ご質問をいただきました。
家庭に居場所がないと孤独感、絶望感を感じて、心を閉ざした。
15歳くらいの時、家庭に居場所がないと孤独感、またこの理解ない親の元、1人で生きてはいけないと絶望感を感じて、心を閉ざした。
どんな親と感じていたのか?
父親は世間体、社会的、常識をあたまから振りかざす感じ。母親も同じく。母親だけには、そのままのあなたでいい、ありのままのあなたでいいと全受容して欲しかった。
また、母親は、あなたの為というが、本心は、母親自身が不安だから、世間体に沿っていないと自分が落ち着かないから、と、私のためじゃなく、自分が傷つきたくない為に、世間体や常識という盾にしがみついている、と幼心に見抜いていた。
ふむ。
なかなか鋭い幼な子じゃないですか!
私も似たようなところはありましたよ。
私は父親が頑固でね。
ある時帰宅が遅くなってすごく怒られて「これはお前のために言ってるんだっ!」と大声で怒鳴られました。
私は小学校高学年だったと思いますが「違う!父さんのムシの居所が悪いから怒るんだ!」と生まれて初めていい返したんですね。
そうしたら親父の目がうろたえたのがわかりました。
その後「なにを生意気な!」とめちゃくちゃ怒られました!(笑)
本当のことを言うと激怒されるということを理解しました(笑)
しかし子供ながらに、同じことでも日によって怒ったり怒らなかったりすることを見抜いていたのです。これは自分のせいじゃない「親父のムシの居所の問題だ」と理解したわけですね。
そういうことは実はよくあることなんですよ。
「怒る」というのはある種の暴力
「怒る」というのはある種の暴力なんですよ。
何か「筋の通らないことを無理やり押し通す」ために「暴力」が必要なんです。
本当にその子のためであれば「怒る」必要はまったくありません。
これこれこういう理由でキミにとっていいことなんだよ、と言えば子供は「筋が通っていること」はすぐに理解します。「ああ、これは本当にボクのためになることだ!」と。
だから、本当に「あなたのため」のことを伝えるのなら怒る必要はまったくないのです。
もし「本当にあなたのためになること」が、伝わらないなら「伝え方が悪い」のです。
子供にもわかる言葉や比喩を使って穏やかに伝えればいいだけです。
怒らなければならないのは「本当はあなたのためじゃないかもしれないこと」を強制したいからなんですよ。(笑)そういう時は強制力、暴力が必要です。
もちろんご指摘のように「自分自身が不安定」というのは大きいですね。
「不安定」なのは怒る人自身の問題であって「怒られた方の問題じゃない」んですよ!
怒るのは「怒る人自身に原因がある」
「怒りっぽい人」という言葉がありますが、怒るのは相手に原因があるのではなくて、「怒る人自身に原因がある」から「怒りっぽい人」という言葉が存在するのです(笑)
「怒りっぽさ」は怒る人自身の特性です。
だからその「怒りっぽさ」に取り組むのはご本人にしかできないのです。
ですから、ご本人がそのやり方を変えようとしないなら、最善の策は「とばっちりを受けないこと」になります。
相手にしないことです。
私はそれを「静かに立ち去る」と表現します。
まぁ子供はなかなか「静かに立ち去る」ことができませんね。
ですから、かなりの子供が思春期に反抗期を迎え、その後、家から立ち去ることになります。(笑)
それは多くの家庭でかなり広く見られることなんですよ。
小さな子供にはそれに抗う手段がなかった。
だから子供は思春期になるまでじっと待つのです(笑)
思った事をなんでも無邪気に口に出していたわたし。
だんだんと、母親の気に入らない事を口にした時には顔色が変わり、不機嫌になるのに気づき始めてとても恐怖だった。この人に嫌われたら生きていけないと15歳の私は怯えて、本当の気持ちは言ったらいけない、言ったら否定されて傷つく。と頑なに心を閉ざした。
私は小学校高学年には、本当のことは言ってはいけないと理解しましたよ(笑)
しかし私は、何を言われても「否定されて傷つく」ことはなかったです。腹が立つことはもちろんありました。しかしそれは「相手のムシの居所の問題」「相手の問題である」ことを理解していました。私の問題じゃないんですよ!(笑)
ただ、不機嫌になる人、不安定になる人に「本当のことを言ってはいけない」というのは同じです。ある意味でそういう人に対して私も心を閉ざしたといえるかもしれませんね。自分の本音を見せてはいけないという意味で。
あれから30年近くたった今ですら、あの時感じた感情が蘇り、体を蝕む。
自分も子どもをもち、全く同じことを子どもにしてしまった。
長男が学校に行かなくなり、主人が首根っこ掴んで行け!と無理やりやる。それに私は加担した。
「怒る」というある種の暴力
あ~
人生において「怒る」というある種の暴力を使う人は「その人の問題」であって、自分の問題じゃないのです。
これはハッキリと理解しなくてはいけません。
例えばナイフを突きつけて「金を出せ!」という人がいたとしますね。
それは強制力ですよね。暴力です。「怒る」というのも「相手に怖い思いをさせて言うことを聞かせる」という意味においてまったく同じなんですよ。
「怒り」であれ、なんであれ自分の人生に暴力を必要とする人はある意味かわいそうです。
「人は自分から出たものを自分で受け取ります」から、怒りという暴力を発する人は、自分の人生においてその結果を受け取ることになります。例えば、それは他の誰かの怒りを買うことであったり、孤独であったりです。
子供の反抗はそのひとつですね。
ですから、孤独なかわいそうな人だな、と思ってあげればいいのです。
まして、そういう人の言うことを真に受けて自己卑下してはいけません。そうしたら、自分は人生で暴力を使う人以下であると自分で認めているようなものですからね。
そういうつまらん考えはさっさと手放したらいいのです。
では、暴力に直面した時にどうすべきが?
とばっちりを受けて怪我をしないことですよ!
「静かに立ち去る」
まあとにかく相手を刺激せずに「静かに立ち去る」ことです。
それが最善の策です。
そして何かナイフを突きつけて自分の要求を通す人を「自分の人生に含めない」ことですね。
怖いですからね(笑)
ですから「怒る人」「怒りっぽい人」からは静かに立ち去る、というのが私のアドバイスです。
人は自分がされたように人にしてしまいがち
しかしね。
人は自分がされたように人にしてしまいがちなのです。
なぜなら「それが自分にとって最も馴染みのある方法」だからです。
子供の頃からずっとそうされてきたのですから、ある意味他の方法を知らないのです。
そうやって「祖先のカルマ」が「子孫のカルマ」として受け継がれていくんですよ。
負の連鎖ですね。
「自分がされて嫌なことは人にしない」
最も大切なことは、「自分がされて嫌なことは人にしない」ということです。
もちろん自分の子供にもです。
そして「自分ならそうして欲しいことを人にする」のです。
例えば子供の時それが本当に「あなたのため」なら、なぜそうなのかわかりやすく説明してほしかったですよね。
ですから、自分は子供になぜこれがあなたのためなのか丁寧に説明するのです。
すべての対人関係において、子育てにおいて、最も大切なことは。
「自分ならそうして欲しいことを人にする」
「自分がされて嫌なことは人にしない」
「自分ならそうして欲しいことを人にする」
だけです。
この世で道徳として教えるべきことはこれだけです。
あとはすべてわかります。
自分は怒られた嫌だから、人に怒らない。
自分はたたかれたら嫌だから、人とをたたかない。
自分のモノをとられたら嫌だから、人のモノをとらない。
自分は殺されたら嫌だから、人を殺さない。
自分の立場に置き換えて考えるから、すべての人に理解できます。
「自分がされて嫌なことは人にしない」
「自分ならそうして欲しいことを人にする」
たったこれだけです。
これだけで対人関係も子育てもすべてうまくいきます。
実際私はうまくいきました。
人生というのは実はすごくシンプルなのです(笑)
わがままな人、身勝手な人、自分勝手な人、とは「自分がされたら嫌なことを人にする人」
ただ世の中には「自分がされて嫌なことを人にする人」がいます。
私に言わせれば、わがままな人、身勝手な人、自分勝手な人、というのは、「自分がされたら嫌なことを人にする人」です。
そういう人がいたら「静かに立ち去る」ことですね。
だってその人は「自分がされたら嫌なことを人にする」んですから!
この世に存在する唯一の不道徳とは「自分がされたら嫌なことを人にする」こと
私に言わせればこの世に存在する唯一の不道徳とは「自分がされたら嫌なことを人にする」ことです。
そういう不道徳な人からは静かに立ち去るのが一番いいのです。
手にナイフを持っているのですから!
彼らは自分が使われたら嫌な「怒り」でも「暴力」でも人に使います。
ですから私は「自分がされたら嫌なことを人にする人」を自分の人生に含めません。
静かに立ち去ります。
主人はいつも正論をいう。でもいつもこれじゃいけない、何か違うと思っていた。
今になってわかったのは、主人が長男に常識を振りかざす時、私が不安一杯だった。私は長男が行きたくなければ行かなくていいって反対のことを思っていた。だけどそれは間違っていることのようで怖くて言えなかった。主人が長男に思ってるように私も思わないといけないと自分に言い聞かせていたように思う。
そうじゃなかったんだ。
実はこの世には正論はない
実はこの世には正論はないんですよ!(笑)
例えば日本には数十年前には「大日本帝国憲法」という正論があったんですよ。鬼畜米英、欲しがりません勝つまでは!
誰もこの「正論」に反論できませんでした。
ところが、一瞬にしてぜんぜん正論じゃなくなった。
よく観察したら「この世の正論」というのはすべて「大日本帝国憲法」と同じようなものであることがわかります。
そのすぐ前の「江戸時代の正論」も明治にはまったく意味がなくなりましたね。ちょんまげ結ってたら一瞬でバカみたいに見えるようになってしまいました。
実はこの世には「正論」はないのです。
一時的で限定的なある種の主張があるだけです。
アインシュタインが相対性理論を証明したとの同じです。
それまでは、時間とか空間とか、何か絶対的な尺度(正論)があると思われていた。ところが時間や空間さえも、相対的であることが証明されてしまった。
この世に絶対的なものは何ひとつなかったのです。
ある条件下で、江戸時代、明治、戦前という条件下でそれは「もっともらしく見える」だけです。
それは実に相対的なものであり、もろいものなんですよ。
絶対でもなんでもないんです。
ですから、この世に「正論」があると思っている人は、まだアインシュタイン以前の時代に生きている人と同じなのです(笑)
この世は相対的であることが証明されたのですから(笑)
ならどのように考えたらいいのか?
今その子にとって何がよりよいのか?
「今その子にとって何がよりよいのか?」です。
それが相対的な考え方です。
その子にとって必要なことは、その時々で変化します。
赤ちゃんの時はおしゃぶりかもしれませんが、3歳になったら積み木かもしれません。
「今その子にとって何がよりよいのか?」を常にその状況をよく観察して判断するしかありません。
それが相対的というものです。
アインシュタイン以後の時代を生きる人の生き方です(笑)
何か自分の主張は絶対的であると主張する人がいたら、それがその人の意見は聞くに値しないという証明です(笑)
主人の言うことには反論もせず、ただ聞いていればいい。主人と意見が違っても怯えないでいいんだ。私は長男にそれでいいよ。大丈夫だよ。私がいるよという大きな心で想っていればよかったんだ。
そういう言葉をかけてあげればよかったんだ。
私が弱かった…長男を守ってあげれなかった。
母親からも拒絶された
逃げ場のない長男は絶望していた。あの時の私のように。生きていたらいいよ。
何も出来なくてもいいよ。
そのままでいいんだよ。
人と違ったっていいんだよ。
生まれてくれてありがとう。
あなたがいて
生きていてくれたらお母さん幸せだよ。って、心から思って欲しかったんだ。
賛成です。
もしも、たとえ自分の子供が社会的正論から見て何か過ちとされるようなことをしたとしても、
母親くらいは「お前、何か事情があったんだね。母さんにはわかってるよ。お前は本当はいい子だってことは私にはわかってる。」と言ってやればいいんです。
この世は相対的なのです。
すべての人から悪人に見えても、私にはお前がいい子にしか見えないんだよ。と言ってあげたらいいのです。
お母さんにとってはそれが真実なのです。
それが相対です。
この世の真の存在の在り様です。
人の本質は永遠の魂でありいいもの
人の本質は永遠の魂であり、それはいいものであるというのが私の立場です。一時的な肉体としての自分に自己同一化して、欲なりエゴなりに捉われてトラブルを起こすこともあるかもしれません。しかし永遠の魂の旅路において、最終的には人は誰も例外なく本当の自分に立ち帰ってゆくと思っています。
私は旅をして自転車こぎながら、よく中島みゆきの「時代」の一節(音が出ます)を口ずさみます。
旅を続ける人々は
いつか故郷に出会う日を
たとえ、今夜は倒れても
きっと信じてドアを出る
たとえ今日は果てしもなく
冷たい雨が降っていても
めぐるめぐるよ時代はめぐる
別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ
故郷というのは「本当の自分」ですね。
めるぐめぐるのはもちろん輪廻転生です。
母は散々さもありなんのように色々言葉を言うけれど、その母の本心は
『私は不安なんだ!何故言う通りにしないの?言う通りにしないならこの先どうなるかわからないよ?私を困らせないで!』
『もう好きにしたらいい、でもどうなったって知らんよ!』
『やめて!私が考えてる事以外の事考えて混乱させないで!』『お母さんは沢山色々経験してきてるからわかるんよ』
ねぇ、何がわかるの?
私はいつも、やってみなければわからないじゃない!
私のアドバイスは、それを言っているご本人をよく見てくださいということです。
「この人は幸せそうか?」
「私はこの人のようになりたいか?」
です。
もしその答えがNOであれば、その人が言っていることがどんなに正論で立派なことに思えても、せいぜい「その人のように」しかなれません。
その人の言っている立派な正論でも、その人はそれで幸せになったのか?
そうでなければその立派な正論は役に立たないのです。
その人自身がその証明です。
そして、世の中には自分の人生は幸せでもないのに、立派な正論を述べる人が「実に多い」^^;
ですから、私はその人の言っていることよりもまず、その人を見ます。その人は幸せか?私はその人のようになりたいか?
その人は本当に幸せになる方法を知っているのか?
私とお母さんは違う人間なんだよ?
私がやってみてどう感じるかわからないじゃない!
やってダメだったら帰っておいで。失敗したっていいからさ。ってなんで言ってくれないの?
なんでお母さんの言う通りにせず、失敗したらほらみてみい。って意地悪な顔するの?
言う通りにせず、失敗したらもう帰ってこなくていいという雰囲気。そんな風に言われたら、チャレンジなんか出来ないよ。だって失敗したら帰るとこないんだよ。
だからチャレンジをやめた。あなたはそう思うんだ。わかったよ。と一回聞いて欲しかった。考え方が違っても。否定して、自分が考えてる通りに考えなうならおかしいって頭ごなしに否定するのではなく。
同調圧力…
私は実際に二人の子育てをやってみて、わかったことがあります。
親でさえ、本当に自分の子供が何をしたらいいのかわからないってことです。
長男と次男はまったく違います。
理系と文系です。
私は長男が何を考えているのか、その数学思考をまったく理解できません。
まぁとにかく、「自分がいい感じることをやれよ!」と言うしかないのです。
わからないのです。
ですが、長男も次男も私によくアドバイスを求めてきますよ。
昨日も両方から複数回アドバイスを求められました。
そうすると、私ならこうするよということをアドバイスします。
長男の数学の内容は理解できないので、「おつたえ」で聞いて返事します。(笑)彼もそのことはよくわかっています。役立つのでしょう。毎日のように聞いてきますからね(笑)
彼らは私が何の意見も押し付けないし、私にアドバイスを求めたところで「ウザイ」ことは何もないと思っているのでしょう。
私は最終的には「自分がいいと感じることをやれよ!」としか言わないですからね(笑)
そのベースに立って、私ならこうするねという意見が彼らには役立つのでしょう。
私は、最終的には「自分がいい感じることをやれよ!」と、その人のことはその人にしかわからないと思っているから、逆に多くのアドバイスを求められるのではないかと思っているのです(笑)
同調圧力って何でしょうね?
同調圧力って何でしょうね?(笑)
どうして同調してもらわなくちゃいけないんでしょう?
長男も次男もそれぞれです。
逆に私と同じ、私のコピーみたいな人間になったら気持ち悪いですよ!(笑)
何でもすべて「うん。お父さんの言うとおり!」みたいな・・・(笑)
もっと自分を持て!と言いたくなります(笑)
同調圧力って何でしょうね?
私の意見に賛同する人が多い、だから私は正しい(笑)
例えばガリレオが地動説を発表したとき、ローマ教会は多数派工作をするでしょうね。みんなガリレオに石投げろと(笑)
でもガリレオは「やっぱり地球は回っている」ことを知っているわけです。
何か真実を知ってる人は、別に他の人の同調など求めません。
私は確かめた!
私は知っている。
それだけです。
ここにいる全員が天動説でも、それでも地球は回っているのです。
逆に自分の説に自信がない人が多数派工作をするのでしょうね。
他の人が同調してくれないと自分の信念が揺らぐ(笑)
同調を求めるのは自信のなさの証明です。
誰かが同調してくれないと揺らぐような信念なら、さっさと崩壊した方がいいです(笑)
さっさと天動説から地動説に素直に乗り換えた方がいい。
それが進歩というものです。
私はお母さんのように生きたいと一度も思ったことない。
お母さんにはいつも笑顔で幸せね〜楽しいね〜ってそれだけでどれだけ安心感があるか。
いつも不機嫌、不安、心配、そんな顔見て育ったら社会は笑えない、厳しい、生きていくの大変としか思えないし、その通りの世界しか見えなかった。
ですね。
私は親が子供に贈れる最大の贈り物は、親が人生を楽しんでいる姿をみせることだと思っています。
人生は素晴らしい、生きるって素晴らしい。地球って色々あるけど案外いいところだ。
それは親が人生を楽しんでいる姿を見せて、子供もなるほど、大人になるって楽しそうだな、生きるって面白そうだなという、人生に対する肯定感を持てるからです。
だから自分の子供に贈れる最大の贈り物は、親自身が人生を楽しんでみせることです。
今ここまでわかったんですが、これをわかるために、今世、無条件の愛を学ぶために来たんだ、っていうのは漠然となんですが、ずーっと課題というか…なんかあったんですね。だからこういう親を選んだのかなと。
そうですね。
過去生などの色々ないきさつはあったかもしれません。
それが何だ!というんですよ。
この地球というのは実際には色々あるところだということは私もよく知っています。
人生に色々あったから、私は幸せになれないじゃあどうしようもない。
色々ある地球だけど、色々ある人生だけど、それでも私は幸せに生きていく。
人は神様じゃないんだから、色んな親がいる。
地球には色んなことがある。
そんなものです。
それらをすべて受け止めて、それでも私は幸せに生きていく!というのが無条件の愛です。
これからこれを癒し、同じように悩む子育てお母さん、子ども、誰かの役にたてたらなぁと思うんですよね…誰かわかってくれる人がいたっていう人がいたらって。
人をわかってあげるのはいいですよ。
それはその人には癒しや慰めを与えるかもしれません。
しかし、自分はわかってくれる人なんて求めちゃいけない。
わかってくれる人なんてひとりもいなくても幸せになっていかなくちゃいけない。
「誰かわかってくれる人がいたら」
ということさえもひとつの条件なんですよ。
それは無条件の愛とはいえないんです。
「誰もわかってくれる人がいなくても」私は人生を愛するといわなくちゃいけない。
自分の幸せに外部の条件を設けちゃいけない。
そういう条件がひとつ増えるごとに幸せになるのが難しくなるのです。
親はこんなだ、
社会はこんなだ、
地球はこんなだ、
そして誰もわかってくれない。
でも私は人生を愛する。
そう言わなくちゃいけない。
それが無条件の愛です。