私たちが自分の内なる喜びに従って、「自分は本当はどうありたいかを問い続け」それを表現し続けることこそ、神の創造なのです。

新しい現実の創造

メルマガをご登録のまめさんからご質問をいただきました。

自らの魂を再発見し続ける…
つまり、自分は本当はどうありたいかを問い続けるということでしょうか?
社会的、世間的に線引きされていることにとらわれずに
自分が本当にこうありたいと思うことを信じて実行してよいということですか?

そうです!そうです!
自分がこうありたいと思うことを実現するのが「自分の人生」です。
社会的、世間的に線引きされていることに従っていたら、「自分の人生」など生きられませんよ!

別に反社会的なことをしろというのではありません。
自分はこうありたいと思うことを、ただ実現し表現していくということです。
そこに悪いことは何もありません。
ただ自分の内なる喜びに従っているだけです。

人のせいにしない、人を責めない
自分の自由意思に従うというのは
様々な枠の中で生きている現代人にとって、
強く意識しないとつい流されてしまいそうです。
でも、自分の魂に従ってよいというのは、
なんだか無限の可能性があるようで、わくわくしますね。

そうですよ!
実際、無限の可能性があります。

わくわくなんですよ!(笑)
自分がこうありたいという喜びに満ちた人生を実現し表現することこそが、生きるということです。
>人のせいにしない、人を責めない、自分の自由意志に従うというのは様々な枠の中で生きている現代人にとって、強く意識しないとつい流されてしまいそうです。

はい。
人は枠の中に生を受けますからね。
しかし人間の歴史は自由拡大の歴史です。
赤ちゃんは、母親にしがみついておっぱいを飲むことしかできませんが、ハイハイをし、つかまり立ち、歩き、走り、自転車に乗りどんどん自由を広げていくのです。

なぜか!
わくわくするからですよ!
自由というのは純粋は喜びなのです。

なぜさまざまな枠の中に生きているかというと「自分でそれを選んでいる」からです。

まぁ親に養ってもらっている時は、親の意向を受け入れざるを得ないかもしれません。

しかし、学校を卒業したら、自分で生計を立てることを誰にも止めることはできません。
そうなるともう親の意向など気にすることはないいのです。
親には何も頼っていないのですから!
もし、その後も親の意向に従わなければならないなら「自分でそれを選んでいる」だけです。

よく大学で下宿したり、就職して親元を離れると、ぷっつり親に連絡をしなくなったりしますね。

それは親の影響下、枠から抜け出したいからですよ。

そうすることを誰にも止めることはできません。

もし成人しても親や親族の枠の中で生きているとしたら「自分でそれを選んでいる」からです。

その人にとっては、「自分の人生を生きる」ことより「彼らに気に入られる」ことの方が重要なのです。

ただ「自分でそれを選んでいる」のです。

「人のせいにする」「人を責める」のは、自分が彼らの枠の中で生きることを自分で選んでいるからです。

それ以外の理由はありません。

 

すべての自分の行動を自分で選んでいる時、一体どうやって「人のせいにする」のでしょう?

その人にせいする人は誰もいません。(笑)

すべてを自分で選んでいるのですから!

もし自分の人生の中に「人のせいにする」「人を責める」ということがあるのなら、ただ単に
「その人が自分の人生に干渉することを自分が許している」だけです。

他に理由などありません。

もし生きるために、不本意な仕事をしているというのなら、自分がそれを選んでいるからです。今は本当に多くの人がネットなどを使い、自立して収入を得ています。

それは可能であるばかりでなく実際多くの人がそうしています。

仕事に熟達すればするほど多くの人が自立を目指します。

それは昔から変わらぬ大きな流れです。

そうすると、もう上司であろうと、同僚であろうと「人のせい」にしたり「人を責め」たりすることはできません。

もはや上司も同僚も誰もいないのですから!(笑)

自分の人生の中に「人のせいにする」「人を責める」という性質があるのなら、それはただ単に「自分の人生にどれだけ他人が干渉することを自分が許しているか」というバロメーターに過ぎません。

それはまた、どれだけ自分が人に依存しているかを示すバロメーターでもあります。

それは相手の問題ではなく、「自分が相手に依存している」という問題なのです。

 

自分の人生に依存が存在しなくなる時、本当の意味で「人のせいにする」「人を責める」ということが完全に落ちてしまいます。

逆に言うと、自分の人生に依存が残っている間は「人のせいにする」「人を責める」ということを完全に落とすのは難しいのです。

 

>私も、人がどうこうと嘆いたり不安になったり不満を持ったりするのではなく
>自分にとってどんな意味があるかを常に考えていきます。

それは素晴らしい考えです!

人がどうこうと嘆いたり不安になったり不満を持つのなら、それは「自分はまだ自分の足で立っていない」ということを教えてくれています。

自分の足だけで立ち、自分でだけですべてを選び決めている時、「人がどうこうと嘆いたり不安になったり不満を持つ」ことはなくなります。

もう自分の足で立って人生を生きてるのですから。

歩き始めた時はまだ歩くことに不安があります。

自転車に乗り始めた時はまだ自転車に乗ることに不安があります。

自動車を運転し始めた時は、まだ自動車に乗ることに不安があります。

しかしそれをしばらく続けていたら、誰ももう不安など持ちません。

新しい自由、新しい現実、に慣れてしまったからです。

不安に思うのはまだそれをやっていない時か、不慣れな期間だけなのです。

すぐに慣れます。

それが人間というものです(笑)

 

不安も不満も一切ありません。

だって、自分の足で立ち、誰も自分の人生には干渉していないのですから!

一体誰に不満を持つというのでしょう(笑)

 

人との関係性は、ただ共同創造になります。

一緒に時を過ごしたければ過ごせばいいんですよ。

一緒に話をしたければすればいいんです。

一緒にお茶を飲みたければ飲めばいいんです。

一緒に旅をしたければ旅をすればいいんですよ。

そこには何の強制もありません。

ここは大切なところです。

一切の強制も、果たすべき義務も、○○すべきこともありません。

「完全に」自立したふたりのお互いの内から出る「自由意志」喜びの方向性が一致したため、
同じ時間をともに過ごして、素敵な時間を共同で創造し、表現するのです。

ただそれだけです。

人間関係は喜びに満ちた素敵なものになります。

何の強制もないからです。

お互いが完全に自立して自由意志で生きている時、どろどろしたものが生じる余地はないのです。

そのようなどろどろしたものが生じるはるか以前に、喜びが生じない時を共に過ごす動機が何もないからです。

あらゆる意味で依存がないのです。

もし喜びがないのに共にいるのなら、お互いに自立しておらず、依存が必ずあります。

そのお互いが自分の足で立っていないこと、相手に依存していることを棚にあげ、相手に不満をもったり、不安を持ったりするのですから、そのどろどろにはきりがないのです(笑)

すべてのどろどろの源は、お互いに自立しておらず、依存があることに生じています。

依存が強制、果たすべき義務、○○すべきことを生じさせるのです。

もちろん美しい表現がされていますが(笑)

そして、いつかそれにうんざりし不満が生じるのですよ(笑)

自分の内なる喜び以外に従っていなければ、いつか必ず不満が生じます。

 

 

ひとりでいようが、誰かと過ごそうが、喜びの瞬間瞬間を選び続けることができます。

そしてそれを妨げる人は誰もいません。

自分自身以外には。

実際ひとりあることの喜びを知らない人が、誰かとの関係性の中で喜びの瞬間瞬間を選び続けることは非常に難しいのです。

ひとりあることは素晴らしいことですよ。

自分の内面を見つめることができるのは一人の時だけです。

旅に出ても、友達とぺちゃくちゃやっていたら、美しい瞬間を感じる静かな心も保てません。昨日テレビでやっていた芸能人のゴシップをふたりで話さないといけませんからね(笑)

 

ひとりあることをロンリネスと思っている人が多いのですが、ひとりあることはアロンネスです。

それはひとり空をゆく野生の鳥の美しさです。

そのひとりの美しさが、出会いの美しさを際立たせるのです。

 

>榎本先生の書かれている文章は、どこか禅の教えと通じるものがあります。
そんなとき、宗教や文化は関係なく、真理はやはり真理なのだと感じます。

すごいですね。禅をご存知なのですか!

私は座禅しろなどとは一切言っていないのですけどね。(笑)

私が言っていることは、ただ喜びに満ちて生きたらいいですよということです。

でも実は、私は禅の開祖であるボディー達磨や、一休禅師などが大好きです。
仏陀の系譜につながる人たちを深く敬愛しています。

また私はイエス自身やマザーテレサや聖フランシスコなどイエスの系譜に連なる人たちも大好きです。

時代を越え、場所を越えて、宇宙の隅々までどこまでの通用するのが真理です。

ある時代、特定の場所、特定の人々だけに通用する考えなどは真理などではあるはずがありません。

真理は、特定の宗教や文化、言語、人々に属さないものです。

宇宙のすべてに属していることが真理です。

見えない世界、見えない力はやはりあって
かみさまという存在もたしかにあって
その時代、その時代にそれに気づいた人たちが
いろんな伝え方をして来たのだろうなというのが今の私の素直な感覚です。
そう思うとすっきりします。

その通りです。
私もそう思っています。
イエスはイエスの言葉で真理をその時代にあった方法で表現し、
仏陀は仏陀の言葉で真理をその時代にあった方法で表現しました。
彼らに連なる聖者方や禅師の方々も同様です。

その目に見える表現ではなく、背後にあるものはすべて同じなのです。

同じ真理の異なる表現です。

表現の部分など、どうでもいいのです(笑)

それを表現した言葉自体がどんどん変化しているのですからね。

いわゆる神と呼ばれる存在は、宇宙のすべてであり、今も変化し続ける無限の表現なのです。

そしてその無限の表現の一端をになっているのが、神と同じ魂を持つ私たちひとり一人であり、「自分は本当はどうありたいかを問い続け」それを表現し続けることなのです。

私たちは神と一体の宇宙の一部であり、神との共同創造の最前線の存在なのです。

私たちが自分の内なる喜びに従って、「自分は本当はどうありたいかを問い続け」それを表現し続けることこそ、神の創造なのです。

それが神の営みです。

それ以外に必要なことなど何もないのです。

 

もっといろんなお話を読ませていただきたいです。
ありがとうございます。

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