自転車【台湾環島6日目】嘉義→台南 台湾で最も有名な日本人八田與一(はった よいち)

嘉義と台南の間には、嘉南平野が広がっており、そこを台湾最大の穀倉地帯に変えた日本人がいる。

烏山頭ダムを完成させた八田與一(はった よいち)(今の字体では与一)だ。

その地に自転車で立ち寄った。

東京帝大で土木を専攻した彼は、利水技師として台湾に赴任する。

彼は当時東洋最大規模になる烏山頭ダムを立案するが、当時台湾総督府の年間予算の3分の1にも達する巨大なもので、地元でも負担するという農民の幾度となる嘆願に日本の国会でも可決され、国費から補助金が出された。

蒸気機関車、エアーダンプカーなど、日本人や台湾人が初めて見る合計1,000トンを超える巨大機械を八田は買い付ける。

そして、鉄道を張り巡らし、工事に携わる人々のために街を建設し、その家族ための学校などのインフラも整えた。

烏山嶺トンネル工事で、ガス爆発事故が起こり、日本人、台湾人あわせて50余名の死者が出た。

八田は作業着姿で犠牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田の言葉をおしいただくように聞き入り、嗚咽したという。八田の「仲間を失った」という悲しみが自然と伝わり、その心情が遺族の胸をうった。

「八田與一はおれたちのおやじのようなものだ。おれたちのために、台湾のために、命がけで働いているおやじがいるんだ。おれたちだってへこたれるものか」

と、逆に八田を励ました。

八田は工事が終わりに近づいた昭和5年3月、工事のために亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てた。名前は亡くなった順なのか、日本人と台湾人が混じって刻まれている。

工事が完成すると、米の収穫量は6倍になった。

八田は完成後台北に移ると、そこで台湾で初めての民間学校「土木測量技術員養成所」を作り、技術者の育成につとめる。

その後陸軍の命令で、フィリピンに移動中の船が魚雷を受けて沈没、56歳で死亡した。

妻、外代樹(とよき)は終戦まもない9月1日、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの竣工記念の日に、導水口に身を投げて自決。45歳だった。

自分の銅像を作ろうとする農民の意向を八田は固辞し続けて来たが、座ってダムの思索にふける威圧感のない姿のするという熱意におされて折れて八田は除幕式に出席している。

この銅像は戦中の金属供出命令や、戦後の日本人銅像の破壊などの折にも、住民によって隠され、昭和56年になってようやくこの地に戻され、今もダムを見守っている。

八田の死を知った住民は、この銅像の背後に台湾では入手困難な黒御影石で日本式の墓石を作った。

現在も毎年5月6日に慰霊祭が行われている。

彼の業績は台湾の教科書に載っており、台湾では最も有名な人であるという。

この日も観光バスや周囲をトレッキングする人々の姿を見かけた。

八田らが住んだ日本式の宿舎も再現されている。

八田與一(はった よいち)さんと妻の外代樹(とよき)さん。

この宿舎やダムの前の道は、日本読みで八田Roadと名付けられている。

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