「今生の自分の使命(ライフワーク)の見つけ方【自分の「ハートの喜び」に熱中しよう!】」読まれて学校の先生からメールをいただきました。
私のライフワークはなんだろうと自問自答しているときに、今日のblogを拝見しました。
そこで思うところがあり、突然ですがメールさせていただきます。私は教師です。
子どもたちにたくさんのことを教えることが私の使命です。
その中には、社会のルール、人として生きる上でとても大切なこともあります。
もちろん、各教科で教える内容は、単なる知識だけでなく、物事の見方、考え方を身に付ける上でもとても大切なものです。私は、子どもたちにルールや道徳的な価値を教えることは大切なことだと思っています。
それは単なる押し付けではなく、
こどもたちがその意味や大切さを感じ、
自らよりよく生きる力を育むためです。
そういう視点なら素晴らしですね!
もっと詳しく言えば、
自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方を見出し、
ぶれない自分をつくるために行っているものです。
私は、教育をこんな風にとらえています。
「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」と言える外の基準はない
「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」というのは、その人の「ハートの喜び」に従って、生き、自分自身を十分に実現し表現する生き方です。
「ハートの喜び」に従ってそういう生き方をする人は「わがまま」とは違います。
「ハートの喜び」に従って生きる人は、決して他人や社会に危害を加えることはありません。
他者と自分は本来一体であると理解しているからです。
人になすことは自分になすこと、
情けは人のためならず(自分のため)ということを実体験として理解しているからです。
ただ、「人を利用したい」他者や社会から見たらそういう人は面白くない人なんですよ。
「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」は外から示す基準としては存在しません。
例えばマザーテレサのような生き方が、「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」だったとします。
マザーテレサは立派な人ですから誰も文句は言えません。
学校教育、社会、大人たちが、一丸となって基準を作り、法律を作り、決まりを作り、教科書を作り、子供たちに、これが「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」だ!とわずかのスキもないように、徹底したとします。
そして、リトル「マザーテレサ」がたくさん生み出されたとします。
そういう社会は滅ぶんですよ。
パンを焼く人がいないからです(笑)
だって、教科書に載っているマザーテレサのような「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」以外は、
まぁ要するにダメな生き方なわけです。
「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」とは「こうだ!」基準を作り、言ってしまったら、
「そうでない生き方」が必然的に生まれてしまうのです。
必然的にマザーテレサのような生き方は素晴らしいが、パン屋はそれほどでもないという風になってしまうんですよ。
そういう社会ではパン屋は劣等感の中で生きなければなりません。
しかし、そういう社会は弱いのですよ。
喜びに満ちてパンを焼く人がいる、野菜を作る人がいる、色んなことをする人がいる社会が素晴らしい社会です。
「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」と言える外の基準はないのです。
すべての生き方が素晴らしいのです。
みんなちがってみんないいのです。
山下清がいない社会は貧しいのですよ。
榎本先生が指摘されるような視点も必要不可欠だと思います。
でも、私はやはり自分の仕事に誇りをもっています。ここで再度、私のライフワークはなんだろうかと考えてみました。
これまで私は、教育現場で道徳教育を中心に取り組んできました。
その目的は「ぶれない自分をつくること」
これに尽きます。
[ぶれない]とは、自分の本来もっている良心、つまりは榎本先生の仰るハートの喜びを信じ、
自分で考え、自分で判断し、納得できる生き方を実現することです。
教師として道徳教育に取り組むことと、榎本先生の教えとの間にズレや間違いはないと私は感じます。
それは素晴らしいです!
「[ぶれない]とは、自分の本来もっている良心、つまりは榎本先生の仰るハートの喜びを信じ、自分で考え、自分で判断し、納得できる生き方を実現することです。」
そういう視点なら大歓迎です!
教育の現場にそういう先生がおられることをとてもうれしく思います。
一般的には、ただ「決まりだから」「目上だから」ということが強制されている
ただ一般的に、「自分の良心、ハートの喜び」に従うのではなく、
「お前おれ(先生)の言うことが聞けないのか!(内申点落とすぞ!)」
「これは校則だ!」
「髪が〇cm耳にかかったら違反だ」という訳のわからないルールがまだまだまかり通っています。
校則で男子は坊主頭となっていた田舎の高校が「オーストラリアに修学旅行に行くときだけは、髪を伸ばしていい」などという訳のわからないことを言い始めます。
オーストラリアでは坊主頭は囚人の頭であり、先輩たちが向こうで好奇の目で見られとても恥ずかしい思いをしたからです。
そういう世界基準でみて、とても通用しない、校則、「生徒らしさ」を求める学校や先生はまだまだ多いです。
そういう「基準」を押しけるには「本校の生徒らしい、本校生としての誇りなどという屁理屈」や頭ごなししかないんですよ。
「決まりだから」という理由しかないからです。別の言葉で言えばそうしたら「管理しやすい」以外に「本当の理由はない」からです。
だから「自分にとっても他者にとっても、社会にとってもこれがよいと言える生き方」の基準を作ることはとても危険なのです。
だから、
「チャイムが鳴り 教室のいつもの席に座り
何に従い 従うべきか考えていた
・・・
行儀よくまじめなんて出来やしなかった
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった
信じられぬ大人との争いの中で
許しあいいったい何わかりあえただろう
うんざりしながら それでも過ごした
ひとつだけ わかってたこと
この支配はからの卒業
・・・
人は誰も縛られたかよわき子羊ならば
先生あなたはか弱き大人の代弁者なのか
俺たちの怒り どこへ向かうべきなのか
これからは何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身卒業すれば
本当の自分にたどりつけるだろう
仕組まれた自由に誰も気づかずに
あがいた日々も終わる
この支配からの卒業
闘いからの卒業」
こういう歌が人びとの胸を捉えることになってしまいます。
自分の感覚として実感しているからですよ。
先日小学校のグラウンドの近くを通ったのですが、小学校はみんな私服で、髪形も思い思いで、みんな「きゃ~っ」と鬼ごっこしたり、ボール蹴ったりして、思いっきり走り回り、エネルギーが渦巻いていました。
ほんとうに美しいと思いました。
どうしてこのエネルギッシュさ、無邪気さが大人まで保てないのだろう。
この子たちの無邪気さ、快活さが、誰か他者を傷つけるとはありません。
もうひとつ、私の心からの喜びは
人に喜んでもらうことです。
この傾向は、幼い頃からありました。
私は、子どもの頃から、自分が何かすることで誰かが笑顔になることがこの上なく嬉しいのです。
人の相談に乗ったり話を聞いたりすることが大好きです。
悩んだり、苦しんだり
心が動かなくなったりからだが動かなくなったりする子どもたちと出会うたび、何とかしてあげたい、なんとか力になりたいと思うのです。
それは素晴らしいことですね!
榎本先生のblogで学びながら、いまの私にできることを模索し、信念をもってやり通したいと思います。
すみません、とりとめのない内容になってしまいました。
でもどうしても伝えたくなって……長文乱文失礼いたしました。N( 2017年4月23日 20:43)
いいえ~
メールありがとうざいます。
榎本