元自然の力の伝授者さんからメールをいただきました。
・・・
放置して「自然の力」からフェイドアウトしたかったのですが、浄化顧問料の支払い請求(現金渡し)があることがわかっていたので、はっきりと「自然の力はやめる」と伝えました。
「神様の持ち物の人間が、「自然の力」を人間の頭で考えてわかるものじゃない、バカじゃないからあ~そうなんだってわからないんだね」と。
出た!「あ~そうなんだ」
神様の持ち物じゃないし!自分自身の本体が魂だし、なくならんし!
と、つっこみどころは満載でしたが、とりあえずスルー(無視)まあ心にさざ波がたつようなことはなかった、とは言い切れませんが、「不要な集合意識」から立ち去りました!
「自然の力」は、自然(神)とは無関係
まずですね。
彼らは「自然の力」を自称していますが、自然とは何の関係もありません。
これは彼らの「世界一」「世界の救世主」と同じように、ただのイタイ自称です。
(何かを調べて根拠をもって言っているわけではなく、ご存知のように「バカがよい」とされていますから、そもそも何も調べていないのです。)
妄想による人為的集合意識です。(「舐める遺伝子」などというたわごとがいったい自然の何に関係しています?彼の頭の中の妄想と関係しているだけですw)
自然とは量子物理学者が検証しても、宇宙物理学者が検証しても、遺伝子学者が検証しても、世界中の誰が検証しても最終的にそれはそうであると認めざるを得ない普遍的事実です。
真理の探求とは自然なもの、つまり神の創造の本質と人為的なものを見分ける作業です。
もちろん今の科学が理解できていない目に見えない事実はたくさんありますが、それが普遍的なものであることにかわりはありません。
「舐める遺伝子」などというたわごとに何の普遍性もありません。
神とは普遍性なのです。
そのことから「自然の力」の中身は、神とは無関係だとわかります。
勝手に「自然の」と自称していますが、自然とも無関係です。
お菓子の「きのこの山」がきのこと何の関係もないのと同じです。
似ているのは名前だけ、中身はまったく別物です。
そもそも自然と無関係の「舐める遺伝子」みたいなことを持ち出して、「「自然の力」を人間の頭で考えてわかるものじゃない、バカじゃないからあ~そうなんだってわからないんだね」と。いっても、
そもそもそれは自然じゃないし!(笑)
勝手に自称しているだけだし。
そんなことは子どもでも知っています。
それってホントのきのこじゃないんだよ!(笑)
>神様の持ち物じゃないし!自分自身の本体が魂だし、なくならんし
その通り!
そういう神の創造の本質の部分を自分の都合で捻じ曲げて伝えることが一番やってはいけないことです。
「神との対話」シリーズ 神とひとつになること p103
「わからない」と彼らは言った「わかることが可能かどうかもわからない」と。
こうして無知という考え方が生まれた。
この答えは色々な目的に役だったから、たちまちひろがって究極の回答になった。
わたしたちにはわからないのだと。
人間は直観的にこれが唯一の逃げ道であるばかりか、ある種の力をもっていることに気づいた。
これで宗教も政府も好きなことを言い、好きなようにふるまい、誰にも答えなくてすむようになった。それどころか「わかるはずがない」は宗教的な教義になった。
それが世間に通用するふるまいになった。それどころか期待される態度になった。
ある種の全体主義体制では、いまでも賛成意見しか聞こえず、反体制派の声は、非常に残忍な方法で消されている。
このような野蛮な振る舞いは「秩序を維持するために必要だ」と正当化されている。だが言っておこう。愛の本質は自由である。あなたを愛するというひと、あなたのためを考えるひとは誰でも、あなたの自由を認めるだろう。
人間の体験の核心には、2つのエネルギーしかない。愛と不安だ。
愛は自由を認め、不安は自由を奪う。
愛は開き、不安は閉じる。
愛は充分な表現を促し、不安はそれを罰する。これを物差にすれば、誰があなたを愛しているのか、不安をいだいて恐れているのかがわかる。
言葉によって知ろうとしてはいけない。行為を見ることだ。愛はつねに、無知の束縛を断ち切りなさいと促す。
何でも聞きなさい。答えを求めなさい。何でも言いなさい。
どんな考えでも分かち合いなさい。どんなシステムでも支持しなさい。
どんな神でも礼拝しなさい。
あなたの真実を生きるために。
愛はつねに、あなたの真実を生きなさいと促す。
それで愛だとわかる。
「自然の力」が神とは無関係である証明
いつも伝授切れを気にしている彼らがとらわれているのは、愛ですか?不安ですか?
もちろん不安です。
イエスは「神は愛なり」と言われました。
ですから「自然の力」は神以外の何かです。
それは「自然の力」の人々には伝授切れの「不安がある」ことからわかります。
「自然の力」は不安を喚起する、人為的人工的な思考であり、神とは無関係なのです。
それが「自然の力」が神と無関係である証明です。
「自然の力」は神と無関係な何かであり、「金とセックスと遊び」を追求する何かです。つまり「目に見えない神」とは関係ない「目に見える欲望」を追求する何かです。
ですからこの宇宙には、神と呼ばれる目に見えない普遍的存在に気づいた人が、神とは無関係の「目に見える欲望」を追求する不安を喚起する人為的思考である「自然の力」からいつか離れるのは必然なのです。
なぜならそこには「不安」があり、「不安」のあるところに神はいませんから。
成長とは自分を集合意識から切り離すこと
>「不要な集合意識」から立ち去りました!
素晴らしいですね!
実は自分の人生を取り戻すとは、自分を集合意識から切り離すことなのです。
それはどのレベルにおいてもそうなのです。
例えば、ある友達グループに入れてもらえて最初はうれしかったとします。しかし、だんだん人の噂話ばかりしているその友達グループにいるのが嫌気がさしてきました。
やがて自分がそこに留まり続けることが自分自身に許せなくなってきます。急に付き合いが悪くなったわね!と冷たくされ、いじめられるかもしれないと「心にさざなみ」が立ちますが、もっとそうありたい自分を求めて、その集合意識から立ち去ることを決意する時がきます。
そして、それを実行します。一時的に寂しい思いをするかもしれませんが、やがて新しい自分にふさわしい友達ができます。
それが人の成長の本質であり、人生をよりよく変化させることの本質なのです。
例えば家族や周囲があるしきたり、「女は○○べき」みたいな集合意識をもっているとします。
誰もがその集合意識の中に生まれ、無意識に育ちます。何の疑問も感じません。一定以上成長しないと疑問を感じることはできないのです。
しかし一定以上の知性と判断力が育つと、「女は○○べき」っておかしくない?という疑問がわいてきます。
(だから以前は女は勉強などできなくていいと言われていましたね。バカでいいと。せいぜい短大の家政学科でいいと。その意図するところは同じで、知性と判断力が育つと、「それっておかしくない?」と集合意識から抜け出すからです。しきたりに従って生きて欲しい人たちは、そうなることを望まないからです。そうなると娘は24歳までに親の勧める相手と結婚しなくなりますからね。)
だから多くの若い人たちが思春期を過ぎると、田舎から都会に行くのです。その集合意識から抜け出したいからです。
そして今まで自分を保護してくれていた集合意識を越えていくこと、独り立ちして自分を確立すること、それこそが「成長」と呼ばれるものです。
会社や組織の集合意識があります。
そこに属し、そこでの学びを終えたら、その集合意識を去っていくのです。
日本の政権や税制にうんざりした人は、日本という集合意識を去る人もいます。
そして最終的には地球人としての集合意識を終えるとき、私たちは地球の輪廻転生から自分を解き放ちます。
それが「成長」と呼ばれるプロセスなのです。
例えばあなたが人生には「金とセックスと遊び」以上のものがあると感じてるいるなら、もはや彼の教えはあなたには何の役にも立ちません。
彼にとっては「金とセックスと遊び」がすべてであり、実際そう教えているのですから。
彼はただ単にそれ以上のものを認識しないので、彼にとってはそれは存在しません。
もう彼にはあなたに教えるものは何もないのです。
だから「舐める遺伝子」とかホントどうでもいいことを繰り返している。そしてそんなおバカなことを言ったあとは本人もさっぱり忘れている。適当に思いつきを言っただけだからです。真実とは何の関係もない。そしてそれを言ったことも忘れて次のことを思いつきでいうから矛盾してくる。
私はある時話を整理しようとして聞いたことがあるんです。前に言ったこれと、今回のこれは矛盾していますが、どちらが本当ですか?と。
そしたら「そんなことを聞くと伝授が切れる」と言われたものです!(爆笑)
ですからバカになって「あ~そうなんだ」と無条件に受け入れろと言わざるをえないのです(笑)
きちんと考えだしたらたいへんです。
意味などないのですから(笑)
もちろん「金とセックスと遊び」に何も悪いことはありません。素晴らしいものです。
しかし、それを最高のものにするには、あなたも気づいている「ある要素」が必要です。
それがなければ例えばどんなセックスも虚しいものです。
あなたはそれに気づいている。
ならその集合意識から立ち去る時です。
だからといって、自分が今まで属していた集合意識を嫌うことはないのですよ。
もし、自分がそれを嫌っているなら、自分はまだそこを真に卒業してはいないのです。
あるときは自分を育み、あるときは鍛えてくれたその集合意識に敬意を持つべきです。
家族や故郷、自分が属したさまざまなグループや組織、そういったものに敬意をもつべきです。それが与えてくれた経験に敬意を持つべきです。
それはあなたの一部なのですから。
しかし、それに敬意をもつことと、自分がその集合意識に属することはまったく違います。
自由になる=成長するとは、今まで自分が属していた集合意識を越えることなのです。
それはいつの時代でもそうなのです。
そして、その集合意識が役に立っている赤ちゃんをもちろん無理にそこから引き剥がず必要はないし、もしその集合意識を出たいと思うほど成長した人がいるなら手伝ってあげればいいのです。 あなたにはきっとできる!と。
まだ思春期に達していないなら、自分でそのことの矛盾を感じるほど成熟していないなら遠くから見守ればいいのです。
ひとはいつか誰でも「その集合意識」から抜け出したくなる日がくるのです。それは必然です。
どの場面でも同じなのですよ。
そして多くのメンタルな問題、それに付随する身体の症状は、その個人が、本当はその集合意識から抜け出したいのに抜ける勇気がない。だからいつまでも自分が変化できない、その苛立ち、継続するネガティブな感情が身体に悪影響を与えていることが多いのです。
だからその人の問題を解決するということの本質は、いかにその人が卒業したがっている集合意識から本当はあなたは自分で立ち上がることができるんだよということを教えてあげることなのです。
ほんとはあなたの中にその力があるし大丈夫なんだと励ましてあげることなのです。
その時に身体に痛みや苦しみがあると、なかなか勇気がでませんから、浄化で身体の痛みをとるお手伝いをしながら、「本音で自分が望んでいること」に気づくお手伝いをし、あなたがそれを望むならそれができるよと励ましてあげることなのです。
地球上の学びでは、それが私たちが地球人として集合意識を越えるところまで続いていくのです。
簡単に言えばそれが地球人の旅路なのです。
親から自立した人が、それをしたい人は何かアドバイスできるでしょうし、会社から自立した人はそれをしたい人に何かアドバイスをできるでしょう。
その集団意識から抜けた人だけが、それを望む人にアドバイスができるのです。
そこに留まっていたい人には何も言うことはありません。
ああ、いい経験になったと放っておいて、自分は自分のハートの喜びに従って集合意識を超えてどんどん新たな人生を創造していけばいいのですよ。
そこに至った時、人は初めて自分の人生を生き始めたと言えるのです。
いくらそれが自分の周りの人が全員が言っていることであっても、その「女は○○べき」という「集合意識」に従って、自分の意志と関係ない人と結婚した人は決して心の底から満たされることはないのです。
今度は本当に自分の好きな人と結婚したいと思うのです。
ですから成長すれば、その「集合意識」の呪縛から逃れ、自分の人生を生きたいと望むのは必然です。
社会全体もそのように変化していくのです。
自分の「ハートの喜び」に従って自分の人生を創造すること、それが真の喜びであり、チャレンジです。
それまでは、その集合意識の鋳型、与えられた価値観にいかに自分をあてはめようとあくせくしてるだけなのです。
それは本当の自分の人生とは言えません。
集合意識を抜けた時から、自分のハートの喜びだけに従って生き始めたときから、本当の自分の人生が始まるのです。
魔物に取り憑かれると、異常な性欲、食欲、眠気、怒り、喪失感や疎外感がそれぞれ湧き出てきて、己では抑えきれなくなりますぞ。人民、魔物の容れ物と化してしまうと獣のようになりますのじゃぞ。魔物に身体乗っ取られ、思考感情も己と思い込まされ可笑しなこと申したり致したりするぞ。
益々、支配欲が高まり、己の思いのままに他を従えさせたくなりますのじゃ。思いのままにならねば、他を悪者に仕立て上げ、皆を取り込み虐めて喜ぶ魔のしもべと化すじゃぞ。嘘偽りいたすが当たり前となりて、善に成り済ますことにも長けてゆきますのじゃ。人民、悪魔知らぬから、やりたい放題やられておっても気づかんから、操り人形ぞ。
金持ちになりて遊んでおるものは、魔の家畜となりた者でありますぞ。己さえ良ければ良いと着飾りて、食べ物喰い散らかし、あれやこれや物欲に浸るのは、外道の生き方でありますのぞ。悪魔に洗脳され落ちぶれた姿でありますのじゃぞ。
信者、脅すでないぞ。会を止めれば地獄に堕ちるじゃの、病となるじゃの、義理返さねば神仏に祟られるだのと嘘偽り申すでないぞ。影で集いて、幹部らは呪いの儀いたし、離れた信者に負の念送りいたしておりますのぞ。魔の僕、多いのう。ひとり残らず因縁相応に罪滅ぼしさせるから覚悟なされよ。己で己に苦しまされ改心させられる御仕組みでありますから、誰も恨むでないぞ。己のツケは己で返しなされよ。