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子どもたちとの生活で、必要なものを購入したいのですが、
主人に相談することで、怒られてしまいました💦
主人が、一生懸命、働いてくれていますので、私がポンポンお金を請求してくるのが、本当に気に入らないようです💦
主人の気持ちは、わかります。
なので、お金が、必要なときに、巡ってきてくれて、豊かになれたらなあ…と、今朝は、落ち込んでしまいました💦
主人との、パートナーシップも、何とかならないかなあ、と、いつも思います。
とても、強い人なので、自分の思いは、絶対です。
私が、いつも、楽を求めて生きていこうとしている、と、言っていて、それは、絶対に、間違いだから、と、言われています😅自分の現実は、自分が作り出している、だから、きっと、私の中に、自分を許していない気持ちがあって、投影されてるのかな?
と、思ったりしています。最近は、ずいぶん、話せるように、関係性も変化してきましたが、時々、こんなことがあると、やっぱり、ちょっと落ち込んでしまいます😅
大きなテーマですね。
色んな要素がからまっています。
しかし、これが現実の世界ですよね。
こういう現実の中で私たちは前進していかなくちゃいけない。
私はすべての問題は解決可能という立場です。
しかしまた人は自由意志を持ち、その人の「思考が現実化する」という立場です。
この相対的な世において、絶対を主張するとそれはもう、最終的にはうまくいかない
ですから、たとえば誰かが、「自分の思いは、絶対」と思っている時、もしそのふたりの関係ということであれば、完全な調和がいつか実現するかどうかはわかりません。
なぜなら、ご主人は「自分の思いは、絶対」であり、相手を理解したり歩み寄ろうという気がないからです。
この世に「絶対」は存在しないのです。
アインシュタインの理論を待つまでもなく、この世はすべて「相対」です。
この相対の世の中において、絶対を主張するとそれはもう、最終的にはうまくいかないことは確定です。
いつかご主人がこの世は相対であるという事実を受け入れるか、あなたがそのご主人の「絶対」につきあいきれない日が来るかいずれかです。あとはどこまで妥協するのかという問題ですね。
相手の「普通」は自分の「普通」ではない
主人が、一生懸命、働いてくれていますので、私がポンポンお金を請求してくるのが、本当に気に入らないようです💦
まずはお互いの育ってきた家庭の経済観念の違いがある場合、少々困難があります。
豊かで欲しいものは何でも買ってもらえる家で育ったのと、そうでない人とでは「普通」の感覚が違うからです。
お互いに「普通そうでしょ!」と思っているところが違うのです。
お互いに「普通」と思っていることは、相手にいちいちその理由を説明して理解を求めようとはしません。
「えっ だってこれって普通でしょ」
「普通じゃないよ」
そのギャップを乗り越えるには、お互いに自分が「普通」と思って育ってきたのと、相手の「普通」を違いを理解しようとしないといけません。
それを「自分の思いは、絶対」などと考えてしまうと、相手の「普通」を理解しようとさえしないのです。
そうすると、なかなか摩擦は解消しませんね。
理解しあいたければ相手の「普通」に歩み寄らなければならない
私は学生時代、パンの耳を2年間くらい食べ続けていました。
私が学食で350円のS定食を食べていたら、先輩に「おっ 榎本今日はS定か? リッチやの~」と言われたことがあります。(笑)普段はみな320円のコープ定食を食べることが多かったからです。350円の定食がリッチなんですよ!
部活の食当(食事当番)は一食1人あたり100円の予算でやってましたね。(米は別で)
このデフレ時代、物価の感覚は今とそんなに大きく変わっていないですよ。
学食は今でもそんなところがありますね。
そして、私がまだ実家にいた時、母は「スイカの皮」を煮付けて出してくれたことがありました。
一番外の緑の固い皮は取ってあります。
甘い赤い実を食べて、甘くない白いところが何センチかありますね。
その部分です。
味は完全に瓜です。
醤油と砂糖であまじょっぱく炊くと案外おいしいのです(笑)
戦後の食糧難の時代にはこういうものも食べていたそうです。
たとえば、もしたまにでもこういうものを出していたら、
ご主人も内心、ほんとうに一生懸命創意工夫してくれているんだな。
苦労かけてすまんな。と思うかもしれません。
もしかしたらご主人の求める「普通」とご自分の「普通」が違うのかもしれません。
俺だったらまだまだここまでできる、やってきた、と思っているのかもしれません。
ちょっと世の父親たちの弁護をします
私はここでちょっと世の父親たちの弁護をしたいと思います。
今、昼間ゆっくりランチしたりカフェに入って長話している人はほとんど女性ですよ。
私はそれが悪い事だとは思いません。
みんな楽しく過ごしたらいいと思っています。
しかし私は男の友達が多いので、よく知っていますが、男性は仕事で平日ランチしたりカフェでゆっくりしたり、ほとんどできないのです。休日は家族サービスです。
私がざっと見る限り、男女比は1対9くらいです。
私は父親たちもっと何かを要求するなら、ぜひ世の女性たちが平日カフェやランチで過ごしているのと同等の小遣いと時間的余裕をあげてからにしてもらいたいですね。
もし、家に入れるお金がご主人の方が多いのなら、その比率はご主人の方が多くてもいいと思います。その部分は彼の貢献なんだから。
ほんと世の父親たちはがんばってますよ。
これ以上もっと何かを要求されるのなら、せめて自分と同じくらいがんばっている姿を見たいのです。
ですから、それがわかってもらえるように、上手にアピールしてください。
例えば、たまにスイカの皮の煮つけを出すとか(笑)(ほんと普通においしいですから!)
それもコミュニケーションのひとつです。
でなければ「どうせ昼間っから友達とだべってんだろ」と思われかねないのです。
実際、カフェなどを見ると、その男女比率ですからね。
私は、みんながのんびり楽しく過ごすとこができる社会になればいいと思っています。
カフェで楽しくすごすのは悪いことではありません。
もっと広がるべきです。
しかし、「何かを相手に求めるなら」自分も相手に求める以上の貢献をしていることを相手に実感してもらえなけば、アンバランス、不満が生じてしまいます。
自分がやりたいと思うことを自分で満たす分には何も問題ありません。
どんどん豊かで楽しく過ごせばいいと思います。
しかし、「相手に何かを求める」なら、そうではありません。
お互いに「男なんだから当たり前でしょ」「女なんだから当たり前だろ」とやっちゃうとキリがないのです。
「相手に何かを求める」時、ここまで求めたら「もういい」というのはないのです。
快く応じていたら、その要求は無限に続きます。
だから「相手からの要求」に対して、自分が苦痛に感じるなら、いつかの時点で「NO」という勇気をもたないといけません。
もちろんお互いにです。
そしてその「普通」に感じる感覚、苦痛に感じる感覚は人それぞれ、自分のこれまでの人生経験に応じて違うのです。
自分で創意工夫すればいい
お金が、必要なときに、巡ってきてくれて、豊かになれたらなあ…と、今朝は、落ち込んでしまいました💦
「豊かになれたらなあ」じゃなくて、自分の現実は自分で作るのですよ!
その人の人生はその人の「思考」「言葉」「行動」でつくられます。
ご主人でさえ、人ですから、ご主人の「思考」「言葉」「行動」を他人がコントロールすることはできません。
自分がコントロールできるのは、自分の「思考」「言葉」「行動」だけです。
「ご主人がこうあってくれたら」という期待をすべて落とすのです。
なぜなら期待が不満の源だからです。
例えば「ご自分が家事が忙しく、自分にはお金を稼ぐのは無理!」と思っていたら無理です。
自分でそう考えていますからね。
主婦でも自宅などで、楽しく生き生きとお金を稼いでいる人はいるはずだと、そういう事例を探し求めていけばそういう事例を見つけます。
なぜなら自分がそう考えているからです。
世の中というのはそうなっているのです。
主人との、パートナーシップも、何とかならないかなあ、と、いつも思います。
パートナーシップですね。
私の考えはこうです。
最終的には、お互いがお互いに対する要求や期待をすべて落とし、
お互いに自分は家族に貢献することを「喜び」とする。
家族に貢献することは自主的な「喜び」です。
誰かに要求されたわけでも、強制されたわけでもありません。
ただ自分が家族に貢献したいから、そのこと自体に「自分が喜びを感じるから」貢献するのです。
そしてお互いの貢献に、対してお互いが依存するのではなく。
相手が「自分より貢献してくれているな」と感じてもらえるくらいにお互いに返そうとします。
その関係から、自分は決して「有利な立場」を引き出そうとしないということです。
お互いに「男だから」「女だから」〇〇は当たり前でしょと決して考えない。
そしてお互いがいつも、「相手がこんなにしてもらってありがたいな」と思ってくれるくらいに自分が「持ち出し」ます。
自分はその関係から「一切得をしようと思いません。」
むしろ一方的に「持ち出し」ます。
自ら損します。
それが貢献するということですよね。
そして、お互いにその相手の貢献に絶対につけこまないのです。
つまり相手の貢献を当たり前と受け取りません。
そうすると相手のしてくれたことはすべて感謝になります。
お互いがそういう関係を目指して、協力しあうとき、初めていいパートナーシップをつくることができます。
これは一方でも「自分が得しよう」とか、この関係から自分が「有利な立場を引き出そう」とか、「自分がこうしてもらうのは当たり前」「こうするのは相手の義務」「これをしてもらうのは自分の権利」などと考えると成立しないのです。
こういう関係は「無条件の愛」と言われるものです。
私が見るところお互いが「無条件の愛」を目指さない限り、究極的にはどこかで、不平不満、我慢、妥協が出てきます。
あとは、今生のパートナーとどこまで妥協するかという条件闘争の問題ですね(笑)
力関係、上下関係、どれだけ腕っぷし、負けん気、口が立つかという問題です(笑)
私が、いつも、楽を求めて生きていこうとしている、と、言っていて、それは、絶対に、間違いだから、と、言われています😅
私の本当の考えをいえば、地球上の全員が楽をして喜びにあふれていきるべきだと思っています。
楽で喜びあふれる生活を目指すべきです。
誰かを犠牲にすることなしに。
もし、人類から借金の利息、
(例えば、日本は税収50兆円のところ40兆円くらいを利払いに払っているわけです。あまりに借金が多くて残りは10兆しかない。それでお金が足りないと言っていっそう借金を増やしたり消費税をあげるとか言っている)
争い、戦争とそのための準備、いわゆる軍備費、
みんなが仲良くすればこんなお金はまったくいらないのです。
しかし、たいていの国で軍備費は最も大きな支出です。
まぁ他にも本来いらない支出がいっぱいある。
地球上には本来、人が何もしなくても、毎年毎年自然の働きで果物などがなってくるのです。
楽して喜びあふれて暮らせるだけの十分なものがあります。
ただ、私たちがお互いに仲良くできないために、本当に多くの不要なことに多くのお金を使っている。
小鳥も虫も、自分の食べ物のことなど何の心配もしていません。
十分にあふれかえるほど自然がつくります。
それが自然の仕組みというものです。
もちろん人間も自然の一部ですから、本来はそうなのです。
ですから、全員が楽して喜びにあふれて生きることを目指すべきです。
誰も犠牲にすることなしに。
ご主人が、「楽を求めて生きていこうとすることは、絶対に、間違い」と思われているなら、ご主人は自分の人生においてそういう現実を創造し続けます。
思考は現実化しますからね。ご主人がそう思われているのなら、それはそうならざるを得ない。
ご主人は「自分の思いは、絶対」ですから、絶対にそのような人生になります。
それは避けられません。
(しかし、なんとか人を楽にする方法はないかと考える人が、蛇口から水が出たり、洗濯機などがある生活を生み出すのですよ。)
あとは、ご主人のその人生観に合わせて生きるか、自分は自分の違う価値観を現実化しようとするのか、という選択ですね。
一緒に住んでる限りご主人は「それは絶対に間違っているから」と言い続けるでしょう。
なにしろ「自分の思いは、絶対」ですから。
しかし、そういう「固め」のご主人はいい面もあります。
飲む、打つ、買う、でヒモみたいに女に貢がせるのがいいと思っている男もいるのです。
どちらかなら、「固め」の方がいいのではないでしょうかね。
何か解決したければ自分でする
何か解決したいことがあれば自分で解決すればいいのです。
なぜなら「相手がそうすべき」というのは決してうまくいかないし、キリがないのです。どんなに正当だと思える理由があってもです。お互いにですよ。
そして、常に人生で何か改善したいことがあります。それは宇宙の進化の源ですから決してなくなりません。それは自分で解決すればいいのです。
すべての人に、妥協したり、相手に合わせたり、貢献したり、離婚まですべての選択肢があります。
日本では3組に1組が離婚するのですから、何も珍しいことではありません。
もしご主人にどうしても耐えられないなら、離婚してご主人がやって来てくれたことを自分でやればいいのです。
少なくともそれを検討するのはいいことです。
そうすると、ご主人がどれだけ貢献しているかを冷静に評価します。
もし、ご主人の貢献がまったく割に合わないものだと思うなら離婚すればいいのです。
ちょっとそれは無理だと思うなら今まで見えていなかったご主人の貢献が見えてきたわけですから、それはそれでとてもいいことですよ。
自分の現実は、自分が作り出している、だから、
自分の豊かな現実を自分で作ろうと自分の思考と、言葉、行動に注力することをお勧めします。
人に期待し、要求するという発想をする限り、不平不満が尽きることはないからです。
お互いに自分が自分の望む現実を創造し、「自分が相手に貢献しよう」と思うことですね。
いちいち誰かに何かを求めたり、要求したり、期待する暇があるのなら、さっさと自分で自分自身の現実の改善に着手することです。
私はそれが本質的な解決への道であり、最短距離だと思っています。
そして、もしあなたがご自分の方法で、経済的にも家族に貢献することを実現したなら、ご主人はあなたのことをどんなあげまんだろうかと感謝するでしょう。
それを当たり前だと思うような人とは離婚すればいいのです。
まぁ実際にすぐに離婚しなくても、いざとなったら離婚できる自分になっておくことはいいことです。
ひとつ選択肢が広がったのですからね。
そして人生の選択肢を広げるのもまた自分なのです。
それを実行するかどうかに関わらず。
少なくとも「そうしようと思えば自分はいつでもそうできる」という余裕が、色々と柔軟な発想を生み出します。
子供がもし、私には能力がないから親は一生私の面倒を見るべきだと考えたら、健全ではないですよね。
「自分は○○できない」「自分には能力がない」という前提に立ち、だから、あなたは私の面倒をみる義務がある。私はあなたに要求する権利があると考えると、そういう関係は長期的にいいものにならないのです。
人は思考が現実化する存在であり、無限の可能性を持つ存在です。
自分にも無限の可能性があることを認め、その自分の可能性を追求することです。
ぜひ、豊かで自由で優雅で喜びあふれる新しい女性の生き方を、「自分の手で」発明してください。
先生❗
丁寧な解説、ありがとうございます(*^^*)✨私の悩みを取り上げてくださり、自分でも自覚がなかった点を細分化してくださり、記事にしてくださり、感謝です✨ゆっくり何度も読み返したいと思います😊
でも、少しだけ…
私の、豊かになれたらなあ、は、相手に対する依存や、要求だったんですね😅
確かに、私には、自分で自分を豊かにする、なんて、できっこない、と、いうのが、根底にある❗❗❗と、気づきました。
思考は現実化する、ですね💦
それから、主人への期待をいっさい手放す、
これも、まだまだでしたね😅また、よく読んで、いろんな気付きをLINEさせてもらいますね🎵
>確かに、私には、自分で自分を豊かにする、なんて、できっこない、と、いうのが、根底にある❗❗❗と、気づきました。
それは素晴らしい気づきですね!
自分で自分を豊かにするなんて、できっこない、というのが根底にあれば、絶対にその人は豊かになりません。
なぜなら、それが自分自身に対する確信だからです。
思考は現実化します。
もちろん本音の部分がです。
多くの人が「自分の根底にある、どんな思考が自分を制限しているのか」ということに無自覚です。
そして、自分を制限する自分の思考が自分の現実を作っているにもかかわらず、それに気づかず、誰かに要求することで解決しようとします。
しかし、それが生じているのは「自分の根底にある思考」が原因なのであって、相手のせいではないのです。
だから誰かに要求しても「解決不可能」なのです。
人間関係の摩擦の原因は、突き詰めればすべてこれです。
自分の根底にある思考によって生じていることを解決できるのは自分だけなのです。