「力の使い手」さんから質問をいただきました。
・・・先生 この方は やりきった感があるので 地縛霊などにはならないと思いますが若くして 衝動的に自殺などしてしまった場合なども 地獄へ行くのではなく また自分の課題をクリアするために 生まれかわってくるのでしょうか?(2017年3月10日 9:57)
すべての人は最終的に生まれ変わっていきますよ。
地獄などないが、思うことはすべて実現するのはこの世と同じ
本当は地獄などないのです。
しかし思うことがすべて実現します。
それは肉体を離れても同じなんですよ!
死んだら地獄があると信じきっている人は、自分のイメージ通りのことを経験します。
しかし、これは自分が作ったことだと「気づく」とそこから抜けて次に進みます。
それは幻影ですから、いつか必ず次に進むのです。
この世でもあることにいつも腹を立てている人がいます。
それは実は自分の内面に「怒り」があるからですが、それに気づかず「あいつが悪い」と外部に投影します。
しかし「あっ この怒りは自分の中にあった!」「これは自分が生み出したものだ!」と「気づく」ともう同じことを繰り返さなくなります。
そうするともう自分に「怒り」をもたらす状況は「外部に投影」されなくなるのです。
肉体を離れて霊体となっても同じです。
ですから死んだら自分は地獄に行くと信じきっている人は、そのような自分の信念を経験するのです。
キリスト教徒で「最後の審判」が来るまで眠り続けると信じきっている人たちは、やはりあの世でも眠り続けているようです。
そして自分が「死んだことに気づかない」人は、今でも交差点で車を運転していたり、日本兵として南洋で戦っていたりします。
それがいわゆる自縛霊ですね。
しかし「あっ 私は死んだんだ!(肉体を離れているんだ!)」と「気づいた」瞬間に次のステージへ移動しはじめます。
最終的には誰もが「気づき」ますからその点については何も心配することはありません。
神さまはただのひとりもお見捨てになることはありません。
必ず救済の手が差しのべられてます。
実際、いつも親しい人などの霊が出迎え、声をかけ、導いてくれていますが、「自由意志」というのは絶対なのです。
「その人がどう考える」かということは何よりも「その人の現実」を創るという原則は変えられません。
すべての存在にできることは「気づき」の「きっかけ」になることだけなのです。
最終的にはすべてその人が選びます。
何でも選べるのです!
葬式の「導主」とは
葬式でお経を読むお坊さんを「導主」と呼びます。
チベット死者の書などを読むとわかりますが、亡くなっても霊体は数日は肉体の近くにいるんですね。
そして「導主」はその方が自縛霊にならないよう、スムーズに次のステージに向かえるように文字通り「導く」のです。
それが人が肉体を離れる時の「導主」の役割なのです。
今の葬式の「導主」はそれが形式化、形骸化したものです。
この世でも、あの世でも人は思う通りのことを経験する
この世は地獄であり、生きるのがつらいと思っている人はその通りの人生を経験します。
しかし、この世は喜びに満ちていると考える人はそのような人生を歩みます。
そしてその選択は万人に平等なのですよ。
何を選んでもいいのです。
地球上の生を生きている時も、霊体として生を生きているときでもまったく同じです。
ですから地球は素晴らしいところであり、肉体を抜けることも素晴らしいことだと思っておいた方が得なのですよ!(笑)
実際地球は途方もなく素晴らしい体験の場であり、霊の状態も大変素晴らしい認識と理解の場所だからです。