「私はあなたを信じてる」と言うのは、不信があるから。

神様への信心は必要か?

ご質問をいただきました。

婚姻届とか結婚指輪とか、「私はあなたを愛している」と言ったりする必要性とか。

そういうのはその背後には不信があるからなんです(笑)

役所に届けたり、いつも指輪をはめていたり、常に言葉を聞いておかないと不安になるんですね。

本当の揺るぎない信頼がそこにはないからです(笑)

だからいちいち外部のことで示さないといけない(笑)

本当の信頼というのはいちいち表明したり、役所に届けたりしなくてもいいものです。(笑)

役所に届けようが届けまいが関係ありません。

それは常にそこにあるんです。

本当に仲のいい恋人同士はあまりしゃべらない

それは例えば、二人で静かに夕日を見つめているようなものです。

その瞬間ふたりは、実感してるんですよ。

何か言葉を発する必要などまったくありません。

本当に仲のいい恋人同士というのはあまりしゃべらないものです。

ただ単に手をつないでいつまでも歩いていたりするものです。

いつもぺらぺらしゃべっている恋人同士というのは「まだまだ」なんですよ。(笑)

何かしゃべってないと気まずくなるというのは「まだまだ」です。

信頼というのは、いちいち考えたり言葉にしたりするものではありません。

それは何年振りかに実家に帰って「ただいま~ 今日は暑かったね~」と言って、勝手に冷蔵庫を開けて麦茶をついで「あ゛~」と飲むようなものです(笑)

それはもうずっとそこにあるのですから、お互いにそれについていちいち考えたり、とりたててて表明したりすることなど考えもしない。

愛とか、信頼とか、そういうものはすべてそうです。

それは考えたり、表明したり議論するものじゃなくて、ただ単に「生きる」ものです。

上下も何もない

神は万物を創造したと言われます。

もしそうなら、すべては神からできています。

だって「神以外の原料」は何もなかったのですから(笑)

すべてが神なら、上も下も他人も自分もありません。

みんな一体です。

すべては神であり、神の部分ですからね。

そのことが、「人にしたことはすべて自分に戻ってくる」というよく知られた経験則を生み出しています。

「情けは人のためならず」(本当は自分のため)

「人を呪わば穴二つ」(相手も自分も穴に落ちる)

などですね。

もしイエスが言うように「神は愛」ならば、神も愛し合う恋人たちのように、いちいち考えたり、表明したり、議論するものじゃありません。

それでは、何かしゃべってないと気まずくなる恋人同士みたいなものです(笑)

そこに信頼はないことくらい神さまは先刻お見通しですよ(笑)

それは、いちいち議論したりするものじゃなくて、ただシンプルに「生きる」ものです。

それは黙って夕日を見ている恋人同士のようなものですね。

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