先日平戸でシーカヤックでたまたま立ち寄った鄭成功(ていせいこう)記念館で初めて鄭成功なる人物を知ったが、彼は中国の建国の父であり三国神のひとりとされている。この記念館の管理をしている元漁協のおじさんは台湾に行くと「国賓扱い」を受けて腰を抜かし、記念日にはこの片田舎の記念館に台湾から250人もの大使節団が訪れたという。
(鄭成功記念館の帯刀する幼少の鄭成功と、母田川マツ)
鄭成功は台湾では大変な英雄なのである。
近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」は学校で習ったが、主人公は鄭成功である。
「国姓爺合戦」は私はまた昔の爺さんの合戦の話しなのかなと漠然と思っていたが、鄭成功(1624年ー1662年)は江戸時代初期に39歳で若くして死去しているから決して爺さんではない!
鄭成功は様々な功績により明王朝の隆武帝から「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓(君主の姓)の『朱』を賜ろう」と言われた。それは大変に名誉なことで、彼は皇族として「朱成功」と名乗ることができたが、あまりに恐れ多いこととし鄭成功で通した。
国姓爺というのは、国姓を賜った大人物という意味だ。
若くても先生を「老師」と呼ぶのと同じ発想だろう。
私なんかは小さい子に「おじさん!」と言われると「お兄さんと言いなさい!お兄さんとっ!」と言うくらいで30代で「爺」などと言われると、「こらぁっ!」となるのだが中国では褒め言葉のようだ。
鄭成功の父、鄭芝龍は福建省出身で鎖国前の日明貿易を担っていた。簡単に言えば海賊である。(笑) 平戸藩主松浦隆信は彼を重用し、平戸に居を構えることを許した。
だが平戸は潮の流れが速く、船の停泊には適さない。だから鄭芝龍は実際には風待ちに適した、千里が浜に住んでいたようだ。
鄭成功の父、鄭芝龍と結婚した平戸藩士の娘、田川マツは千里が浜で貝を拾っている時に産気づき、石にもたれかかってその場で出産している。
その石が今でも残っており、カヤックでも立ち寄ってくれた。
鄭成功の父、鄭芝龍はやがて台湾海峡の海賊の大将になる。
7歳の時に鄭成功は父に呼び寄せられ日本を離れた。
その後活躍し、隆武帝から国姓を賜った翌年、日本から母、田川マツを呼び寄せている。
時代が移り変わり、明が清に圧倒されていくと、鄭成功の父や異母兄弟たちはさっさと清に寝返ってしまった。
しかし、鄭成功は
「さすが日本人の血をうけただけあって、身を以て国難に殉じようとする忠義一徹の日本武士の本領を発揮しました。父から清に降ることを勧められて聞き入れなかった彼は、更に南方に移り、厦門(アモイ)と金門の二島を根拠地として、あくまで清軍に抗戦したのであります。
この時、国姓爺(鄭成功)にとって悲しい事件が起こりました。それは母の死です。清の大軍が泉州を抜き、安平鎮まで攻めてきたとき、国姓爺(鄭成功)の腹違いの弟の鄭芝豹(ていしひょう)たちは、驚き恐れて戦う気力がなく、妻子や財産を軍艦に乗せて海上に遁れたのですが、国姓爺(鄭成功)の母(田川マツ)だけは、女ながらもそこを去ることを拒み、剣をとって立派に割腹して死んだのであります。」(菊池寛『海外に雄飛した人々』より)
鄭成功は日本式の鎧を身にまとった鉄砲隊や騎馬兵など巧みに指揮している。
しかし、時代の流れには勝てず清と戦いに苦戦し、態勢を整えるために台湾に向かう。
この時、約百隻の船に2万5千人の兵を指揮している。
赤いとオレンジの部分がオランダが植民地化していたところ。
鄭成功はオランダの使者に、『自分は清の軍と戦争の都合上、台湾を占領しようとするのである。もともとこの地は支那のものであるから、オランダ人は、これを正当な旧主に明け渡さねばならない。自分はオランダ人を相手に戦争をしようとも、その財産を奪おうとも考えていない。城を壊してその材料及びその私財を持ち帰ってよろしい。ただ一刻も早く、この事を実行して欲しい。もしもオランダ側にて、24時間以内に、この要求に応じないならば、その時は、こちらも、採るべき方法を実行に移すばかりである。』と申し渡す。
オランダ側は徹底抗戦を決め、鄭成功は結局これを打ち破り、台湾をオランダの植民から解放した。
この功績により鄭成功は、中国の建国の三国父のひとりとして現在まで崇められることになる。
台湾では国立成功大学が建学され、成功高級中学もある。
中華民国海軍の成功級フリゲート一番艦は「成功」と命名されている。
鄭成功は民族の英雄なのである。
映画もある。
この動画の最初に出くる女性が、鄭成功の母、田川マツであり、幼少の鄭成功が駆けているのが平戸の千里が浜だ。
1分40秒では切腹した田川マツが海に帰されている。
中国の建国の三国父のひとり鄭成功は半分日本人である。
建国の三国父のあとのふたり孫文は日本人と結婚しているし、蒋介石は日本に留学している。
孫文も蒋介石もいざという時日本に亡命し助けを求めている。
日本で援助を得て立て直し中国に戻っている。
実は中国を建国した三国父、三国神と崇められている人は3人とも日本関係者なのである。
もともと台湾はじりつしたくにではなかったのか。台湾人と中国人は来たと南で接点がうすい。日本は単一国家と言われていたが、そうではないとも言われている。
大陸がら来た日本人、南の海を渡ってきた日本人と同じルーツがかんがられる。
中国古来の領土怪しい。