最終的には本当の自分を素直に生きるようになる
本当の自分に蓋が出来ない・・・それは「生きる」「生かされる」そのものだと思います。
その通りですね。
人はよく自分の周囲に合わせ、誰かの期待に沿う自分を演じ続けますが、最終的には本当の自分にはフタができないと思っています。いつかは本当の自分に素直に生きるようになる。
それは今生ではないかもしれませんけどね。
周囲に理解が及ばないのが普通
ですが、書かれておられるように、自分自身を生きるを選択をすることは、とてつもない3次元ではアドベンチャーの様で、周囲に理解が及ばない時もありますし、また周りは変わりたくない・現状維持をしたいのですから、弾かれる時も多々ある。
そして思いは反射しますよね。自分が出したものは必ずリターンし戻ってくる。
(本来戦うべき相手は自分だったりするかもです)
その通りです。
周囲に理解が及ばないのが普通です(笑)
また「周りは周りは変わりたくない・現状維持をしたいのですから、弾かれる時も多々ある。」というのもその通りですね。
「いつ」「どう変わるか」はその人の自由意志で決めていい
人は「いつ」「どう変わるか」はその人の自由意志で決めていいのであり、「今は変わりたくない・現状維持をしたい」というその人の意志は当然尊重すべきものなんですよ。
自分も変わるから、「周りも変わるべき」と思うことは間違いです。
「自分は変わりたいように」「周囲は変わりたくない」
それはただ単に「自由意志」をどう行使するかという問題であって、お互いにどうこういう話じゃないんですよ。
「静かに立ち去る」
>そして思いは反射しますよね。自分が出したものは必ずリターンし戻ってくる。
その通りですよ。
それは「相手も変われ!」と思っているからです。
ですから、私は自分が変化したくなったら、そして周囲は変わりたくないなら「静かに立ち去る」とアドバイスしています。
何も反射し、リターンの応酬をしあうことはないんです(笑)
>(本来戦うべき相手は自分だったりするかもです)
その通りです。
まった相手と戦う場面ではないです。
「私は変化しない」というのは当然尊重されるべきその人の自由意志なのですから。
あなたが私と同じ変化を求めるならいつでもどうぞ!
ある人の言葉の中に、「郷に入れば郷に従えなんだけど、従わないなら当然
はじかれる。でもそこで 妬みや恨みをもらわないようにするには、はじき出された郷の人たちを排除しないでおくこと」だと。
まず、「静かに立ち去ること」は排除じゃないんですよ。
「私は変化したくなったから立ち去るけど、あなたが私と同じ変化を求めるならいつでもどうぞ!」
「あなたが現状に留まることも私は尊重するよ」ということです。
しかし「郷」によっては、自分の自由意志を行使するとは何事か!
「郷」のルールに従えないなら制裁してやる!というとこもあるわけです(笑)
結局「個人の自由意志などどうでもいい」というルールを持っているグループがたくさんあるわけです。
そういう時は、あなたが「個人の意思」に目覚めた段階で、制裁を受けますね(笑)
自ら変化するか、外圧によって変化させられるか2つにひとつ
ビジネスでも大先輩が言っておられた中に、どんな事もやろうとする時は、反発に遭うし、大きな圧力がかかることは当たり前だと。でも、その反発する側を決して排除するのではなくて、何かする時には必ず声をかけるとか・・・(来る来ないはその人が決めること)そんなお話をされました。
1対多数で行き場を見失いがちになる時もあります。声はかけられないかもしれない。
声をかけられても行きたくなければいかなくて良い。
でもその人たちのその生き方を尊重することは出来る・・・・ジャッジしない。
人は本当に自由です。染まるも染まらないも自由。良いも悪いも存在しない。
その通りですね。
「変化するか」「変化しないか」「そのタイミングはいつにするか」
それらはすべてその人の自由意志にまかされるべきものです。
変化は必然なんですよ。
太陽系が銀河の周囲を運行し、地球も太陽の周囲を運行し続けている。
常に宇宙は変化しているんですよ。
進化しています。
その中で現状維持をずっと続けることはできないのです。
自ら変化するか、外圧によって変化させられるか2つにひとつです。
しかし、どちらを選ぶのもその人の自由なんですよ。
白黒付けたがるが、見方ひとつで全てはひっくり返る
白黒付けたがりますが、見方ひとつで全てはひっくり返ります。
最近、ゼロ地点(中庸)とは、やじろべいの真ん中で、バランスを取る点という風に見ていたのですが、もしかしたら、曖昧で、慈悲深く、良いも悪いもない、ブラックもホワイトも無い、調和に満ち、絶妙なグレーゾーンなんだと感じるようになりました。
自分で自分の人生は創れるのですから。
それはとてもいい見方ですね。
江戸時代末期に変化し始めて戊辰戦争で討ち死にした人もたくさんいますし、
明治になって変化し始めて、明治維新、大正デモクラシーを謳歌した人もいる。
ちょんまげを切るのが遅かったからといって必ずしも、間違いということは言えないのです。
ただあまりに変化が遅いと他のアジア諸国同様に植民地になっていたかもしれません。
それではあまりに変化が遅かったということになるのかもしれません。
変化は必然ですが、早く変化した時も、遅く変化した時も、その帰結はすべて自分のものだということです。
それは「いい悪い」ではなくて「そういうことである」としか言いようがないですね(笑)
「白黒付けたがるが、見方ひとつで全てはひっくり返る」のです。
実はすべてのことに複数の見方があって、白黒つけたがっている人は「ある限られた狭い範囲の視点で」見ているだけなんですよ。
必ず別の見方があるのです。
こういう視点で見るなら結果的によかったなと(笑)
ですから何かを「絶対こうだ!」と断定している人がいたら、ちょっと引いてみた方がいいですね(笑)