【昭和天皇】はマッカーサーに「私を殺してください。しかし、私の名において行動した人は殺さないで欲しい」と言っていた。

もうすぐ終戦記念日だが、有名な「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、」は玉音放送の中ほどのごく一部に過ぎない。
玉音放送は以下のように始まる。

(終戦の詔の原文はわかりにくいので、(下に)現代語に訳しています。)

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以(もっ)テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

(私は深く世界の大勢と日本の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるあなた臣民に告げる。)

昭和天皇が原爆投下を事前に知っていたとか、色んな議論があるのは私も知っている。これから事実は明らかになっていくだろうが、当時誰も終戦を言い出せない雰囲気になっていた日本で、昭和天皇が自ら終戦を宣言されたことで、日本は本土決戦を免れ、戦後復興の道を開いた。

最後は、「克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ(よく私の意を体せよ)で終わる。平成天皇は、自ら昭和天皇の意を最も体するように努められたと思っている。

だから、平成天皇は自分が退位することによって憲法改正を阻止された

抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(けんけん)措(お)カサル所

(そもそもに日本国民の健康と安寧を図り、世界の国々の共栄の楽を共にするは歴代天皇の規範であり、私も常々心して、やまないところである。)

曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦(また)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如(ごと)キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス

(先に、米英二国に宣戦した理由もまた、実に日本の自存と東アジアの安定とを願うからであり、他国の主権を排し、領土を侵すが如きはもとより私の志ではない。)

一億衆庶ノ奉公各々(おのおの)最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)を殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而(しか)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保(ほ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是(こ)レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

(一億国民の努力、おのおの最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢は我々に利あらず、そればかりか、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、しきりに罪のない人々を殺傷し、惨害のおよぶところ、まことに測り知れない。しかもなお交戦を継続するならば、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明も破却するこのようなことがあれば、私は何をもって億兆の国民を保ってきた歴代天皇の神霊に謝ることができようか。これが私が日本政府に共同宣言に応じさせるに至ったところである。)

(今の政治家は、自分たちの今の利益しか考えていないが、昭和天皇は、「億兆の国民を保ってきた歴代天皇の神霊に謝ることができようか。」と、日本歴史という非常に長期の視点、歴代天皇の神霊に顔向けできないという現世を越えた価値観に動機を持っていた。)

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想(おもい)ヲ致セハ五内(ごだい)為(ため)ニ裂ク且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス

(私は日本と共に終始東アジアの解放に協力した諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ず、日本国民にして戦陣に死し、職域に殉じ、不幸な運命で亡くなった者、その遺族に想いを致せば、内臓が引き裂かれる思いである。また戦傷を負い、災禍を被り、家業を失いたる者の生活に至っては私も深く憂いている。思うに今後日本の受ける苦難は尋常ではない。)

爾臣民ノ衷情モ朕善(よ)ク之(これ)ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

(国民の本心も私にはよくわかっている。しかしながら私は時運のおもむくところ、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって永遠の未来のために太平を開きたい。)

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或(あるい)ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

(私は日本国を護持し得て、忠良なる国民の真心を信じ、常に国民と共にある。もし激情してみだりに事を起こしたり、あるいは国民同士が互いに陥れたり、時局を混乱させ、大いなる道を誤り、信義を世界に失うがごときは私は最もこれを戒める。)

宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝ヘ確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ

(どうか国を挙げて一家子孫へあい伝え、固く日本の不滅を信じ、(国の再生の)任重くして、道は遠いこと思い、総力を将来の建設に傾け、道義を厚くし、志を固くして、誓って日本国の精華を発揚し、世界から取り残されないようにしなければならない。あなた方国民は、よく私のこの意を体せよ。)

敗戦国の元首の末路は通常は哀れ

多くの戦争指導者はため込んだ財産をできるだけ抱えて殺されないように他国に逃げるなどしている。

第一次世界大戦後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ、オランダで余生を過ごすことを余儀なくされた。

第二次世界大戦の日本の同盟国、ドイツ・ヒットラー、イタリア・ムッソリーニもその地位にとどまることはできなかった。

昭和20年9月27日、マッカーサーは天皇もまた命乞いに来たと思っていた。

私を殺してください。しかし、私の名において行動した人は殺さないで欲しい。

しかし、マッカーサーの通訳バワーズ(Bowers)少佐の証言によると

(45秒から)

昭和天皇は以下のようにマッカーサーに申し出た。

”Kill me.But not,Those who actived in my name.”

(私を殺してください。しかし、私の名において行動した人は殺さないで欲しい。)

藤田尚徳氏の『侍従長の回想』昭和三六年にも以下のようにある。この時「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。

敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。

お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。

昭和天皇の割腹自刃の計画は、三度あったという。
生母貞明皇太后は、(侍従に)陛下から目を離さないよう命じている。

死を決意している昭和天皇に、貞明皇太后が、皇霊殿に陛下を招き高い位置にある皇霊殿から見える東京の市中をお見せして

(当時の東京 右下の丸いドームは両国国技館)

「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」といさめたとされる。

昭和天皇全国に御幸へ

昭和20年(1945年)10月昭和天皇は宮内府次長へ以下のように語られた。

「この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」

11月には陸軍省、海軍省が廃止解体される。

翌昭和21年2月19日、昭和天皇は荒廃した日本全国に巡幸をはじめられた。その日皇居を出た車が向かったのは、川崎の肥料工場だった。

GHQの高官の間では「ヒロヒトのおかげで父や夫が殺されたのだから、旅先で石のひとつでも投げられればいい。」

「ヒロヒトは神ではなく、40歳を過ぎた猫背の小男であるということを日本人に知らしめてやる必要がある。」といった会話がなされていたという。

当時の日本には、まだ軍人たちがもっていた兵器があふれており、行政はまともに機能せず、食糧は不足して人心は荒み治安が悪化していた。

昭和21年5月には、25万人が食糧を求めて皇居に集まっている。

(昭和21年5月12日)

(昭和21年5月19日)

このような殺気だった民衆の中に、天皇が大した警備もなく入っていけば、暴徒に襲われる可能性もあった。


昭和天皇は、訪問先で戦災にあった人や外地からの引揚者を必ず訪ねた。

浅間山山麓大日向(おおひなた)地区への御幸

(19分20秒から)

浅間山麓に広がる軽井沢町、大日向(おおひなた)地区。戦前開拓農民として満州に渡ったこの地区の人々は、昭和22年帰国し、再び浅間山麓に入植しました。

昭和天皇は車を降り、歩いて1時間かけてここを訪問している。

カラマツの林を切り倒しながら痩せた火山灰の大地を開墾し、

ようやく開墾した8ヘクタールの土地に痩せ地でも育つソバをまき、その白い花が咲く10月、満開の畑の前で住民は陛下を迎えた。

陛下の最前列にいた堀川忠雄さん。ここまで上ってこられた「陛下が『長い間ご苦労だった。これからもがんばってください。』と言われた時に、もう涙が出ちゃって、私は陛下の顔は見ていたけどね。『はい。がんばります。』と言ったきり、あとは口ががたがた震えて、涙がポロポロ、なんともあの時の感激は忘れることはできませんね。」

厳寒の満州を大変な苦労をされて開拓され、敗戦ですべてを失い、命からがら戻ってきて再入植し、ようやくわずかばかりのソバの花が咲こうとしている時、

食べる物もなく、畑もこれからで苦難の極みにある地区に歩いて1時間もかけて訪問するとは、昭和天皇の思いの強さが伝わる。

佐賀県因通寺への御幸

昭和24年5月24日、昭和天皇は佐賀県三養基郡にある
因通寺に行幸されている。

(「天皇さまが泣いてござった」より。)

・・・

この挨拶のあと陛下は、
孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしません。
昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っていました。

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられました。

そして陛下はひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました。」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」
とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、
深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、
「おまえたちは、
遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
けれど今こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。
これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。
元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から
「さようなら、さようなら」
とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、
いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔で
ご挨拶なされるのです。

次の部屋には、
病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っていました。その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に「大切に病を治すように希望します」と申されました。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。

それまでは、どのお部屋でも
満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせました。重苦しい時間が流れました。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に
近づかれました。
そしてやさしいというより静かなお声で、
「お父さん。
お母さん」
とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわかりません。

けれど陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、三人の女の子の真ん中の子の手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。

陛下はその二つの位牌が
「お父さん?お母さん?」
とお尋ねになったのです。

女の子が答えました。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになられました。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。
佐世保の引揚援護局には、
ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子がそう答えている間、
陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい」と、
それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、
この子は
「いいえ、淋しいことはありません。
私は仏の子です。
仏の子は、
亡くなったお父さんともお母さんとも、
お浄土に行ったら、
きっとまたあうことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、
お母さんに会いたいと思うとき、
私は御仏さまの前に座ります。
そしてそっとお父さんの名前を呼びます。
そっとお母さんの名前を呼びます。
するとお父さんもお母さんも、
私のそばにやってきて、
私を抱いてくれます。
だから私は淋しいことはありません。
私は仏の子供です。」

こう申し上げたとき、
陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げていました。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしました。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。
部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。
これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちました。

そのときこの女の子が、小さな声で、
「お父さん」
と呼んだのです。
これを聞いた陛下は、
深くおうなずきになられました。

その様子を眺めていた周囲の者は、
皆、泣きました。
東京から随行してきていた新聞記者も、
肩をふるわせて泣いていました。

子供達の寮を後にされた陛下は、
お寺の山門から、お帰りになられます。
山門から県道にいたる町道には、
たくさんの人達が、
自分の立場を明らかにする掲示板を持って
道路の両側に座り込んでいました。

その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、
そのためにみんなが悲しんでいるが、
自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。
たったひとりの息子でございました。」
そう返事しながら、
老婆は声を詰まらせました。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。
激しい戦いだったそうですが、
息子は最後に天皇陛下万歳と言って
戦死をしたそうでございます。
でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。
軍のほうからいただいた白木の箱には、
石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、
息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも
帰ってくればと思いますが、
それはもうかなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。
息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、
天皇陛下さま、長生きしてください。
ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、
陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。

・・・

昭和天皇は、皇居に戻り次の歌を詠んでいる。

みほとけの
教へ まもりて すくすくと
生い育つべき 子らに幸あれ

天皇については色々ネガティブな噂があることも知っているが、このようなエピソードのある国家元首を持つ私たち日本人は、諸外国よりもかなり幸せだ。

今の、目先の自分たちの利益しか考えない政治家を目の当たりにするとき、満州から引き揚げたまだ生活の安定しない引揚者を訪問したり、戦災孤児や、戦死者遺族を訪ね歩いたところで、批判を受けこそすれ、天皇にとっては何の得にもならないことだった。途中で暴徒の襲われる可能性も十分にあった。

それをのべ3万3千キロ、165日間も続けられた。

原爆後の長崎で医療を続け、自らも白血病になった永井隆さんは陛下に実際にお会いした時の印象を、著書「いとし子」に以下のように書き残している。

この度のご巡幸で陛下は、ご巡礼のようなお気持ちで、お歩きになっているのではないかと、密かに私は思いました。亡くなった国民を弔い、生き残った国民をなぐさめ、励ましてくださいました。しかし、陛下がご覧になりたいのは、戦争犠牲者の悲しい顔ではありませんでした。涙を拭い去り、ほがらかに、雄々しく、どん底から立ち上がる姿でありました。いとし子よ。そなたたちは本当によいものを献上しましたね。それは笑顔、暗い影のすっかり消えてしまった、ほがらかな笑顔でありました。そなたたちの、あの笑顔をご覧になって、きっと陛下はご安心なさったことでしょう。

私も昭和天皇は、巡礼をされたのだと思っている。

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