夫が娘に自分の正しさを押し付けて娘が反抗し、板ばさみになっています

夫はすべてではないにせよ、自分の正しさを相手にも求めます。
私は一緒の生活でお互い気持ちよくありたいから、無理のない範囲で、かつもっともだと思うことは賛同し沿ってきた。
でも、私は私と思っていて、その時点まで良かったんです。

この世には「絶対的な正しさ」という尺度はない

まず、この世には「絶対的な正しさ」という尺度はないんですよ。

もしあるなら、それはお互いがお互いを尊重し、それぞれが自分のやり方で自分の喜びを追及することを尊重しあうことだけです。

つまり「この世は相対論」なのです。

それはアインシュタインが証明した通りです。

この世には「絶対的な正しさ」があるというのは、それ以前の中世の世界観です。

ですから正しさとは、誰かが「その人の正しさを押し付けようとしたら」「NO」ということです(笑)

それが相対的な世界における正しさです。

自分は自分ということです。

私はアドバイスが悪いと言っているのではありません。

経験豊かな親のアドバイスは役立つことが多いです。

しかし最終的には「お父さんはこう思うよ、あなたはどう思う?」と子供に最終決定権限を与えないといけません。

なぜなら、「その子にとって」何が正しいかは、最終的には本人しかわからないからです。

それは兄弟で、好みや適性がまったく違うことからわかります。

上の子と同じように育てようと思っても、下の子は必ず違ってくるのです。

手洗いさえも正しくないことがある

例えば、家庭で「家に帰ったら、手洗いしなさい」みたいなルールはよくあると思います。

しかし、最近では過剰な手洗いがアレルギーを起こしていることがわかってきました。ある程度有益な細菌を体に入れることがアレルギーを予防するのです。

ですから「家に帰ったら、手洗いしなさい」というのも絶対に正しいとは言えないのです。

もし子供に手洗いをやかましく言わなかったら、子供がアトピーなどのアレルギーで苦しむことはなかったかもしれないのです。

もちろん、不衛生すぎる場所では手洗いなどは重要でしょう。しかし、あまりに清潔すぎるところでは、細菌に触れることがアレルギーを予防するのです。

すべては「相対的」であり、絶対にこうだ!とは言えないのです。

それにもうひとつ、

子供は親より進化している

すべての生命というのは親より子孫の方が進化しているのです。

親よりも子供の方が優秀なんですよ。

ですから親は自分よりも優秀な子供の能力の芽を摘まないように細心の注意を払わないといけません。

子供は自分よりも優秀なのだから、つまらんことは言って制限しないように気をつけたらいいのです。

そして、「お父さんはこう思うよ、あなたはどう思う?」とできるだけ子供の自主性を尊重して、役立つアドバイスをしようとすると、子供は「これってどう思う?」と必要な時にはアドバイスを求めるようになります。

なぜなら、親に相談しても自分の自主性は100%尊重されるし、役立つことも多いからです。

親に相談して面倒なこと、うるさく言われること、要するにデメリットは何もないからです。

子供はそのことをよく知っていますから「お父さんこれってどう思う?」と肝心なことは聞いてきます。

なるほど!と採用されることもあるし、「私はこれでやってみる」でもOKなんですよ。

ならそうしてごらんとしか言わないのだから。

ママはどっちの味方なのと言われているかのような気がして。

でも、夫が娘に叱ることにたいし娘自身が反発するようになり、夫の間と娘の間を右往左往するかのようになりだしてから、歯車が狂うかのように。
娘に、ママはどっちの味方なのと言われているかのような気がして。
結論は、どちらの味方ではなくみんながそれぞれ良ければ(心地よい、幸せ)であればいいなと。

どちらの味方ではなくみんながそれぞれ良ければ(心地よい、幸せ)であればいいなと。

私も基本はそうです。

しかし、誰かが相手の「みんながそれぞれ良ければ(心地よい、幸せ)であればいい」を尊重しない場合、私はそれを尊重しない人の味方をしませんね。

私は誰であれ自分の考えを相手を尊重することなく押し付けようとする人の味方をしません。

私は「みんなちがってみんないい」の味方です。

「誰かが何かを押し付ければ」必ず反発が生まれます。

そして、ご主人と娘さんに限らず、「誰かが何かを押し付ければ」必ず反発が生まれます。

それはどのような人間関係でも生じます。

それは必然なんですよ。

もしご自分が娘さんに、何かを押し付けているのでなければ、それはご主人と娘さんの問題なのです。

機会があれば、「誰かが何かを押し付ければ、必ず反発が生まれる。」という真理をご主人にアドバイスすればいいです。

しかし、それさえも押し付けることはできませんから、ご主人がそれを採用しないののなら、ご主人はご主人の人生において、娘さんの反発、娘さんとの断絶を経験することになるでしょう。

それは必然なんですよ。

それはご主人の学びでもあります。

「誰かが何かを押し付ければ、必ず反発が生まれる。」という真理に気づいて、押し付けをやめるか、それを続けて、その結果を自分の人生で経験し続けるかです。

それもまたご主人の選択なのです。

自分以外のことで悩む必要はない

きっと一人だったらこんなことで悩むこともなかったろうな。 

何も悩むことはないですよ!

ご主人はご主人の自分の選択における人生の結果を学んでいるんだなと見守ればいいのです。

誰かが何らかの考えを採用し、それを実行してみることを止めることはできないのですから。

ただ、それが自分に向けられたことで嫌なら「NO」と言えばいいだけです。

そして娘さんもまた「NO」と言っている。

それは当たり前のことです。

ともかく、家族がそれぞれ心地よければいい。
そして、心地よさを選ぶか選ばないかその選択も本人しだいなのに、やっぱりどこかで、こうしたらいいのにとか思う自分がいる。

それは私も思いますよ。

「どうして、子供に自分の考えを押し付けるんだろう?」と。

こうしたらいいのに、と。

でも、機会あるごとにそれを言っても、そうすることを選ぶ人には、ならその結果によってご本人が学ぶことを尊重するしかないのです。

ご主人は今その真っ最中です。

夫が子どもを厳しくしかったり、怒らないといいのに。
行動は優しいんだから、言葉も穏やかに話すとか、優しい一言があるといいのにな。

その通りですね。

親の言うことは聞かないが「することは真似る」

娘が片付けきちんとすれば、夫に怒られないのに。
娘は何でやること先にやらないんだろう。
娘はなぜ文句ばかり言うんだろう…。

まずですね。

これは塾の関係者によく知られていることなのですが、

子供がよく勉強する家庭では、「勉強しなさい」「宿題しなさい」というような言葉は言われないのです。

子供の頃から読み聞かせをしたり、一緒に勉強したりして、ごく自然にそれが当たり前にしていきます。

それはちょうど歯磨きみたいなものです。

同じように片付けして欲しければ「言うのではなくて」、

充分な片付けスペースを用意して、子供の頃から楽しく一緒に片付けることなんですね。

そうするとそれが当たり前になります。

「誰かが何かを押し付ければ、必ず反発が生まれる。」のです。

「勉強しなさい」「宿題しなさい」「片付けなさい」と言われると、嫌になってやる気がなくなるんですよ。

それは誰でも同じです。

子供は、親の言うことは聞きませんが「することは真似る」ので、小さい頃から、そうなって欲しいことを親がすればいいんですね。

勉強して欲しければ、子供の前で親も本を読んだりして勉強することです。

親の「することは真似る」とは、親の本音を真似るということです。

もし親が本を読まずにテレビを見るなら、子供も「ああ本当は勉強はせずにテレビを見るべきだなんだな。それがいい人生なんだな。実際、親は毎日そうしているから」と伝わるのです。

娘さんが自分自身で幸せになる力があることを確信し見守る

娘に関して思うことはあるにせよ、本人には言わないようにしています。
娘に自ら進んで片付けたり、勉強をするような環境を必ずしも作れなかったのは私達のせいですから。

今、娘は何でもやりっ放し、宿題ややるべきこともままならない。
本人に聞くと「疲れた」「やる気でない」「ほっておいて」です。

ほっておけばいいんですよ!

初めからほっておけばいいんです。

ほっておくというのはちょっと語弊があるかもしれませんが、娘さんが自分自身で幸せになる力があることを確信し見守る、という姿勢です。

子供に必要なことは親に反発することじゃないんですよ。

そんなことに時間とエネルギーを無駄にしてはいけません。

子供に必要なことは、自分自身と今の社会の現実に自分で向き合うこと

子供に必要なことは、「自分自身と今の社会の現実に自分で向き合うこと」です。

親に対する反発から意識を自分自身に向け、

自分は何が好きかな?自分は何が得意かな?自分はどんなことに喜びを感じるかな?

そして今の社会は、こうなんだな、なら私はこの社会でこんなことをして自分の得意なことを生かして楽しみながら生きて行こう!

こういうことを子供に探求させなければいけません。

そこに親への反発など百害あって一利なしです。

子供にそうさせるのはとても簡単です。

何も干渉せずに、時々、どんなことが好き?あなたはこんなことが得意ねとか、ならこんな仕事が向いているかもね。とかそういう会話をすればいいのです。

自分自身と社会の現実に向き合うことを促す会話をすればいいのです。

親との対立などまったく時間とエネルギーの無駄です。

間に挟まれることはない

さしあたって、娘に対してどういう対応をするかです。
私自身、たぶん間に挟まれて苦しくなってしまっています。
すべての自信を失うほどに

娘さんには、(誰に対してでもですが)

自分自身と自分を取り巻く現実の社会に向き合うように促せばいいのです。

間に挟まれることはありません。

最終的に、ご主人はご主人で自分の思考と行動による結果を「ご主人が」受け取ります。

最終的に、娘さんは娘さんで自分の思考と行動による結果を「娘さんが」受け取ります。

それはすべての人に当てはまる人生の大原則です。

ですから、ご主人の思考と行動の責任はご主人に、娘さんの思考と行動の責任は娘さんに、返すことです。

そこにお母さんである、あなたが入り込む余地はないんですよ。

人には自由意志があり、最終的にその人の人生に対する決定権はその人にありますから、親であれどうにもならないのです。

できることは、ご主人によりよい思考と行動をするように、参考になること、

娘さんに、よりよい思考と行動をするように、参考になることです。

この社会で生き生きと喜びに満ちて生きている実際の姿を見せる

そのために一番いいことは、ご自分はご自分に向き合い、社会の現実と向き合い、その中で自分の好きなことを得意なこと、喜びを感じることで、この社会で生き生きと喜びに満ちて生きている「実際の姿を見せること」です。

人は人の「言うことは聞きません」が、近くにいる人の行動には影響を受けるからです。

「朱に交われば赤くなる」のです。

ですから、ご自分が「いい朱」になることです。

気力がわかないのは自分の喜びに向き合っていないから

あとは、自分の気力がわかない状態をどうにかしなければと思います。

それは自分自身の喜びに向き合っていないからなんですよ。

人はそれぞれ、自分の思考と行動によって自分の人生を作っていきますから、その人ご本人しか、その人の人生の責任はとれないのです。

ですから、娘さんにもご主人にも「私はこう思うよ。よかったらあなたもそうしてみたら?」と提案し、さっさとご自分もそれを実践することです。

本来、責任がとれない仕組みになっている他者の人生にあれこれに責任を感じることが問題なのです。

それは人間の仕組み上、不可能なのです。

それよりもさっさと、ご主人の人生の責任はご主人に、娘さんの人生の責任は娘さんに返すことです。

そうするとご自分は、「本来不可能な」自分以外の人の人生について責任を感じるという矛盾したことにエネルギーを浪費することがなくなります。

本来不可能なことにエネルギーを浪費しているから、どうにもならず、「気力がわかない」のです。

そんなことより、「本来可能な」、もともとそのように設計されている、自分自身の人生について責任をとり、

「自分は何が好きかな?自分は何が得意かな?自分はどんなことに喜びを感じるかな?

そして今の社会は、こうなんだな、なら私はこの社会でこんなことをして自分の得意なことを生かして楽しみながら生きて行こう!」ということを実践してみせることです。

その生き様が、ご主人、特に娘さんにいい影響を与えます。

親は先に死ぬ

子供の人生の責任は子供自身にあるということは、子供はすぐに直観的に理解します。

なぜなら「親は先に死ぬ」からです。

ですから、仕組み上、親は決して最後まで子供の人生の責任をとることはできないのです。

それは初めから決まっていることですから、その決まっていることに沿って生きていくしかないのです。

「親は先に死ぬからね」とさらっと言えば、子供はたちどころに理解します。

その通りだ!と。

子供がどのような人生を生きるか決して親にはわからない

それに子供がどのような人生を生きるか決して親にはわからないのです。

例えば、戦前を生きたおじいちゃんおばあちゃんには、戦後子供がどのような人生を歩むかまったく想像さえできていませんでした。

だから、子供に向かって「村のしきたりに従え!」とやっていたのでは通用しないのです。

自分自身はそれでよかったかもしれませんが、子供はそれでは通用しない。

そして、ネットのなかった高度経済成長期を生きた大人が、「こうしろ!」といっても、スマホやインターネットが普通になった世代の人生には通用しない。

親は結局子供が実際にどのような人生を歩むことになるか、想像さえできていないのです。

子供自身が、それぞれ自分自身に向き合い、自分を取り巻く社会の現実に向き合って生きていくしかないのです。

ですから、子供には何も押し付けず、初めから「そうしなさい」と言ってあげればいいのです。

どうせそれしか方法はないのですから。

自分自身が本来不可能などうにもならないことから解放されて、本来可能な自分の人生に取り組み、自分の喜びに取り組むとき、自ずと気力が湧いてきます。

その喜びは実現可能だからです。

そして、自らの人生に喜びをもたらすことが気力の源泉なのです。

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