私も9月までは「自然の力は世界一」と無邪気に考えていたが、一度外へ出てみるとまったくそんなことはない。
ほんの一例だが、 ダスカロス(スティリアノス・アテシュリス:1912-1995)は、 立つことすらできなかった小児マヒの子どもを歩かせたり、再起不能なまでに変形した背骨を再生させるなど、奇跡のようなヒーリングを行なうことができたことで知られる。
私は自然の力に7年10ヶ月いたが、小児マヒを南先生が浄化して、よくなったのを一度も見たことがない。
もし、小児麻痺をよくできる自然の力の伝授者さんがいたらすぐにこちらから連絡して欲しい。よくして欲しい人がたくさんいる。
自然の力時代、私も小児マヒには手を焼いた。なぜ私がこんなことを知っているかというと、10月以降世界にも数多くの先達がいることを知り、10月だけでも10数冊の本を買って、実践のヒントを学び続けているからだ。ダスカロスもそんな一人だ。
世界には上には上がいくらでもいる。
以下の『』内 は上記のリンクから引用。
『ダスカロスは生前から、教えを宗教にすること、サークルを組織化することは決して認めなかった。(これは自然の力も同じだ。そんなところが私が自然の力に魅かれたところでもある)それはダスカロスが「無批判に信仰する者より、理性的な無神論者のほうが神に近い」と考え、また組織化することによって、教えが欲望や権威主義といった人間のエゴイズムに利用されることを危惧したからだろう。』
欲望(性欲と金銭欲)と権威主義(支配欲)に対する戒めは本当に多くの先達が異口同音に指摘している。何度も何度もだ。
自然の力には自分では理由がよくわからないのに、教えられた内容を「無批判に信仰し」自分の伝授を守るために「裏切り者認定します」と書ける人がごまんといる。それが権威主義のなんたるかだ。
そんな人よりもダスカロスは理性的な無神論者のほうが神に近いと考えた。私もそう思う。
私は「聖龍さん」の裏切り者認定しなければならなかった時、本当に苦しみ、長い時間かけて理由を考え、その理由と共に広場に裏切り者認定を投稿した。
ご本人はその内容を知って「ああそれはその通りと言い、本人もその内容には納得している」と後で聞いた。
人を裏切り者呼ばわりする限りは、そのくらい必死に理由を考え、自分で納得した上で「自己責任」で投稿するのは人間として当然のことだ。
「自然の力では、本人に直接事情を聞かずにその人のことについて判断すると伝授が切れるし、何かあればその人に直接言わなければ伝授が切れる。」という教えがある。しかし、私に事情を聞きに来た人は皆無であり、私に「あなたが悪いのはここですよ」と直接言う人も今のところ一人もいない。
この教えが、いつから自然の力で言われはじめたかご存知だろうか。
それは忘れもしない「あの事件」からだ。
私は本人とそのお母さんから直接相談を受けた。
何年も前にやめた20歳前後のかわいい女性伝授者さんだ。(当時未成年ではなかったか)
南先生に「伝授が切れている。(南先生と)セックスしないと伝授が戻らない。」と言わたそうだ。
自然の力の伝授者にとって、伝授は実の母が息子を「裏切り者」呼ばわりしてでも守りたい大切なものだ。
伝授者の命ともいえる。
その大事な伝授を戻すため、南先生とのセックスに応じたという。
それが何度も続き、嫌で嫌でしょうがなく、自然の力をやめたという。
その子は「新興宗教のスケベ教祖と何が違うのか」と吐き捨てるように私に言った。
私は本当に腹が立った。
私たちが神様の力と信じてやまない伝授と引き換えに、いったい何ということをしてくれるのか。
それこそ神様と私たち伝授者への裏切り行為ではないか。悔しくて悔しくてしかたがなかった。
いくら人類救済などときれい事を言っても裏でこんなことをしては「結局目的は金と女か」と言われても何も反論できないではないか。
私はそれまで自然の力は100%人類救済だと思っていた。しかし、この事件を期に、私の中で南先生への信頼が音を立てて崩れた。
はっきり言って幻滅した。
その時タイミングよく出てきたのが、「本人に直接事情を聞かずにその人のことについて判断すると伝授が切れるし、何かあればその人に直接言わなければ伝授が切れる。」という教えだ。
当事者が二人いるなら、一方だけで判断せす、必ず双方に言い分を聞いて事実を判定しないと伝授が切れると強調された。南先生に直接「これは本当ですか?」と聞く勇気ある伝授者は一人もいないからだ。
私は2、3ヶ月間今度こそ、天光地体験会でこの話しをして「自然の力をするなら、こういうことを覚悟の上でやってください。」と言い、私もやめるつもりで天光地へ講師に向かった。
しかし、結局私には言えなかった。
それが私の自然の力時代の最大の後悔だ。
私は、この子とそのお母さんから直接相談を受けた。しかし一方の当事者である南先生にはついに聞くことができなかった。
だからこの「教え」により自然の力を続ける以上何も言えなかった。
私は人が誰とつきあおうと何人とつきあとうと知ったことではない。それは本人の好きずきだ。
しかし自分の魂に謙虚に聞いて欲しい
「セックスをしなければ神様の力であるとする伝授が戻らないと言い、それをすることは神様への裏切り行為ですか?」私のおつたえでははっきりイエスとなる。
私は自己責任で南さんのこの行為を神様への裏切り行為であると認定する。恥を知れ。
こんなことをしては人類救済というきれいな表看板を掲げていても、結局裏で南さんの金と女への欲望を満たすための活動ということになってしまうではないか。
何てことをしてくれるのだ。
純真に人を救おうと志す私たちの気持ちを踏みにじる裏切り行為だ。
こういう事実を知った上で、続けるのはそれは本人の判断だ。
しかしそれを知らず「こんなはずではなかった」と絶対に思って欲しくない。
このために私はこのことを書いた。
それをわかった上で自ら望んでいくのはもちろんその人の自由だ。
これを伝えるのはこの真実を知り得る立場にあった私の役割であろうし、相談を受けながら何も助けてあげられなかったせめてもの償いだ。
この事件後も私は何年もずっと知らないフリをしてきた。しかし、このことが心から消えることはなかった。このような良心の呵責こそが、神様が与えてくれた魂から生じるものだ。私は自然の力時代にはできなかったが、今なら自分の魂に素直に従うことができる。もはや私の良心に枠をはめ、良心に背かせる「教え」は何もないからだ。
私は自分の良心、すなわち自分の魂と神様に対して恥じないことをするだけだ。
「自然の力では、本人に直接事情を聞かずにその人のことについて判断すると伝授が切れるし、何かあればその人に直接言わなければ伝授が切れる。」という教えが、この事件については有効で、私についてこれを実行した伝授者はひとりもいない。
こんなご都合主義の「教え」を学んで何になるのか。
私はいつの時代にも通用する真実を知りたい。それこそが私の求め続けてきたものだ。
自然の力の伝授者さんは気づいてもらうために愛から私を「裏切り者認定」してくれたそうだが、私もまた愛から気づいてもらうためにこのことをお伝えしたことはわかっていただけたと思う。
元に戻ろう。
『ダスカロスは常々、自分の語る言葉であっても決して鵜呑みにしてはいけないと、生徒たちを戒めていた。何であれ鵜呑みにせず疑問をもち、すべてを実際に体験して試し、自己修養によって得られた指針から主体的に判断しなくてはならないと教えたのは、他者を崇拝し盲目的に自らを委ねてしまいがちな人間の危うさを知っていたからだと思われる。』
まさにその通りだ。
自然の力では「榎本を裏切り者認定しないと伝授が使えない」と聞けば鵜呑みにし、理由もわからないないのに平気で「私は自己責任で榎本を裏切り者に認定します」と書ける人ばかりだ。
「盲目的に自らを委ねてしまいがちな人間の危うさ」そのものだ。
『人間には、努力を重ね一歩いっぽ自分の足で霊的成長の道を登っていくよりも、“偉大なる誰か”“素晴らしい教え”を信奉して付き従うことを欲する傾向がある。しかし、それでは依存心が強まるばかりで、本人の成長は阻害されてしまう。』
まったくその通り。
自然の力では偉大なる「南先生の教え」を信奉し、付き従い、メールで配信される内容を鵜呑みにして 榎本は「裏切り者、サタンが入っている、多重人格、神芝居・・・」と決め付け、自ら考えることをしない。このようなことをしていては依存心が強まるばかりで本人の成長は阻害される。成長とは自ら考え、挑み、汗を流して、経験を通じてのみはじめて得ることができるものだ。
『真理の探究、意識の覚醒、そして霊的成長の道に近道はない。偉大なマスターをどれほど熱心に信仰しようと、聖なる書物に囲まれ、霊的教義を熟知していようと、それがそのまま本人の力になるわけではないのだ。
……ここまでお読みいただければおわかりのように、ダスカロスは人間の心にジャングルのように巣くう欲望、エゴイズムからの脱却という、厳しい課題の実践を生徒たちに求めた。』
欲望(性欲と金銭欲)、独占支配欲というエゴイズムから自然の力は完全に脱却しているのだろうか。
多くの先達が異口同音に何度も何度も指摘しているこのことを誰もが謙虚に常に自ら問う必要がある。
この道では多くの「やってはならないこと」がすでに分かっているからだ。
ダスカロスが自然の力よりも偉大な浄化ができるのは当然だ。
そして、そんな人はたくさんいる。
私自身も9月までは自然の力は世界一と思っていたが「井の中の蛙大海を知らず」だ。
自然の力の人も「世界一」などと恥ずかしいことは言わない方がいい。
知れば知るほど恥ずかしい。