「類は友を呼ぶ」(引き寄せの法則)についてご質問いただきました。
宇宙というのは非常に公平な場所です。
実はまったく公平な場所なのです。
例えば、強盗殺人など、死人に口なし、盗ったもの勝ちというのは、人間を物質的な存在、今生だけの存在と考えれば成立することですが、
実は自分から出たものはすべて自分に戻ってきます。
今生戻らければ来世戻ってきます。
ですから、例えば強盗殺人をして、今生死人に口なしでおいしい思いをしたなら、来世は今度は、自分が強盗殺人される側になって、そうされた者の立場がどうであるか経験することになります。
ですから、誰があなたにネガティブなことをしようと、彼らは彼らの自らの人生の旅路において必ずツケを払うことになりますから、何も心配することはないのです。
またそれは何かの罰ではなくて、自分の魂が自らなしたことをバランスさせるために自ら選択することです。
この宇宙において、その人のご本人の選択によらないものなど何もありません。
(ただ、自分の魂の選択に無自覚であることは多々ありますが。)
もし引き寄せ=同類であるならば釈尊が僧団への弟子入りを許可した提婆達多(デーヴァダッタ)が結果的に釈尊の殺害を幾度も企てた事も、イエス・キリストが金庫番迄任せた12使徒纏め役のユダに裏切られたのも引き寄せになりますが、決してこれら造反者と御二方は同類では無いのは明らかです。(深読みすれば身近に置くことになる人物がいずれ造反する事も未必の運命として受け入れたという事かな?)・・・Y(2018年1月4日 16:58)
そうですね。
私も、もちろんユダとイエスが同類とは思いません。
イエスは自分に起こることを予期されていましたし、初めからこういうことに関わりを持たない選択もできたと思っています。
イエスには選択肢がありましたが、あえてそれが起こることを容認されたと思っています。
しかし、先ほど宇宙はまったく公平なところであると言いました。
私はそのイエスの選択によって、彼は今この宇宙において、とても重要な役割を担うようになったと考えています。
それはイエスが火の試練を通過されたからです。
今現在この地球がとてもいい方向に向かっているのはイエスがあちらの世界でリーダーシップを発揮されていることが非常に大きいと考えています。
永遠の魂の旅路において、何か一方的なことばかり起こることはありません。
永遠の魂の旅路において、すべてがバランスしていきます。
それによって神はこの宇宙の秩序ある運行を実現されていると考えています。
もし一方的なネガティブな行いがバランスされることがないような宇宙であれば、この宇宙は強盗殺人などがはびこる地獄のような場所になっていることでしょう。
しかし、そうはなっていません。
宇宙は常に生命を育み続け、進化成長し続けているのです。
・・・榎本さんの言わんとする事は相手と『同じ土俵に立つな』という事だと言うことですから、そこは心に留めておきます。
はい。
まさに私が言いたいことは『同じ土俵に立つな』という事です。
イエスはまったく、ユダと同じ土俵に立っていませんでした。
これが最も重要な点です。
彼らはまったく違う思考をする存在であったということです。
私はユダとイエスが、来世でも同じような確執を繰り返したとは思いません。
ユダとイエスは存在する場所も、肉体を離れた後の役割もまったく異なっていると思います。
それが重要な点です。
イエスとユダは、まったく違う思考をしてきたということです。
例えば、イエスが十字架に際し、ユダを呪っていたならば、イエスはまったく違う状態になっていたでしょう。
しかし、イエスは彼を磔にした人々に思いやりを示されたのです。
彼は自分を磔にした人を決して呪いませんでした、イエスは「どうか彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのですから」と神に祈られたのです。
イエスは自らを鞭打ち、磔にした人を呪わず、思いやりを示し、愛を示されました。
これがイエスを磔にした人と、イエスの決定的な違いです。
それをなした「真の動機は何か?」ということです。
そして、その決定的な「在り方の違い」がイエスとユダの今後の転生のあり方を決めることになると思っています。
なぜなら人は自分から出たものを必ず受け取るからです。
このような状況においても、自分から愛と思いやりを出されたイエスは、今後の転生において、もはや愛と思いやりしか受け取ることはないでしょう。
それはイエスの前回の転生のように、自ら争いの世界に転生し、そこで傷つけ合う盲目の人々の間に転生することを自ら求めない限り、イエスがそのようなとばっちりを受けることはないでしょう。
イエスはその愛と思いやりの大きさゆえに、とばっちりを覚悟の上で、争いの絶えない世界に転生することを自ら望まれました。
この争い多い世界に転生されたのは、イエスの運命ではなく、彼自身の選択でした。
彼はこの世界の輪廻転生の輪から抜けられなかったのではなく、この世界に転生することを自らの意志で選ばれたのです。
イエスが自ら選んだ前回の転生は、彼自身の必要性に基づいたものではありません。
彼はこの地球次元で何かを学ばなければならない存在ではありませんでした。
しかし、争いの世界で身動きがとれなくなり、希望が見出せない人々のために、自ら渦中に向かう人が時にいるものです。
それはちょうど、スラム街で彼らを何とかしようと炊き出しをしたり、何らかの活動をしようと志す人がいるのと同じです。
彼らは彼ら自身の必要性があってスラム街に出向いたのではありません。
彼らの愛ゆえに、それに気づき、それを見過ごすことができなかったゆえに、自らスラム街に出向くことをかって出るのです。
しかし、そういう人でさえ、スラム街で凶弾に倒れることがあります。
そのリスクがあることを知りながら、まったく自分には必要性がないにも関わらずスラム街に出向く人はいるのです。
そういう人と、彼を射殺した人はまったく違う動機を持った存在です。
もちろんそれは類が友を呼んだとは思いません。
しかし、私はその自らスラム街に出向いて凶弾に倒れた人の意志は必ず報われると思っていますし、彼を射殺した人も、彼を射殺するという大きな過ちを通じて、肉体を離れた後の振り返りにおいて、そのことを大いに後悔し、その後の転生でその償いを志すことによって、また大きく救われると思っています。
イエスは自分にはまったく必要ないにも関わらず、自らスラム街に出向くような存在でした。
なぜならイエスがそうしなければ、スラム街の人々は永遠に等しいくらいの長きに渡って、そこで傷つけ合い、殺し合い、苦しみ合い、憎しみ合うことで、その輪廻転生の輪に縛り付けられ続けることにイエスが気づいていたからです。
誰もそういう役回りはしたくないものです。
しかし、誰かがそうしなければこの悪循環が断ち切れないことを理解した時、その気づきと愛ゆえに、そこに自ら出向く存在がいるものです。
イエスはそういう存在でした。
それがイエスの動機です。
ユダの動機はもちろん経済です。
イエスの居場所を教えて銀貨30枚を手に入れたのです。
ユダの動機は経済的な損得でした。
イエスの動機は愛であり、ユダの動機は経済です。
彼らの動機はまったく異なります。
(ダ・ヴィンチの最後の晩餐 銀貨30枚の袋を握りしめている中央の男がユダ)
はじめまして。田中と申します。遅い時間に申し訳ありません。
自分が他者にしたことは、必ず自分に帰ってくるということに関して質問させてください。
例えば、今生で誰かに暴力をふるったとして、いつか同じ相手に暴力をふるわれることになる、ということでしたら納得できます。(あるいは、次の生で、生まれ変わった時に、同じく生まれ変わった相手に暴力をふるわれる)
あくまで同じ魂同士、二人だけのやり取りの中で完結するのであれば、そんな法則もあるのかなと思います。
しかし、もし全く別な相手から暴力をふるわれることになるとしたら、何かすっきりしない感じがします。
私が誰かを殴ったために、誰かから殴られる経験をしなければいけなくなるとすれば、殴ってくれる存在が必要になります。その誰かは、私のカルマを解消するために殴る役目を担うことになったとも言えます。でも、その行為によって、彼は、いつか逆に殴られるという体験をしなければいけなくなるわけです。
これでは、やったやられたの繰り返しが永遠に続いてしまうのではないでしょうか?
話を逆に遡って考えてみても、やはりわからなくなります。私が殴られたのは、以前私が誰かを殴った結果だとすると、そもそも、私が殴った相手も、以前に誰かを殴った結果を私から受け取ったことになります。同じようにどんどん遡って考えていくと、「じゃあ、誰が一番最初に殴ったの?」ということになり、訳がわからなくなるのです。
わかりにくい文章ですみません。以前から気になっておりましたが、私には、いくら考えても納得できる結論が出せません。
お忙しいところすみませんが、どうかご回答よろしくお願いいたします。