> 質問なのですが、愛ある行動とは やさしさもあり きびしさも あるのでしょうか。
>
> 愛とはと聞かれたら 答えられない です。しっかり わかりたいです。
>
> 教えいただきたいです。
「愛とは」とは何かというとても大きなテーマのご質問をいただきました。
愛とは何でしょうね(笑)
愛とは「関心」です。
パン作りに関心がある人は、パン作りを愛しています。
車に関心がある人は、車を愛しています。
お金に関心がある人は、お金を愛しています。
子供に関心がある人は、子供を愛しています。
その人は自分が関心がある、ありとあらゆるものを愛しています。
その人の人生は、その人の「関心」によって作られています。
ですから、何に関心を持つか、何を愛するかによって、自分の人生を日々毎瞬毎瞬選んでいます。
何に関心を持つか、何を愛するかは、人生そのものです。
さて、人に対する愛ですね。
人に対しても同様で、その人が関心をもつ人をその人は愛していると言えます。
ですから、ケンカするのは仲がいい証拠と言いますが、とても愛し合っているふたりが時に激しくケンカをしたり、
嫉妬しあったりすることがあります。
それは、私たちが一般的に愛と呼んでいる仲がいい状態が、逆に出たもので、それでもお互いがお互いに「大きな関心」を持っていることには違いありません。
ですから、相手への関心がプラスに出ればいわゆる愛であり、マイナスにでればケンカであり、嫉妬です。
でもそこには関心があります。
ですから、ケンカも嫉妬もマイナスに出た愛といえます。
愛のない状態とは、無関心です。
相手に関心があれば、それがどんなものであれ、自分なりの方法で相手を愛しているといえます。
ですから、「ケンカするのは仲がいい証拠」というのは正しいのです。
さて、一般の社会で私たちが経験するもっとも高い愛は、親が子供に示す愛です。
おっぱいをあげ、
おしめをかえ、
はいはい、
歩き、
言葉を覚え、
毎日食事を与え、
教育を与え、
そして、独り立ちしたら、ただ喜んで手放します。
その幾年にも渡る親が子に与える無償の献身は、私たちが一般的に地球で経験する最も高い愛です。
ですから、誰か人に対する自分の行動を、これは「愛ある行動」だろうか思う時、
この親の子に対するに近いとき、それはとても高い愛であると言えます。
最終的は自分がしてもらうたいように、相手にするのが本当の愛です。
誰もが自立し、自分の人生を自由に生き生きと幸せに生きたいと思っています。
最終的に相手が完全に自立し、完全な自由を得るために、自分のできる限りのものを捧げるのが最も高い愛です。
自分が育ち、そして自分も子育ての経験がある人は、誰でもそれが時に優しく、時に依存を断ち切り自立させるために厳しいことをことを知っています。
学校で、仕事で、さまざまな習い事で、このような先生を持ったら、いい先生をもったと言えるでしょう。
ですから、自分もこのような愛を示せば、地球で最も高い愛していると言えます。
私たちが一般的に愛と呼ぶ、男女関係については、お互いが成長し高めあうために、双方が相手に貢献する形であれば、
非常に安定し、長い間にわたって良好な恋愛関係が継続します。
しかし、相手が一方に何かを期待し、何かを求める関係になると、それはある種の取引になります。
例えば、一方が体を求めたのにそれに応じないと腹を立てるとか、
一方が給料を家に入れることを求めているのに、相手が自分が思うほど給料を入れてくれないと腹をたてるとか
・・・
ですから、それは取引として、私はこれだけ家事をするけど、これだけ給料を入れてくれないかしら、という「取引条件」の話し合いを
双方が納得し、合意するまでじっくり本音で話し合った方がいいのです。
ここで、「普通は○○でしょ!」と相手は自分と育った家庭環境が違うのに、自分の中にある「暗黙の了解」を相手の「暗黙の了解」でもあると勘違いすると、しょっちゅうケンカが起こることになります。
ですから、結婚に際しては、育った家庭環境が同じような場合には、うまくいきやすく、経済状態などに極端な差があると、お互いの生まれ育った「暗黙の了解」がかなり違うため、双方の「普通は○○でしょ!」がことごとく違ってきます。
そうすると「取引条件」を調整できる優れたコミュニケーション能力がないと、そういう関係は破綻をきたしやすいのです。
その場合、恋人や夫婦間の「いわゆる愛」を保つのはお互いの「普通は○○でしょ!」という「自分の暗黙の了解」をいかに「二人の暗黙の了解」にすることができるかという双方の優れたコミュニケーション能力が、「いわゆる愛」を保つ能力であるといえます。
しかし、その場合の本質は、コミュニケーション能力であると言えます。
その際、相手の主張に耳を傾け、思いやりを持って優しく接するのは愛といえるでしょう。
ただ、その合意は本当に双方が心から納得できるものでなければいけません。
「女だから・・・」
「嫁だから・・・」
「男だから・・・」と相手に求めたことに、相手が心から納得していないと、ひずみが生じていくことになります。
そのアンバランスを放置し、要求することが当たり前になり、我慢することが当たり前になると、
依存し、要求している方が、我慢し与えている方に、キレたり、怒鳴ったりすることになります。
その我慢し与えていることを「愛」と勘違いをすると、そのストレスはどんどん大きくなり、やがて病気になります。
それは愛ではなく、取引条件のコミュニケーションがうまくできず、不利な取引条件を受け入れざるを得なかったということです。
それは愛ではなく、ただ単に力が弱くて自分の交渉力が弱く、取引条件が悪くなっただけです。
自分の中で相手に依存している面があると、不利な取引条件を飲まざるを得なくなります。
ですから、双方が経済的にも生活面でも完全に自立し、別に相手がいなくても生活していけるふたりが恋愛をする時、それは豊かなものになります。
なぜなら、お互いに相手がいなくても生活できるのに、一緒に過ごすということは、相手から何か有利な条件を引き出すためでなく、
ただ単に相手を愛する喜びだけが理由だからです。
それは生活の必要性や依存ではなく、愛だけが動機であるといえます。
しかし、その愛にもいつかの状態があります。
例えば、「見える部分」を愛するふたりであれば、
相手が、若く美しい間は相手を愛しますが、年を取り、美しくなくなれば関心(愛)を失います。
「見えない部分」内面の思いや言葉を越えた魂のレベルで結びつくと、たとえ外見の魅力が衰えても、
年をとって若くなくなっても、ふたりの関係は長期的にいい関係を保ちます。
ですから、男女の関係においては、お互いに自立し、大人として成熟し、何も相手に依存していないけれど、
魂で愛し合う男女が、もっとも豊かな「愛」の状態を長く保つふたりです。
ですから、男女間において「やさしさもあり きびしさもある」のは、双方がこの状態を目指し、相手もこの状態を目指すふたりでしょう。
それは時に相手がこちらに依存しようとするのを「NO」という厳しさが時に必要なこともあるからです。
お互いが完全に自立し、双方にまったく依存していない時、そこに「取引」は存在しません。
相手に何も求める必要がないからです。
ただ、自分が愛ゆえに相手に与えたいだけです。
受け取ってもらえてうれしいだけです。
お互いがその状態に達したとき、
お互いが愛するがゆえに与え、
喜びに満ちて受け取るとき、
その連鎖が限りなく続くとき、
真に豊かな恋愛が継続していくことになります。
遠隔浄化に際しても、やはり相手が自分自身で自分をいい状態に保てるように、より自由な方向で、最終的には完全に相手が自由になる方向でお手伝いをするとき、真に高い愛に従っているといえます。