【北京旅行記】北京の寺院巡り(「優越感」は最大の病気)

旅について

北京の古いお寺などを回ってきた。

まずは法源寺。

唐代の645年に創建されたお寺である。

胡同(ふーとん)に囲まれた奥まったところにある。

このお寺で私が一番驚いたのは、今もお寺が「生きている」ことである。

日本のように葬式仏教に形骸化していない。 日曜日だったが、ご近所の人々がそれぞれお経を自ら持参し、僧侶の妙なる読経にあわせて一緒に唱和しているのである。

そのハーモニーがあまりにも絶妙であり、このお寺の中だけはまったく違う空気に満たされていた。

このハーモニーの中にいると、心身まで整えられていくようだ。

もちろん読経の意味はわからないが、ヒーリング音楽としての効用がある気がする。

私は文化大革命を経て中国の宗教は、ほとんど形骸化したのではないかと思っていたが、ここでは地元の人々と共に毎週のイベントとして結構若い人もお経を持参して参加しているのである。

東京セミナーの時にも会場の方に般若心経を読んでもらったら、見事に暗唱してくださった。

複数手があがったので、結構心得がある人がいるのだろう。 しかし、ずっと昔からある近所の寺に子供のころからずっと今でもこうして毎週法要に参加している人がどれだけいるだろうか?

ここはそういうお寺はなのである。

すごい! 仏教が生きている。

あまりの読経の見事さに、合唱に参加して一体感を味わう喜びもあるのではないかと感じた。

人々の僧侶に対する尊敬の眼差しは深く、まったく形骸化していない。心のこもったものだ。

力とお金が万能と思われるこの殺伐とした世界において、確かにこの寺院においては別の価値観が人々を一体化させている。

とてもいいものを見せてもらった。

ここを出て歩いていると途中で、クレープのようなお好み焼きやを見つけた!

1つ6元(120円)ピリ辛パリパリでなかなかおいしい。 この法源寺から数百メートルにイスラム寺院、牛街拝寺がある。996年の創建。 ここも朝の礼拝が終わったらしく絨毯を掃除して片付けていた。 数百メートルしか離れていないのに、仏教とイスラムは共存できる。 ここ北京にはキリスト教会もある。 王府井(わんふーちん)のキリスト教会。 異なる宗教、異質な考え方でも、お互いに干渉せず、相手を尊重し、相手を抑圧したり、支配するのでなければ、千年を超えて共存できる。 この「みんなちがってみんないい」の姿勢が、個人的な人間関係においても、宗教の相違に対しても一番有効な姿勢であると思っている。 (逆に言うと最も邪悪な思考は、「自らは相手に優越する」という思考だ。自分が正しく、相手は間違っている、相手は強制的に正しい方向に導く必要がある。これがこの地球上で最も邪悪な思考なのである。 ナチスドイツのユダヤ人虐殺なども、背景にはゲルマン民族の優越がある。 多くの対立は、「自らは相手に優越する。」だから「相手の間違いを指摘し、正す必要がある」という思考に源を持つ。 これが諸悪の根源だ。 しかもそれが神の正義のために自分は善行を尽くしていると考えているからたちが悪い。 誰かが困っている時、相手に役立つよう貢献するのとは、途方もない違いがある。 私が力の使い手に、「みんなちがってみんないい」を尊重し、誰も裁かず判定せず、ただ貢献するよう求めるのはそのためだ。 この地球上では「優越感」は最大の病気である。(劣等感も優越感のコインの裏側であり同様に最悪の病気だ。) ただ「みんなちがってみんないい」だけでい。 夕方には、地下鉄の駅の名前にもなっている、北京最大のチベット密教寺院雍和宮(ようわきゅう)に行ってみた。 北京中心部にあるが、外の喧騒からは想像もつかない別世界である。 周囲を高い壁に覆われている。都心で俗世間の喧騒から自らを切り離し、独自の世界観を表現するには、ある種の「切り分け」もまた大事であると感じる。 そうしないと自分も埃っぽくて騒がしい俗っぽい、「ただの世間」になってしまう。 見るべきものは何もない。 ある種の「切り分け」をしているからこそ、個性という独自の世界観を築き、表現し続け、こうして人を引き寄せ続けるのである。 ここのご本尊は巨大なもので、チベットから運ばれた白檀の一本木から掘られいると言われている。 本殿に至るまでに左右にマニ車(法輪)をおいてある法輪殿がある、若い人も線香を高く掲げて熱い思いで祈りを捧げているのが印象的だ。 北京と言うと、故宮や頤和園などが有名だがここはもっと知られていい。雍和宮(ようわきゅう)という地下鉄駅もありアクセスしやすいので北京にお越しの際はぜひ訪れてみてください。 私は個人的にはこういう仏さまを見るのも大好き! 交合しながらもがく何本もの手がなんとも妖艶!(*^^*) 私は、二元性の合一が俗物を超えて(足で踏んでいる)歓喜と多次元性へ至る鍵であることを教えていると見ている。 ここから数百メートルのところに「国家級」の施設である孔子廟がある。 こちらは閑散としており、人々も「観光」としてやって来ている。 宝源寺、牛街拝寺、雍和宮は人々の熱い思いを感じた。 しかし、孔子の思想は私もそこまでひかれていなかった。 その自分の感じていた温度差が、北京の寺院でも見て取れた。

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