イエスの動機は愛であり、ユダの動機は経済です。

「類は友を呼ぶ」(引き寄せの法則)についてご質問いただきました。

 宇宙というのは非常に公平な場所です。
 実はまったく公平な場所なのです。
 例えば、強盗殺人など、死人に口なし、盗ったもの勝ちというのは、人間を物質的な存在、今生だけの存在と考えれば成立することですが、
 実は自分から出たものはすべて自分に戻ってきます。
 今生戻らければ来世戻ってきます。
 ですから、例えば強盗殺人をして、今生死人に口なしでおいしい思いをしたなら、来世は今度は、自分が強盗殺人される側になって、そうされた者の立場がどうであるか経験することになります。
 ですから、誰があなたにネガティブなことをしようと、彼らは彼らの自らの人生の旅路において必ずツケを払うことになりますから、何も心配することはないのです。
 またそれは何かの罰ではなくて、自分の魂が自らなしたことをバランスさせるために自ら選択することです。
 この宇宙において、その人のご本人の選択によらないものなど何もありません。
 (ただ、自分の魂の選択に無自覚であることは多々ありますが。)
もし引き寄せ=同類であるならば釈尊が僧団への弟子入りを許可した提婆達多(デーヴァダッタ)が結果的に釈尊の殺害を幾度も企てた事も、イエス・キリストが金庫番迄任せた12使徒纏め役のユダに裏切られたのも引き寄せになりますが、決してこれら造反者と御二方は同類では無いのは明らかです。(深読みすれば身近に置くことになる人物がいずれ造反する事も未必の運命として受け入れたという事かな?)・・・Y(2018年1月4日 16:58)
 そうですね。
 私も、もちろんユダイエスが同類とは思いません。
 イエスは自分に起こることを予期されていましたし、初めからこういうことに関わりを持たない選択もできたと思っています。
 イエスには選択肢がありましたが、あえてそれが起こることを容認されたと思っています。
 しかし、先ほど宇宙はまったく公平なところであると言いました。
 私はそのイエスの選択によって、彼は今この宇宙において、とても重要な役割を担うようになったと考えています。
 それはイエスが火の試練を通過されたからです。
 今現在この地球がとてもいい方向に向かっているのはイエスがあちらの世界でリーダーシップを発揮されていることが非常に大きいと考えています。
 永遠の魂の旅路において、何か一方的なことばかり起こることはありません。
 永遠の魂の旅路において、すべてがバランスしていきます。
 それによって神はこの宇宙の秩序ある運行を実現されていると考えています。
 もし一方的なネガティブな行いがバランスされることがないような宇宙であれば、この宇宙は強盗殺人などがはびこる地獄のような場所になっていることでしょう。
 しかし、そうはなっていません。
 宇宙は常に生命を育み続け、進化成長し続けているのです。
・・・榎本さんの言わんとする事は相手と『同じ土俵に立つな』という事だと言うことですから、そこは心に留めておきます。
 はい。
 まさに私が言いたいことは『同じ土俵に立つな』という事です。
 イエスはまったく、ユダと同じ土俵に立っていませんでした。
 これが最も重要な点です。
 彼らはまったく違う思考をする存在であったということです。
 私はユダイエスが、来世でも同じような確執を繰り返したとは思いません。
 ユダイエスは存在する場所も、肉体を離れた後の役割もまったく異なっていると思います。
 それが重要な点です。
 イエスユダは、まったく違う思考をしてきたということです。
 例えば、イエスが十字架に際し、ユダを呪っていたならば、イエスはまったく違う状態になっていたでしょう。
 しかし、イエスは彼を磔にした人々に思いやりを示されたのです。
 彼は自分を磔にした人を決して呪いませんでした、イエスは「どうか彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのですから」と神に祈られたのです。
 イエスは自らを鞭打ち、磔にした人を呪わず、思いやりを示し、愛を示されました。
 これがイエスを磔にした人と、イエスの決定的な違いです。
 それをなした「真の動機は何か?」ということです。
 そして、その決定的な「在り方の違い」イエスユダの今後の転生のあり方を決めることになると思っています。
 なぜなら人は自分から出たものを必ず受け取るからです。
 このような状況においても、自分から愛と思いやりを出されたイエスは、今後の転生において、もはや愛と思いやりしか受け取ることはないでしょう。
 それはイエスの前回の転生のように、自ら争いの世界に転生し、そこで傷つけ合う盲目の人々の間に転生することを自ら求めない限り、イエスがそのようなとばっちりを受けることはないでしょう。
 イエスはその愛と思いやりの大きさゆえに、とばっちりを覚悟の上で、争いの絶えない世界に転生することを自ら望まれました。
 この争い多い世界に転生されたのは、イエスの運命ではなく、彼自身の選択でした。
 彼はこの世界の輪廻転生の輪から抜けられなかったのではなく、この世界に転生することを自らの意志で選ばれたのです。
 イエスが自ら選んだ前回の転生は、彼自身の必要性に基づいたものではありません。
 彼はこの地球次元で何かを学ばなければならない存在ではありませんでした。
 しかし、争いの世界で身動きがとれなくなり、希望が見出せない人々のために、自ら渦中に向かう人が時にいるものです。
 それはちょうど、スラム街で彼らを何とかしようと炊き出しをしたり、何らかの活動をしようと志す人がいるのと同じです。
 彼らは彼ら自身の必要性があってスラム街に出向いたのではありません。
 彼らの愛ゆえに、それに気づき、それを見過ごすことができなかったゆえに、自らスラム街に出向くことをかって出るのです。
 しかし、そういう人でさえ、スラム街で凶弾に倒れることがあります。
 そのリスクがあることを知りながら、まったく自分には必要性がないにも関わらずスラム街に出向く人はいるのです。
 そういう人と、彼を射殺した人はまったく違う動機を持った存在です。
 もちろんそれは類が友を呼んだとは思いません。
 しかし、私はその自らスラム街に出向いて凶弾に倒れた人の意志は必ず報われると思っていますし、彼を射殺した人も、彼を射殺するという大きな過ちを通じて、肉体を離れた後の振り返りにおいて、そのことを大いに後悔し、その後の転生でその償いを志すことによって、また大きく救われると思っています。
 イエスは自分にはまったく必要ないにも関わらず、自らスラム街に出向くような存在でした。
 なぜならイエスがそうしなければ、スラム街の人々は永遠に等しいくらいの長きに渡って、そこで傷つけ合い、殺し合い、苦しみ合い、憎しみ合うことで、その輪廻転生の輪に縛り付けられ続けることにイエスが気づいていたからです。
 誰もそういう役回りはしたくないものです。
 しかし、誰かがそうしなければこの悪循環が断ち切れないことを理解した時、その気づきと愛ゆえに、そこに自ら出向く存在がいるものです。
 イエスはそういう存在でした。
 それがイエスの動機です。
 ユダの動機はもちろん経済です。
 イエスの居場所を教えて銀貨30枚を手に入れたのです。
 ユダの動機は経済的な損得でした。
 イエスの動機は愛であり、ユダの動機は経済です。
 彼らの動機はまったく異なります。
 
(ダ・ヴィンチの最後の晩餐 銀貨30枚の袋を握りしめている中央の男がユダ)

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『イエスの動機は愛であり、ユダの動機は経済です。』へのコメント

  1. 名前:田中 投稿日:2018/01/30(火) 21:32:49 ID:8f4f2a733 返信

    はじめまして。田中と申します。遅い時間に申し訳ありません。
    自分が他者にしたことは、必ず自分に帰ってくるということに関して質問させてください。
    例えば、今生で誰かに暴力をふるったとして、いつか同じ相手に暴力をふるわれることになる、ということでしたら納得できます。(あるいは、次の生で、生まれ変わった時に、同じく生まれ変わった相手に暴力をふるわれる)
    あくまで同じ魂同士、二人だけのやり取りの中で完結するのであれば、そんな法則もあるのかなと思います。
    しかし、もし全く別な相手から暴力をふるわれることになるとしたら、何かすっきりしない感じがします。
    私が誰かを殴ったために、誰かから殴られる経験をしなければいけなくなるとすれば、殴ってくれる存在が必要になります。その誰かは、私のカルマを解消するために殴る役目を担うことになったとも言えます。でも、その行為によって、彼は、いつか逆に殴られるという体験をしなければいけなくなるわけです。
    これでは、やったやられたの繰り返しが永遠に続いてしまうのではないでしょうか?
    話を逆に遡って考えてみても、やはりわからなくなります。私が殴られたのは、以前私が誰かを殴った結果だとすると、そもそも、私が殴った相手も、以前に誰かを殴った結果を私から受け取ったことになります。同じようにどんどん遡って考えていくと、「じゃあ、誰が一番最初に殴ったの?」ということになり、訳がわからなくなるのです。
    わかりにくい文章ですみません。以前から気になっておりましたが、私には、いくら考えても納得できる結論が出せません。
    お忙しいところすみませんが、どうかご回答よろしくお願いいたします。

  2. 名前:榎本 投稿日:2018/01/30(火) 22:18:17 ID:0af583fca 返信

    誰が一番最初に殴ったんでしょうね?(笑)

    ある日、無理やり自分の言うことを聞かせたいと初めて思った人でしょうね。
    何人かで拾った栗を独り占めしたかったんでしょうかね(笑)

    「おい!その栗を俺によこせ!」

     嫌だ!(ボコッ!)

    そんな感じじゃないでしょうか。

    さて人類史上初めて殴ったAさん、また栗を独り占めしようと思っています。
    一度味をしめたらもう簡単にやめられません。
    何しろ自分が拾わなくても、殴るだけで簡単に栗が手に入るのです。
    また(ボコッ!)とやるでしょう。

     そうすると、そうされた人は「お~、人を殴ればこんなに簡単に栗が手に入るのか!」というアイディアを初めて学びます。

     そして、類は友を呼びます。

     そのアイディアを学んだAさんに殴られたBさんに、Aさんはもっと大きなこん棒で殴られて、今まで集めた栗をやがてすべてとられることになるでしょう。

     そうして、自分がなしたことを、自分で受けて、「殴ってものを手に入れる」ということがどういうことか学びます。

     めでたし!めでたし!じゃないですか。
     
     Aさんを殴って栗を総取りしたBさんもやがて誰かに殴られて栗をとられます。

     類は友を呼びますからね。

     さて、殴られて栗をとられたらどうしたらいいのか。

     栗をAさんにくれてやって、Aさんのそばから静かに立ち去ることでしょう。

     そして、自分で採った栗をお互いに分かち合う人たち同士でワイワイ楽しくおしゃべりして共感の世界で暮らしたらいいのです。

     ですからAさんに殴られた人は、Aさんを殴り返して、Aさんの価値観の類友になるのではなく、Aさんの「誰かを恐怖で脅して自分の目的を達する」という価値観の世界から静かに立ち去るのです。

     彼らは彼らで気のすむまで殴り合いのゲームを続けるでしょう。

     その虚しさに気づくまで、どうしようもないのです。

     ただ、その殴りあいのゲームに私たちが加わることはないのです。

     静かに立ち去り、「喜びの分かち合い」という別の価値観に従って生きる人々と類友になって楽しく暮らせばいいのです。

     ですから、もしAさんに殴られたら殴り返すのは得策ではありません。

     しかし、それはAさんの暴力を甘受し続けるということでもありません。

     Aさんから静かに立ち去るということです。

     Aさんの類友である世界から立ち去るのです。

     そしてもしAさんがいつか、「誰かを恐怖で脅して自分の目的を達する」という価値観の暴力や「へつらい」の孤独さ虚しさを学び、「喜びの分かち合い」という価値化で生きたいということであれば、Aさんも類友になったのですから、受け入れてみんなで楽しく「喜びの分かち合い」の世界を楽しめばいいのです。その際Aさんも、殴って栗をとってごめんねと、自分がとった以上の栗を持ってきて、自分の変化が自分の変化が本物であるということを「自分から」示したいんじゃないでしょうか。そうしないとAさんが来てもずっと警戒されますからね。

     こういうふうにAさんたちが「誰かを恐怖で脅して自分の目的を達する」ことの意味を自分で理解したり、そのために生じなマイナスを「自ら解消したい」と願うことを、人はたまにカルマとか因果と呼ぶことがありますが、それは自ら望んだ真実の理解と魂の成長に過ぎません。

  3. 名前:田中 投稿日:2018/01/31(水) 15:43:20 ID:efa484af2 返信

    ご回答ありがとうございました。類が友を呼ぶことそのままに、延々とやったやられたを繰り返す場合もあれば、どこかの時点で、誰かの愛を持った行動によって、悪い連鎖が絶ちきられる場合もあるということでしょうか?
    その誰かは、必ずしも自分がかつて同じことをした必然の結果として被害を受けたのではなく、敢えてその役回りを引き受けることもあるのですね・・。

  4. 名前:榎本 投稿日:2018/01/31(水) 17:13:31 ID:0dfe592e4 返信

    >どこかの時点で、誰かの愛を持った行動によって、悪い連鎖が絶ちきられる場合もあるということでしょうか?
    >その誰かは、必ずしも自分がかつて同じことをした必然の結果として被害を受けたのではなく、敢えてその役回りを引き受けることもあるのですね・・。

    もちろんですよ!

    その代表がイエスでしょう。

    そして今地球に転生している人の多くがそれを志していますよ。

    誰かがそれをやらなければご指摘のように悪い連鎖が断ち切れませんからね。

    多くの人が自分の実生活でそれをやっておられます。

    それは真に偉大なことなんです。

  5. 名前:田中 投稿日:2018/01/31(水) 18:07:32 ID:586e461b5 返信

    ありがとうございました。
    今後の生活の中で、何か理不尽に感じてしまうことが起こったとしても、先ずは冷静になって、「自分も同じようなことをしたことはなかっただろうか❓」「心当たりがなくても、ひょっとしたら前生でしたのかも・・」と、自分にとって大切な意味のある出来事として捉えたいと思います。
    相手の行為に反射的に反応するのではなく、愛のある対応をするのか、怒りや悲しみで返すのか、どれを選ぶのかは自分に責任があるのだということを忘れないようにしたいと思います。

  6. 名前:榎本 投稿日:2018/01/31(水) 20:40:54 ID:0dfe592e4 返信

    >自分にとって大切な意味のある出来事として捉えたいと思います。

     そうですね。

     すべては自分にとって意味ある大事な出来事です。

     それを通じて、大きく学びパワフルになれることしか人生に引きつけないものです。

     理不尽に見えれば見えるほど、大きなチャレンジです。

    >相手の行為に反射的に反応するのではなく、愛のある対応をするのか、怒りや悲しみで返すのか、どれを選ぶのかは自分に責任がある

     はい。

     ただ相手が突然予期しない行動(暴力)に出てきたら、反射的な行動をして身を守ろうとするのはしかたがありません。

     まずは自分が安全と感じられる場所まで移動しないといけません。

     そして落ち着いて考え、自分はどのような人生を歩みたいのか、この相手と怒りの応酬を繰り返す人生か?

     それを望まないなら、そしてNOと言っても相手はそのやり方を変えないなら、人は変えられませんから、自分が静かに去ればいいのです。

     大丈夫ですよ!穏やかで素敵な分かち合いの人生を生きている人々はたくさんいます。

     「みんなちがってみんないい」ですから、相手の価値観を否定することはありません。
     しかし、自分が嫌な価値観を強制されることもありません。

     相手はサッカーが好きだけと、私は家庭菜園が好きというようなものです。

     それはただ単に嗜好、好みの違いです。

     そして、それは互いに尊重されるべきものです。

     お互いに裁き、批判試合、文句や圧力で、自分の意向を通したい人は、どうぞその価値観を共有する人たち同士で楽しめばいいのです。

     洞察や理解、共感で人々と分かち合いたい人はそうすればいいんです。

     好みの問題ですよ!(笑)
     
     ただ私たちの行動によって、一人でもより素敵な価値観を共有できる人が増えたなら、その人はほんとうにすごいことを成し遂げたといえます。

     そういう人が真のヒーローであり、真のヒロインです。
     
     その人の生には大変な意味があります。

  7. 名前:田中 投稿日:2018/02/01(木) 07:50:01 ID:d37a19edd 返信

    ありがとうございました。
    今までの自分を振り替えってみれば、ただ相手の言動に動揺し、怒りや悲しみ、裁く心で反応してしまうことが多かったようです。
    人生の主導権は、常に自分にあることを忘れないよう心がけたいと思います。

    ほんの数日前に、榎本さんのサイトにたどり着きました。
    これから少しずつ読ませて頂きます。
    お忙しいところ、ご回答ありがとうございました。

  8. 名前:榎本 投稿日:2018/02/01(木) 10:17:51 ID:772150332 返信

    >今までの自分を振り替えってみれば、ただ相手の言動に動揺し、怒りや悲しみ、裁く心で反応してしまうことが多かったようです。

     地球上での人生を生きているとそういうことはよくありますね。

     しかし、相手がそういう言動をする理由は「相手にあります」そして、相手の人生で何を思い、何を言い、どう行動するかは完全に相手に主権があり、「相手が選ぶこと」です他者には相手は変えられません。

     そんな相手の「言動に動揺し、怒りや悲しみ、裁く心で反応してしまう」と相手と同じ価値感の中で、裁きの応酬をいつまでも続けてしまうことになります。
     
     ですから「その連鎖に気づいた人」が静かに立ち去ればいいのです。

     一旦「水入り」にして、「裁きの応酬」から離れないと、とても「これは自分が引き寄せている」という理解に到達することはできません。「相手が悪い!」という互いの応酬から抜けられないからです。

     ですから自分から一旦引きます。
     しかしそれは相手の裁きに屈するということではないんですよ。
     もうこういう「裁きの応酬」の価値観の世界から立ち去るということです。

     私たちは、どういう人々と交流して、自分の人生を構成するか完全に選べるんですよ。

     それは「好み」の問題です。
    相手は格闘技が好きだけど、私は自転車旅行が好きだ、みたいな話しなんですよ。

     格闘技が好きな人は、好きな人同士でどうぞ!私は自転車旅行が好きだから、自転車旅行が好きな人と旅に出るわということとまったく同じです。

     そしてそれはただ単に「好み」の問題ですから、お互いに相手を批判することはないんです。

     ただ、相手が無理やり自分の価値観を押し付けようとするなら、はっきり「NO」と言わないといけません。

     そうしないと、一生好きでもない格闘技につきあい、ぼこぼこになって人生を過ごすことになります。

     それは自分がはっきり「NO」と言わなかっただけなんですよ。

     理由はその一点だけです。

     >人生の主導権は、常に自分にあることを忘れないよう心がけたいと思います。

     まさにそれかですね。

     そして、嫌なことは嫌、自分の好きなことはこっち!とはっきり自分の人生の主導権を発揮することです。

     その際注意点はただひとつ、自分がされて嫌なことは人にしない。

     例えば「自分が裁かれて嫌」なら人を裁かない、価値観を押し付けられて嫌なら、自分は価値観を押し付けない。自分がされて嬉しいことを人と分かち合う、それだけです。

     そして「私も自転車旅行が大好き!」という人と旅に出ればいいのです。

     それが楽しい人生です。

     実に簡単なことですよ!(笑)

  9. 名前:田中 投稿日:2018/02/01(木) 16:42:14 ID:02e622108 返信

    今まで、心に引っ掛かっていたことが、何か楽に考えて行けそうな気がします。
    先ずは、裁く心を無くしていくよう心がけたいと思います。自分や他人を裁くこと、価値判断をすることが、苦しみの原因だったのかもしれません。
    物事の意味を、常に冷静な気持ちで考えて、お互いに相容れない関係においては、平和的に住み分ける努力もしていきたいと思います。今までが今までだったので、私にはかなり難しいと思いますが・・・。

    お忙しいところ何度もご回答頂き、ありがとうございました。

    また訪問させて頂きます。よろしくお願いいたします。   

  10. 名前:榎本 投稿日:2018/02/01(木) 17:10:42 ID:772150332 返信

    >先ずは、裁く心を無くしていくよう心がけたいと思います。自分や他人を裁くこと、価値判断をすることが、苦しみの原因だったのかもしれません。

     その通りです!

     これこそがすべてのケンカ、すべての争い、すべての戦争の源です!

     「みんなちがってみんないい」んですよ!

     これがすべての幸せの鍵です。

     ですから、私はこの言葉があんまり気にいったものだから、ブログの上に書いているくらいです(笑)

     「みんなちがってみんないい」

     とっても簡単です!

     これですべての友情は永遠になります。

     「裁き」が生じた時点で、その友情、その愛は終るのです。

     「条件」をつけたからです。

     「条件付きの友情」「条件付きの愛」などとなどというのは存在しないのです。

     それは自分の都合のいいように相手を操作したい「支配」の隠れた動機を持っているからです。

     「あなたは私の気にいるように振る舞わなけれければならない!」といっているんですよ。

     だからうまくいかないのです。

     私たちは本当の友情、本当の愛を経験したいんですよ。

     それは無条件の友情であり、無条件の愛です。

     それは決して「裁き」のない友情であり、愛なんですよ。

     それはただ「みんなちがってみんないい」ということをお互いに受け入れるだけで実現んするんです!

     幸せになるのはとっても簡単なんですよ!(笑)

  11. 名前:田中 投稿日:2018/02/01(木) 18:33:42 ID:02e622108 返信

    みんなちがって みんないい

    すべての人が、心からそう思えたとしたら・・。
    それだけで、穏やかで平和な世界が広がっていくのかもしれません。
    先ずは自分からですね。

    1年ほど前のある出来事をきっかけに、地べたを這いつくばるような生活が続いておりました。
    今も再起に向けてもがいているところです。
    そんな時に、榎本さんのサイトにたどり着きました。
    何か、心の中に微かに光がさした気がしています。
    何度もお時間をとってご回答頂いたことに感謝します。
    ありがとうございました。

    • 名前:榎本 投稿日:2018/02/01(木) 19:20:33 ID:772150332 返信

      >みんなちがって みんないい

      >すべての人が、心からそう思えたとしたら・・。
      >それだけで、穏やかで平和な世界が広がっていくのかもしれません。

      そうです!そうです!

       たったそれだけのことで、地球は天国のような場所になっていきます。

      >先ずは自分からですね

       はい!
       まず自分がそうなって、自分の人間関係において、類友をそういう楽しい人間関係を満喫すればいいんですよ。
       
       あとは、それが楽しいと感じる人がやってきたら「みんなちがってみんないい」とどんどん一緒にやったらいいんです。

       何も難しく考えることはないんですよ。
       
       みんな楽しいのが大好きですからね。

       自然とそうなっていきます。

       ただ早いか遅いかの違いだけです(笑)

  12. 名前:品川 投稿日:2018/07/13(金) 17:50:07 ID:afe747272 返信

    イエス・キリストは 御父の御心を行うために 私たちを贖うために この世に降臨されました。 ユダは 自分の魂を 悪魔に売ったのです。 私たちも 肉の思いを選び 行う時 悪魔に従うことと同じです。

  13. 名前:榎本 投稿日:2018/07/13(金) 18:09:01 ID:eb6aceaae 返信

    「肉の思い」とは肉体的な思いということですかね?

     イエスも、ワインやパンを人々にふるまわれました。

     私もおいしいものを食べるのは大好きですよ。

     イエスも人々がそうするのを喜ばれたと思います。

     それは否定すべきものではないですが、肉体的欲求「だけ」に生きることは虚しいですね。
     人はパンのみに生くるにあらずです。

     パンのみに生きるわけではないですが、パンも食べる必要があります。

     私も「スピリット」が大事であると思っています。

    「スピリット」と物質的現実のバランスが大事ですね。

     なぜなら、お腹が空くから!(笑)

     

    • 名前:品川 投稿日:2018/07/15(日) 06:55:27 ID:b23b4cceb 返信

      生ける神様の預言者の御言葉を聴いて 真理を知ってください。 https://www.lds.org/general-conference?lang=jpn   モルモン書は イエス・キリストについてのもう一つの証 完全な主の福音が載っています。 https://www.mormon.org/jpn/%E7%84%A1%E6%96%99-%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9B%B8

  14. 名前:モルモン教初代管長ジョセフ・スミスには妻が40人、最年少の妻は14歳。 投稿日:2018/07/15(日) 07:34:45 ID:be3896518 返信

    モルモン教初代管長のジョセフ・スミスには40人の妻がおり、最年少の妻は14歳。
    このことは2014年にモルモン教会が正式に認めています。

    http://president.jp/articles/-/23622?page=5

  15. 名前:モルモン教初代管長ジョセフ・スミスには妻が40人、最年少の妻は14歳。 投稿日:2018/07/15(日) 18:44:38 ID:be3896518 返信

    モルモン教はキリスト教のカトリック・正教会・プロテスタント、つまりほとんど全てのキリスト教会から異端とされています。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%97%A5%E8%81%96%E5%BE%92%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E4%BC%9A

    教会と関係ないのはモルモン教ですよ。

  16. 名前:品川 投稿日:2018/07/16(月) 07:31:02 ID:8b266f863 返信

    私たちは モルモン教ではなく 末日聖徒イエス・キリスト教会です。  名前を見れば よくよく分るでしょう。 イエス・キリストの名が教会の名に入っている教会は ほとんどありません。 このことは 神様の奇跡の業の一つだと気づかされたことがあります。 しかし あなたが言っていることは 世間が言っていることを うのみにして批判しているだけであって この教会が真実の神様の教会であるということの証明 あなたからすると 偽物の教会 の証拠 論拠とはなっていません。 私がこの教会に 神様から導かれるまでの経緯の中に 仏教を知ろうとたくさんの僧侶の話を聴いてた時もあり 日々考え 学び 思いをめぐらし 何が正しく このことは本当に 救いに達するのか など 探求し 努力し 救われることを 心底神様に願った結果 神様は私に憐みを示し 真理を示してくださいました。 あなたも 自分自身で探求し 学び 思いをめぐらし 神様に願い求め 救いにあずかってください。 余談となりますが なぜあなたはカトリックや他の教会を信じ 言っていることを信じるのか それは ただ 昔からあった ということだけで信じているのではないんですか。 カトリックの牧師は 赦されない罪を犯したニュースを何度も聞いたことがありますが。  モルモン書第三ニーファイ27章 
    そこで彼らはイエスに、「主よ、この教会をどのような名で呼ぶべきか、わたしたちに教えていただきたいと存じます。
    この件について民の中に論争がございますから」と言った。
    すると主は、彼らに言われた。
    「まことに、まことに、あなたがたに言う。
    民がこのことについてつぶやき、論じ合うのはなぜか。
    彼らは、「キリストの名を受けなければならない」という聖文を読んだことがないのか。
    キリストとは私の名である。
    終わりの日にあなたがたは、この名によって呼ばれるのである。
    わたしの名を受け、最後まで堪え忍ぶ者は、終わりの日に救われるであろう。
    だから、あなたがたの行うことは何事でも、わたしの名によって行いなさい。
    あなたがたは教会をわたしの名で呼びなさい。
    また、父がわたしのために教会を祝福してくださるように、わたしの名によって父に呼び求めなさい。
    わたしの名で呼ばれなければ、どうしてわたしの教会であろうか。
    ある教会がモーセの名で呼ばれれば、それはモーセの教会である。
    あるいは、ある人の名で呼ばれれば、それはその人の教会である。
    しかし、わたしの名で呼ばれ、人々がわたしの福音の上に築かれていれば、それはわたしの教会である。
    まことに、あなたがたに言う。
    あなたがたはわたしの福音の上に築かれている。
    だから、あなたがたが呼ぶものは何であろうと、わたしの名によって呼びなさい。
    あなたがたが教会のために、わたしの名によって父に呼び求めるならば、父はあなたがたの祈りを聞いてくださる。
    また、教会がわたしの福音の上に築かれていれば、父は教会の中で御自分の業を示されるであろう。
    しかし、教会がわたしの福音の上に築かれておらず、人の業の上に、あるいは悪魔の業の上に築かれていれば、まことにあなたがたに言う、彼らはしばらくの間は自分たちの業を楽しむが、やがて最後が来て、彼らは切り倒されて火の中に投げ込まれ、そこから二度と戻ることができない。
    彼らの業は彼らにつき従い、彼らはその業のために切り倒される。
    だから、わたしがあなたがたに告げたことを覚えておきなさい。
    見よ、わたしはあなたがたに、わたしの福音について告げた。
    わたしがあなたがたに告げた福音とは、次の通とおりである。
    すなわち、父がわたしを遣わされたので、わたしは父の御心を行うために世に来た。
    父は、わたしが十字架に上げられるようにと、わたしを遣わされた。
    十字架に上げられた後で、わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せた。
    わたしは人々によって上げられたが、そのように人々は、父によって上げられてわたしの前に立ち、自分の行いが善いか悪いかによって、行いを裁かれるのである。
    ……
    https://www.lds.org/scriptures/bofm/3-ne/27?lang=jpn

    しかし この場を使って話し合ってたら 迷惑になりますよね。
    あなたは榎本さんじゃないんですよね。

  17. 名前:品川 投稿日:2018/07/16(月) 07:35:59 ID:8b266f863 返信

    15の投書 のサイトです。
    https://www.lds.org/manual/foundations-of-the-restoration-teacher-manual/lesson-20-plural-marriage?lang=jpn

  18. 名前:榎本 投稿日:2018/07/16(月) 08:11:52 ID:8e4c23a65 返信

    私は誰が何を信じようと「みんなちがってみんないい」という立場です。

    私は今生、組織宗教に属したことはありませんが、過去世ではおそらく属していたでしょう。(笑)

    大分からは天正の遣欧少年使節がローマに派遣されましたが、彼らが船でアジアを旅して行く途中、多く港で日本人女性が奴隷としてつながれ助けを求めるのを見て仰天しています。

    鉄砲の対価としてキリシタン大名たちが日本人女性を輸出していたんですよ。バレテンが日本にやってきて、すぐにそういうトレードを持ちかけているのです。
    結局、日本にキリスト教を伝えた連中は、人殺しの道具を売りつける武器商人であり、奴隷商人だったわけです。アフリカや中南米でやったことと同じことを日本でもやっていたんですよ。
    「イエスの会」(イエズス会)と称して実際にはそういうことをしているのです。

     それで日本の指導者はキリスト教を禁教にして鎖国しました。

     豊臣秀吉は天正15年6月18日にイエズス会のドミンゴス・モンテイロとコエリョに、

    「大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。」(中国、東南アジア、朝鮮へ日本人を売るまが事、につき、日本において人の売買は禁止。)と申し渡しています。

     当たり前です。

     まったくロクな連中ではありません。

     だからと言ってイエスの存在や彼の叡智が否定されるべきものでもありません。

     私は去年バチカンに行き、ミケランジェロのピエタを見ていたく感動しましたし、ミラノではダ・ビンチの最後の晩餐も素晴らしかった。

     いいものもたくさんあります。

     スペイン巡礼もしましたしね(笑)

     かといって空海も敬愛して高野山にも行きましたし、

     仏陀や、禅のマスターたちも敬愛しているんですよ(笑)

     その人が実際に「何を言っているか」ではなく、「何をやっているか」という本質をみないといけないと思っています。

  19. 名前:品川 投稿日:2018/07/16(月) 09:37:46 ID:8b266f863 返信

    その通りですね。 その教会が 真の神様の教会であるか 
    行いを見て分かります。  
    https://www.mormonnews.jp/%E8%A8%98%E4%BA%8B/%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%88%E3%81%90%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%ABlds%E6%85%88%E5%96%84%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%9B%A3%E3%81%8C1%E5%84%84%E5%86%86%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%82%8B%E6%8F%B4%E5%8A%A9
    この他にも たくさんの神様の御心を行っています。
    見て知ってください。
    https://www.mormonnews.jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%99%BA%E8%A1%A8

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