幼少に訪問したことがあるだけの墓に迷いもせず辿り着く
榎本家の過去帳が残る本籍地の菩提寺に行ってきました。
もう小学校に上がる前くらいに行ったことがあるだけで、今回の訪問はそれ以来だ。
寺の名前は母に聞いて確認していて、スマホのナビでたどり着けるが、墓地の中のどこに家の墓があるかはきっと私だけでは見つけることができないだろうと思って母に一緒に来てもらった。
しかし、どういう訳か一瞬も迷いもせず、榎本家の墓に直接たどり着き、私の方から母に「あったよ!」と声をかけた。
過去帳は当時の住職それぞれくせのある毛筆の達筆で書かいており、「字を読むことさえ結構難しい」
80歳を越えるお寺の住職さんにあって話を聞いた。
亡くなった父はこの寺の過去帳で調べたという榎本家の家系図を残している。
そこでそういう祖先にゆかりのあるものは私自身も一度この目で確認してみたいし、高齢の住職さんがご健在のうちに、「榎本家」のことについて聞いておきたかった。
「これです」と、その家系図を示しながらお寺の住職さんに話しをうかがうと、
過去帳というものは、人が亡くなった時に戒名な亡くなった年月日などを記録しておくもので、葬儀があった順に時系列的に記録してくもので、「その一族の系図」があるわけではないという。
なるほど。
そりゃそうかも。
寺の住職が、「あの人のおじいさんは確か・・・」と記憶している、せいぜい明治期くらいまでならわかるが、それ以前の記録になると、もう誰も覚えておらず、過去帳に残る人の親が亡くなった記録を名前を頼りにずっと過去帳をさかのぼって探していく地道な作業をしなければならないという。
しかも、過去帳は当時の住職それぞれくせのある毛筆の達筆で書かいており、「字を読むことさえ結構難しい」そうだ。
それは江戸期の古文書がなかなか読めないのと同じなのだそうだ。
なるほど。
父が残した、この菩提寺の過去帳を元にして作った過去帳を見せると、こんなきれいな系図になっているものはどこの寺にも残っていない。
これは父が丹念に過去帳を調べ上げて、ようやく判別してこうして記録したのだろう。
こういうものを作るのは相当の年月を要したはずで、なかなかできることではないので、大切にされたらいいと教えてくれた。
そうだったのか。
なお現在は個人情報の保護の観点から、
過去帳又はこれに類する帳簿の取扱基準
(閲覧禁止)第六条 第三条の規定による取扱責任者は、過去帳等を厳重に管理し、その閲覧を許してはならない。
となっており、過去帳を見せてもらってこういう作業をすることはほぼ不可能になってしまった。
榎本一族は山陽道に面した「榎組」(えのき組)と呼ばれる場所に住んでいた。
その菩提寺の前の道路は今となっては、ただの狭い道路に見えたが、旧山陽道であり、参勤交代の大名行列などもここを通過していた。
榎本一族は、その菩提寺より徒歩数分のところの旧山陽道沿いに榎組(えのき組)と呼ばれていた一帯があり、そこに代々住んでいた。そこに行くと榎本家の本家筋の家が今でも残っており、市街地にしては広大な敷地に土蔵の蔵まである立派な家であった。
住職さんが教えてくれた通り、本家の榎本家と、その近い分家の二軒の榎本さんが現在も榎組(えのき組)と呼ばれている場所に住んでいる。
もうこの辺りが榎組(えのき組)と呼ばれていた場所であることを知っている人も少なくなっているそうだ。
とっても穏やかな住職さんと坊守さん
それにしっても80歳を超えてもとてもしっかりして穏やかな住職さんであり、坊守(ぼうもり)さん(浄土真宗の寺の奥さん)はこの寺、先代の娘さんだそうで、このあたりの話を本当に詳しく聞くことができた。
おふたりとも本当にお元気そうで、穏やかないい表情をされている。
こんなに穏やかでお元気そうで内面にネガティブさがない高齢者を見ることはほんとうに珍しい。
現代日本でここだけは違う時間が流れているようだ。
ちなみに他所の寺の話をするとき、「あそこは新しい寺だから」と、普通私たちは新車、新品など新しいものがいいという風潮があるが、寺の場合は明治期のものなど若造もいいところで、ここの寺も数百年は歴史があるそうだ。
「新しい」ものはたいしたことはなく、「古いこと」がいいことだというニュアンスは久しぶりに聞いた気がする(笑)
住職さんは立派な山門の表にまで出て見送ってくださった。
ご高齢の住職さんや坊守さんがご健在のうちにこうして、あってお話を聞くことができて本当によかった。
代が変わったら決して聞けないであろう古い話をたくさん聞けた。
参考:【榎本姓の由来メモ】日本最大の悲恋は榎本のご祖先狭手彦(さでひこ)と佐用姫(さよひめ)