棟方志功は青森で生まれ育っている。
小学校卒業後、中学には行かず家業の鍛冶屋を手伝うが17歳の時母が病没。
父の鍛冶屋も廃業となった。
絵が好きだった彼は裁判所弁護士控所の給仕の仕事をしながら毎日のように公園で絵を描いた。描き終わると風景に対して合掌していたという。
18歳のとき、友人宅で文芸誌「白樺」の挿絵に使われていたゴッホの「ひまわり」を見る。
彼は談笑しながらも、その「白樺」をじっと握りしめて放さなかったという。
友人宅を帰る時にその友人が彼に声をかけた。
「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」
「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」
と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。
「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」
棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、
「ンだ。ガにける」
棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで
「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」と叫んだ。
(小高根二郎『棟方志功』より)
21歳の時、絵を志して上京する。
「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました」と当時を振り返っている。
上京から12年目の33歳の時、ようやく自分の作品が初めて売れる。
12年もの下積み!
36歳の時、大作『釈迦十大弟子』を下絵なしで一気に仕上げた。「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」
棟方志功は自分の作品を柵(さく)と呼んでいる。
「四国の巡礼の方々が寺々を廻られるとき、首に下げる、寺々へ納める廻札、あの意味なのです。...一柵ずつ、一生の間、生涯の道標をひとツずつ、そこへ置いていく。作品に念願をかけておいていく。柵を打っていく、そういうことで「柵」というのを使っているのです。」
彼は右目は失明し、左も視力がとても弱くなってしまった。
それでも描き続ける。
私は棟方志功の描く女性が大好きだ。
歌人の小林一夫は「志功描く 女の顔はいとあやし 遊女とも見ゆ 菩薩とも見ゆ」と評している。
遊女というのはあんまりだが、セクシーであり、美しく、神聖であるということだろう。
最高じゃないですか!
素晴らしい。
菩薩とは自ら道を求める一方で、衆生(しゅじょう)を導く者だ。
棟方志功は「柵」を作るとき、よく生まれ育った青森の民謡「弥三郎節(やさぶろうぶし)」を歌っていた。
弥三郎節は嫁いびりの歌だ。