永遠の愛とは、終わりない愛です。
終わりない愛とは「終わり」になる原因を自分の中からなくすことによって誰にでも簡単に手に入ります。
そのために必要なことは、自分の内面を「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間に保ち続ける」ことだけです。
そのためにできることは何でもします。
たとえ周囲の人がどうであろうと、こちらが一方的に何事も「愛と思いやりをもって善意に解釈」します。
日ごろの人間関係は永遠の愛を手に入れるための修行みたいなものです。
あなたもずいぶん日ごろ鍛えられていますね。(笑)
しかし、これは自分が犠牲者になるということではありません。
相手に依存せず、自分の人生は自分で選ぶという強さです。
すべてのケンカや争い、すなわち「終わる」原因は「相手はこうすべき」「相手が悪い」「相手が変わるべき」、「私は正当だ」と考え、相手を変えようとするところから生じています。
ですから永遠の愛は、これらの「終わる」原因、ケンカの元を手放すことで手に入ります。
永遠の愛は相手がどうであれ、こちらが一方的に何事も「愛と思いやりをもって善意に解釈」し、自分の内面を「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」を保ち続けることで誰でも見つけられます。
自分が幸せになる理由を相手に求めることをやめた人です。
これが最大のコツです。
自分の内面を「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」に保ち続けることは、他でもない自分以外には誰にもできないことだからです。
自分を「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」に保ち続けることはその人自身の責任です。
その自分にしかできないことを相手に求めるから、幸せになるのがとても難しくなってしまうのです。
誰かに何かを求めて幸せになろうとしても、永遠の愛は得られません。
相手に求めると必ず「相手はこうすべき」という思いが生じます。
「相手はこうすべき」というのは、相手は自分の価値観にあわせるべきということです。
それは愛ではありません。
エゴです。
それこそが愛の不在なのです。
「相手はこうすべき」「相手が悪い」「相手が変わるべき」、「私は正当だ」というのはすべてエゴです。
「相手はこうすべき」と思った瞬間、私達は愛からすべり落ちたのです。
地球上のすべての花がそのままで美しいように、相手をそのまま受け入れます。
神さまが創造された生命はすべてそのままで美しいからです。
「相手はこうすべき」と思うことは、神様が創造された生命に対し、今の状態は気に入らないぞ!不完全だ。こうなるべきだと言っているのです。
すべての生命は永遠の進化の途上にあります。
ですから、進歩の余地があるのは自分の含めてすべての生命が同じであり、それが普通の状態です。
どんなに進化した生命でも常に向上すべきものがあります。
それが存在のあり方だからです。
その生命として当然のあり方に対して「「相手はこうすべき」「相手が悪い」「相手が変わるべき」、「私は正当だ」と言い出すときりがないのです。
それは絶えざるケンカです。(笑)
すべての生命は未来のどの瞬間でも必ず進歩の余地があるからです。
その神様の創造された生命のあり方に対して、「相手はこうすべき」「相手が悪い」「相手が変わるべき」、「私は正当だ」と思うことがすべてのトラブルの始まりです。
もしその生命が今、生きているなら、神様はそのまま受け入れているのです。
神さまがそのまま受け入れている生命を、自分はそのままでは受け入れられない、というのはものすごいエゴです。
神様の偉大な創造である生命にケチをつけているからです。
ですから、神様の偉大な創造である生命にケチをつけることをやめない限り永遠の愛は手に入らないのです。
ですから相手も神様が創造された生命と「何事も愛と思いやりをもって善意に解釈」し、自分の内面を「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」を保ち続けます。
その優しいまなざし、優しい口元、優しい声、愛と思いやりに満ちた心があなたをどんどん美しくします。
そんなふたりが一緒に食事したりすると、お互いを神様が創造された偉大な生命と考えているふたりの「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」がひとつに重なります。
そこには、「相手はこうすべき」「相手が悪い」「相手が変わるべき」、「私は正当だ」というエゴという名のノイズが一切ありません。
ふたりは「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」にとどまり続けます。
これが愛です。
類は友を呼びます。
相手を神様が創造された生命と考え「愛と思いやりをもって善意に解釈」し、自分の内面を「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間に保ち続ける」人を自分に引きつけるようになります。
そんな人が必ず現れます。
自分がそうなら、相手がそうであることはすぐにわかります。
今度食事に行きませんか?と誘ってみます。
誘われたらうなずいてください。
食事をしながら、そのふたりの「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」が重なりあうことを楽しみます。
そしてその経験がとても楽しいので、今度ドライブしませんか?と誘いたくなります。
誘われたらうなずいてください。
ふたりの「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」がもっと重なりあう喜びを経験します。
もし別れる時がくるとしたら、一方が「相手はこうすべき」「相手が悪い」「相手が変わるべき」、「私は正当だ」と考えた時です。相手を神様が創造された生命と考えなくなった時です。
ぶつかるのはエゴだけです。
ふたりがお互いに「相手はこうあるべき」と思っていなかったらケンカは生じません。
ですから別れる理由もありません。
ずっといい関係が続きます。
すると今度一緒に旅行に行きませんか?と誘ってみます。
誘われたらうなずいてください。
ふたりの「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」がもっともっと重なりあう喜びを経験します。(*^^*)
もし双方が神さまの創造されたすべての生命は美しいと、何事も「愛と思いやりをもって善意に解釈」する人ならば、ふたりの重なった「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」がずっと続きます。
これが永遠の愛です。。
永遠の愛は、どこか遠くにいる白馬に乗った王子様を探すことではありません。
相手を神様が創造された偉大な生命と考え、自分の中に「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」を見つけることです。
そしてその自分にもうひとつの「静かで落ちついた、幸せで優しい愛と思いやりに満ちた空間」がやってきたら、うなずくことによって、ふたつの空間が重なることを受け入れることです。
誰にでも簡単に手に入るのです。
それは必ずやってきます。