【この世はすべて幻想か】お釈迦様のマーヤ(幻想)について

 ご質問をいただきました。

ちょっとお訊きしたい事があるのですが・・・。

悟りを開いたと言う方々の中には、自分も含めてこの世の全ては幻で、

静けさに退屈して楽しもうとこの世を作り、謂わば映画を観ている様にバーチャルな世界を作ってそれを観ているだけだと言う思想があるのをご存知かと思いますが、どう思われますでしょうか。

ふむ。

知っていますよ。

インコを飼っている友達が、上手くその思考になりきれないけれどその思想が正しいと思うと言っていて、インコも、私も、彼女の産物だ、と。

・・・

全ては幻だと言う思想はどうなのでしょうか、あるいは、どう考えたら良いのでしょうか。
真実な様な気もしますが、それに沿って考えていると、混乱します。

彼女の信じるところは彼女の思想として幸せならそれで良いのだとは思いますが、自分の混乱をどう収めて良いのか分かりませんー(^^;;

お釈迦さまは、それをマーヤと言われましたね

お釈迦さまは、それをマーヤと言われましたね。

この世の中は幻想であり、神(魂)の世界から人は遊びに来ているという考え方です。

それはある意味本質なんですよ。

肉体やモノだけが現実だと虚しい

もし「この世」だけが現実だとしたら、肉体がすべてだとしたら、

死んだら何もなくなってしまいます。

何のために生きているのか、いつか死ぬためだけに生きているのか、

この一瞬一瞬は一体何なのか。

悩み苦しみ、あるいは楽しみ、食べて排泄するだけで、死ねばすべてが消えるなら人生にどんな意味があるのか。

もしこの世「だけ」が現実だったら、とにかく刹那的に今だけよければあとは野となれ山となれが最も合理的な思考になってしまいます。

なんと殺伐とした世の中になることでしょう。

それってとっても虚しいですよね。

死んだらもっていけないものを自己同一視するととても不幸

私はある意味でこの世は幻想だと思っています。

人の魂が本質であり、死んで今の肉体がなくなっても、究極的には失うものは何もないと思っています。

ただ、なくなるとしたら本質的には自分ではなかったものだけです。

例えば、身体、たとえば財産、車や、家、・・・・

そういうものは死んだら持っていけませんよね。

ですから、それは本質的には自分自身ではありません。

ですから、それらに執着することはありません。

そういう本質的に自分自身ではないものに執着すると、幸せにはなれません。

例えば自分自身の身体にあまりにも自己同一化して執着します。

そうすると、18歳の時よりは今は、若くない。

もし、自分自身は身体であり、若さや美しさを失ったら不幸だと考えている人がいたら、
一定以上の年齢になったら、もう自分の身体の現実を受け入れることができなくなります。

これって大変不幸です。

そうすると人ある一定の年齢例えば18歳以降の人は全員不幸になってしまいます。

そういう意味で、身体と自分を自己同一視せず、自分は永遠の魂と思っていることは、心安らぐことです。

ある意味で、年齢を重ねることに安らぐためにはその認識に到達するしかありません。

それは「この世はある意味で現実ではない」という思考ですよね。

人の幸せのためにお金があるのではなく、お金のために生きている人生は虚しい

あるいはお金や財産、車や何かのものにあまりに執着するあまりに、それを獲得、維持するために、あらゆる人間関係を犠牲にしてもかまわないと思っている人もいます。

ものにお金やモノの優先順位が最優先になるあまりに、例えば人間のための車か、車のための人間か、家のために働いているのか、人のために家があるのか、

人間のためにお金があるのか、お金を稼ぐために人間がいるのか・・・・。

そういう人は、その自分の最優先する「モノを満たすことに協力してくれない人」は、どうでもいいのです。

モノやお金を得たり維持するために、人を怒鳴り、批判し、裁き、縁を切ったりします。

それはある意味とても不幸な人生です。

どうせそれらのモノは最終的にすべて自分の手から滑り落ちるのですからね。

私たちはどれだけお金やモノのために生きていることか・・・。

もし最終的に自分の手からすべり落ちるもののために、自分の人間関係をぶち壊したりしたならとても不幸です。

最終的に私たちは身体を含む自分が持っていると思っているすべてのモノを手放すという意味でそれらはすべて幻想です。

私はたまに実家に帰って思いますが、私の子供の頃とは「別の街」ですよ。

以前は田んぼや畑があったのに、今はビルやコンビニが増えました。

街のでさえ、ひと世代経てばまったく違う街になります。

たとえ同じ住所であってもです。

職業も、今の名前も、住所も、・・・すべてはやがては自分を表すものではなくなります。

職業も、今の名前も、住所も、・・・すべてはやがては自分を表すものではなくなります。

それらはすべてある意味幻です。

退職した人はよく知っています(笑)

永遠不変のものなどありません。

すべてはやがて自分のものではなくなるものです。

それがお釈迦様にもイエスにも訪れたいわゆる「肉体の死」と呼ばれる現象です。

ならば誰もが迎える「肉体の死」と呼ばれる現象によって自分のものでなくなるものは、すべて本当は自分のモノではなかったのです。

しかし、私たちは、自分の身体や自分の名前、自分の職業や住んでいる家などを自分と思って勘違いしています。

それらを自分と同一視することは「大いなる幻想」です。

ですから今生の現実を「ある意味それは現実ではない」と気づいていることはとても意味があります。

すべては幻想であるという認識を「不幸に陥らないために」「自分の幸福のために」使ってください。

日本では年間、年間3万人が自殺しているそうですが、変死者が15万人いるそうです。

WHOの基準では変死者の半分を自殺者に加えるそうで、そうすると合計10.5万人が毎年自殺していることになります。

自分に大きな不幸に思えることが起こっても、「ある意味それは現実ではない」という思考があると、あまりにもそれに巻き込まれず、「よしバリ島に言ってバナナ食べて暮らそう!」とか、「田舎に行ってビッグダディ―みたいに畑耕して魚釣ってくらそう!」みたいな「別の現実」を選ぶ余裕が出てきます。

どのようなひどい現実においても「他の選択肢が一切ない」ということはありません。

しかし「他の選択肢が一切見えない」というのは非常によくあることです。

そして、その人にとって「他の選択肢が一切見えない」時、非常に苦しくなります。

その時、「ある意味それは現実ではない」という気づきがあると、別の選択肢を考える余裕がでてきます。

そして、その「心の余裕」が新たな可能性を開いていきます。

そういう意味で「肉体の死」と呼ばれる現象によって自分のものでなくなるものは、すべて本当は自分のモノではないという気づがあると、多くの「他の選択肢が一切見えない」ことによる不幸を防ぐことができるのです。

そういう意味で全てのことはすべて幻です。

「肉体の死」と呼ばれる現象によって自分のものでなくなるものは、自分のものでなかった。それと自己同一していたことは幻想だったという、認識を「不幸に陥らないために」「自分の幸福のために」使ってください。

インコも、私も、彼女の産物だと

>インコも、私も、彼女の産物だと

本当ですか!

インコも彼女の産物ならもう一羽産み出したらどうですか?

あなた(人間)も彼女の産物なのですか!?

なら好きな人間を好きなだけ産み出して、いくらでも好きな人間関係をもったらいかがでしょう?

生命は最も創造が難しいものですが、もっと簡単な無生物、お金などを好きなだけ産み出して、好きなだけ楽しい人生を生きたらいいじゃないですか。

>上手くその思考になりきれないけれどその思想が正しいと思うと言っていて

私は今のところ、自由自在にインコを産み出す人間を見たことがありません。

もちろん女性なら性行と妊娠によって、人を産み出すことはできますが、インコは無理ですよね!?

もちろん彼女に「あなた」も産めないですよ!(笑)

彼女もそれはわかっているんじゃないですか?!

人は自分の現実を選ぶことによって創造している

人は自分の現実を選ぶことによって創造しています。

例えば彼女は彼女の人生にそのインコが来ることを選ぶことができます。

そのインコとどのような関係をもつのか選ぶことができます。

彼女は、あなたと友達であることを選ぶことができます。

彼女は、あなたとまったくつき合わないということを選ぶことができます。

彼女はあなたとどういう風につき合うか選ぶことができます。

例えば、一緒にカフェにはでかけるけど、旅行にはいかないとかですね。

彼女はそのすべてを選ぶことができます。

ですから、彼女はそのインコがいない人生を創造することもできるし、そのインコがいる人生も創造することができます。

そういう意味で、そのインコは彼女が彼女の人生に関係を創造したと言えます。

彼女はあなたがいない人生を創造することもできるし、あなたがいる人生も創造することができます。

そういう意味で、あなたは彼女が彼女の人生に関係を創造したと言えます。

それはその通りです。

彼女はインコのいない人生も創造できるし、あなたのいない人生も創造できます。

彼女は他のペットのいる人生を創造できるし、他の友達のいる人生を創造できます。

常に無限の可能性は彼女のものです。

そういう意味であらゆるもの、あらゆる関係は自分で創造したものですから、

自分で違う選択ができます。

自分にとってその関係が喜びをもらすものなら、ずっとそれを続けてもいいし、喜びをもたらさないものになったら、変化させる自由をすべての人がもっています。

そういう意味で彼女の人生はすべて自分が創造していますし、

あなたの人生はすべてあなたが創造しています。

私の人生はすべて私が創造しています。

要はそれぞれが、自分によって喜びあふれる楽しい人生を創造すればいいのです。

すべての人にその選択権があるという意味で、すべての人の現実はその人の創造物です。

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