間違っている」と洗脳された人は、その洗脳が解けるまで決して自分の人生を生きることができない。
一番害のある人は、身近にいて、あなたに「あなたは間違っている」と繰り返し主張し続けている人なのです。
我がままな人というのは、まず「私は正しい」けど、「あなたは間違っている」と主張する。
そうすると「自分は正しいから」私は自由にするけど、「あなたは間違っている」からあなたは自由にしちゃダメ、私の言うことを聞かなくちゃいけないという主張が成立する。
その背景を受け入れさせることに成功するのです。
これが「我がまま」な人の基本戦略です。(笑)
だから幸せになる第一歩は、自分の人生にいる「私は正しい」けど、「あなたは間違っている」と主張する人から静かに去ることからなのです。
我がままは人はエサを与える
我がままな人というのは、「私は正しい」けど、「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞くべきだ」と主張する人ですが、その主張を通すためにエサを与えます。
例えば、自分の子供に対して、「私は正しい」けど、「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞くべきだ」という親はたくさんいますが、食事を与え養育するってのがエサですね。子供はそう簡単にそこから静かに立ち去れない(笑)
例えば職場の上司でも、「私は正しい」けど、「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞くべきだ」という人は珍しくないです。私たちは給料というエサをもらっているからそう簡単に静かに立ち去れない(笑)
家庭でも、ご主人が「私は正しい」けど、「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞くべきだ」と奥さんにいう人は珍しくない。しかし、奥さんは家庭にお金を入れてもらっているからそう簡単に静かに立ち去れない。
最近は奥さんが「私は正しい」けど、「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞くべきだ」とご主人に言う人も多いですね(笑)
どこかの政権は、「私は正しんだと思いますよ。総理大臣ですから」「だからあなたは私の言うことを聞くべきだ」主張し、官僚たちは必死に忖度して尻尾を振る。もちろん出世や天下りというエサがもらえるからです。
社会には色んなパターンがありますが、基本構造はみんな同じなんですね(笑)
じゃあもし自分がこの構造の中にいたらどうすればいいのか。
静かに立ち去るには、自分がエサをもらわなくていい存在になる
静かに立ち去るには「自分がエサをもらわなくていい存在になる」ことなのです。
なぜ私たちが、そこに居続けるのか。
それは私たちがそこでエサをもらうことを望んでいるからです。
少々気に入らないこともあるけど、我慢しておこう。そうすればエサがもらえる。その方がいい。
「自分がそこでエサをもらい続けることを選んでる」からです。
それ以外に理由はない。
静かに立ち去るには、「自分がエサをもらわなくていい存在になる」しかない。
自分がエサをもらわなくていい存在になるかどうかも自分で決めていい
自分がエサをもらわなくていい存在になるかどうかも自分で決めていいのです。
そうしないことを決めてももちろんいい。
いつそうするのかも自分で決めていい。
本当はすべての親が、子供は養うけれど、子供に完全な自由を与えた方がいいと思います。そうすると子供は不要な格闘をしなくてすむ。
時期が来れば、みんな自然なプロセスで自立し、自分の足で生きていく。
はじめからすべての親、すべての先生、すべての大人、すべての上司がそうだったら、社会がすべてがはじめからそうだったら、どんなにいいか。
しかし、残念ながらそうじゃない。
残念ながら誰もが大なり小なり、お前はエサを受け取っているのだから、私の言うことを聞けという社会に生きている。
それが人間関係の不和の源泉です。
すべての不幸の源なのです。
ネガティブな感情の源泉です。
その本質は何かというと「自分がそこからエサをもらい続けることを選んでいる」ということです。
「私は正しい」けど「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞け」私はあなたにエサをやっているんだから、私はあなたにそうする権利がある。それを受け入れているんですよ。
そして、私たちは積極的にしろ、消極的にしろ、そう洗脳されたにしろ、そうやってエサをもらって生きることを選んでいる。
それを続けるのも、それをやめるのもすべてその人の自由です。
私もさんざんそういう社会を生きた
私もさんざんそういう社会を生きてきました。
私もさんざんそういう人間関係を生きてきました。
そしてどうしたらこういうネガティブさから無縁になれるのか深く考察したのです。
それがここに書いたことです。
だから、もう私の人生には、
「私は正しい」けど「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞け」私はあなたにエサをやっているんだから
と主張する人物は誰もいません。
なぜなら、そういう思考をしている人の前から、私は静かに立ち去った(笑)
そのために私は2つの強さを手にした。
そのために必要な2つの強さ
ひとつは、私は誰かにエサをもらい続ける必要性がない強さを手にしたこと。
ふたつめは、私自身をジャッジする人が私の人生にいなくなってもかまわないという強さを手にしたこと。
邪魔するのは「認められたい」「嫌われたくない」という思い
多くの人を邪魔するのは「認められたい」「嫌われたくない」という思いです。
私も別に積極的に人に嫌われたいわけじゃないですよ(笑)
ただ私は「みんなちがってみんないい」で生きたいだけなのです。
困るのは、「みんなちってみんないい」を認めない人です。
「私は正しい」けど「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞け」と主張する人ですね。
そして人は誰でも「認められたい」「嫌われたくない」と思っています。だから、自分の家族や、大切な人、友人や、多くの人に言われると、「認められたい」「嫌われたくない」ゆえに、「自分は間違っているかもしれない」と考え、妥協するのです。
そうするとコミュニティーからつまはじきにされることはない。
「裏切り者認定」されない(笑)
私は誰かに対して何かをジャッジしたりすることはないけれど、困ったことに「私は正しい」けど「あなたは間違っている」「だからあなたは私の言うことを聞け」とそれをしないのは裏切りだと主張する人がいる。
私がその人がどう生きようと干渉しないけど、私についてあれこれ干渉され、それを受け入れろとマウンティングする人は、私の人生にいらない。
私は「みんなちがってみんないい」で行こうよ!と言います。
それだけなんですよ。
しかし、「私は正しい」けど「あなたは間違っている」と言う人はどんな美辞麗句を口にしようと本質的に「みんなちがってみんないい」を受け入れない人なんですね。
「みんなちがってみんないい」を許せない人に「認められなくてもいい」し「嫌われてもいい」
人それぞれが自分の人生のハンドルを自分でもって、自由に生きることを許せない人に「認められなくてもいい」し、「嫌われてもいい」と思っています。
そんな人は私の人生に存在しなくていい。
それが第二の強さです。
そして、私の人生にそんな人は存在しなくなった。
だから私は、嫌いな人が誰もいないのです。
それが、嫌な人がいない、人間関係にストレスのない、生き方です。
私の人間関係は、お互いに干渉せず、互いの自由を尊重する、自立した人たちで構成されています。
そうでない人を拒否しているのではなく、類は友を呼んでいるだけなのです。
他の生き方が好みの人は、「お前が悪い」「あなたが悪い」とジャッジし合っているのかもしれない(笑)
それはただ「好み」の問題です。
いつか誰かをジャッジし、ジャッジされる生き方に飽き飽きするかもしれない。
その時は私の類友です(笑)
私は誰も拒否しないし、ジャッジしない。しかし私をジャッジしたがる人の前からは静かに立ち去るのが好みだってことですね(笑)
しかし、誰がそれを選ぼうと選ぶまいと私はすべての人の選択を尊重し続けるだけなのです。
そしてこの度、
いつも疑問なのですが、その根本的なネガティブな感情はどうした
らなくなるのでしょうか。具体的は方策が見えないでいます。
という質問をいただいたので、私がネガティブな感情の源泉は何かをどう理解し、具体的にどういう方策をして、私が嫌な人は誰もいない、人間関係に何のストレスもなく、腹が立つようなことも「ほぼ」ない人生をどうやって生きているか説明しました。
その基本は「人に何かを期待することを落とす」ということにあります。
ただ、それだけではわかりにくいのでその背景をこの記事で説明しました。
私は誰に何も押し付けませんので、質問されなければこういうことを書く機会がなかった。
私は誰かに何かを説得しようと欲求がありませんからね(笑)
こういうことを書く機会を与えてくださったことに感謝しています。
誰かの参考になればうれしいです。