「これだけが真実である」という声名が全ての対立・ケンカ・紛争・戦争の源

こちらの記事にオスカルさんからご質問をいただきました。

どんなお話だったのかなーって、なんかうらやましいですね^_^
皆さんの熱い気持ちが伝わってきます。
昨日のブログでNさんのメールが引用されていました。
相手を認めてあげる
相手を許してあげる
この無条件の愛を忘れていた、
いいえ、忘れていたのではなく、わかっているフリをして自分のことを都合よく思い、『自由』をはきちがえていたことに気づかされました。

たっちゃんがいつも教えてくれている、

人類は一つ。
地球は一体。
それすらもわかっているフリをしていました。結果から見ますと。
それが体の痛みとなって現れていたのです。
榎本先生が昨日のセミナーで伝えてくれた
『自分をその状況と同一視しないこと』
深く深く刺さりました。
全て自分なのだと。
同一視していたから、相手を許せず対抗意識があったのだと。
お話の前後がわからないので、なんとも言えないのですが、?と、考えてしまいました。
以前、私は、
相手を許そう、相手を認めよう、相手を愛そう、と努力していました。
いつも出てくる大嫌いな〇〇のことも、そう思って何年も、がんばってきました。でも相手が変わることもなく私は疲れ果て、心身ともに不調に、陥っていました。
そんな時に榎本さんと出会い、目から鱗!で、わたしの考え方が変わったのです!
無理に相手を許そうと思ってもダメだ、と、思ったんです。だって大嫌いなんですもん。
自分にウソをついて無理してるんですもん。
私はそれに気づき、まずは自分の気持ちに正直になり、自分を大事にしてあげることにしたのです。
そうしたら、〇〇への気持ちもいつの間にか好転してきたのです。
私たちはもともとはひとつ。
私たちはもともとは神。
これは、わかります。
でも、たからといって、それだけの理由では、どんな人をも許し、認め、愛すことは無理です。どうしてもイヤな人、います。
心が澄んだ人や、聖人君子ならそうなのかもしれませんが、私には無理です。
でも、自分のことは大事にしてあげることできます。そして自分が幸せに満ちてくれば、相手のことも、とくに努力することなく、認めようという境地に立っているのです。
私は榎本さんのメッセージから、こういうふうに自分で解釈して、窮地からすくってもらえました。
でもN様のメールを読むと、なんか私とは逆?と、思えてきます。
これはどのように理解すべきなんでしょうか? オスカル( 2017年8月30日 0:41)

逆でもいいんですよ!

真実というひとつの大きな山があるとします。

その大きな真実という山への登るルートはたくさんあるんですよ!

古来より多くの宗教などがあり、色んなことを言っています。

なかなかいいことを言っているところもたくさんある。

共通したことの別の表現であることもよくある。

ただ多くの宗教について、私が気に入らないのは、

「これだけが真実である」(あとは邪教である)などと言うからですよ。

「これもひとつの考え方に過ぎない」と言えばいいんですよ。

実際そうなのですから。

「これだけが真実である」という声名がすべての対立・ケンカ・紛争・戦争の源ですよ。

実際は違うからです。

結局、ケンカ・対立・紛争・戦争の理由の源泉というのは多様性が認められないこと、

「みんなちがってみんないい」が認められないことにその源泉があります。

狭量さです。

世界中の「私の言うことだけが正しい」という人は全員狭量なんですよ!(笑)

なぜなら、宇宙は「すべて」神なる意識から生成しており、神以外に由来するものは何もないからです。

すなわち、「何かの否定は神の否定」であることに気づいていないんですよ。

どんなアプローチでもいいんですよ!

要は、その人が幸せになればいいのです。(人に迷惑をかけたり、犠牲にしたりしなければ。)

それ以外にルールはないのです。

その人にあうやり方が一番いいのです。

そして、すべての人は真実への道を歩いています。

それ以外の人は誰もいません。

なぜならみんな「幸せになりたい」からです。

それは神が最終的に神に帰還させるために、全員に植え付けたナビゲーションなんですよ。

どんな迷いの中にある人も、どんな混迷のなかにある人も、最終的に神に見放される人は誰ひとりいません。

「幸せになりたい」からです。

その究極の願いは必ず実現されます。

最終的には、すべて「思いは現実化」するからです。

もし何かやめた方がいいことがあるとするならば、「何かの否定」なんですよ。

自分自身を否定すべきじゃないし、誰かも否定すべきじゃない。

「みんなちがってみんないい」と思い、自分は自分の方法で幸せを追求し、人は人の方法で幸せを追及することを「許容」すればいいんです。

それだけなんですよ!

それだけで、世界中の対立・ケンカ・紛争・戦争はなくなるのです。

みんな幸せになれるんですよ!

だから少々アプローチが違っていても気にしないことです(笑)

自分にあった方法を採用したらいいんですよ。

だからNさんがそう考えて自分の幸せを追及してもいいし、

オスカルさんが、逆のアプローチで自分の状況が好転してもいいのです。

要は幸せになればいいんですよ!(笑)

それ以外のルールはありません。

それで困る人は誰もいません。

ただ、自分の方法以外はすべて真実ではないという狭量な人を除いては(笑)

困るのは彼らだけです(笑)

ですから、狭量な人はほっとくに限ります。

彼は彼で今狭量の道を突き進んで今生は破たんするかもしれませんが、神さまは何度でもチャンスを与えてくれますから、何も問題ないのです。

ただ、それが自分のやり方ではないと思えば、自分は狭量さを採用しないだけです。

「みんなちがってみんないい」ですから、誰かが狭量さに突き進むのはとめられません。

それも多様性の一部です。

しかし、自分は自分の幸せのアプローチ法を選んだらいいのです。

あなたもどうするかは自分で選べるということです。

選んでいいんですよ!

私が言いたいことは「自分で自分に幸せになる道を「選んじゃいけない」「選べない」」と誤解しているのがよくないんですよ。

選んでいいんでっすって!

「自分にとって何が幸せか」を考え、それに従って選んだらいいんですって!

これって、世界中の誰に言っても文句が出ないんですよ!(笑)

うまくいくんですよ!(笑)

私は、世界中の対立・ケンカ・紛争・戦争がなくなってみんな幸せに暮らしていくには、このアプローチしかないと思っているのです。

ですから、Nさんのアプローチが違っていたからと言って気にしないことです。

神という真実の山はひとつですから、どういうルートから登っても何も問題ありません。

そして、すべてのルートは真実に続いています。

それ以外の道などないんですよ!(笑)

あるのは寄り道だけです。

神様はすべての人に「幸せになりたい!」というナビゲーターを与えました。

ただ必要なことは、その自分のハートのナビゲーションに素直になることなんですよ!(笑)

それをすればうまくいきます。

それをしないと一時的に自分の人生が混乱しているように「見える」だけです。

いつかはみんな必ず、(必要があれば肉体の死を通じて)軌道修正していきます。

神は誰一人として見捨ててはいないんですよ。

神は誰ひとり見捨てていません。

みんな神の一部なのです。

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